車窓から身を乗り出し、力一杯に手を振る少年少女たち。集団就職列車の第一号が青森駅を出発したのは、1954年(昭和29年)の4月である。
世の中は景気回復の兆しが見え、首都圏の労働力不足が深刻な問題となっていた。日本の発展を支えるために、東北が人材供給の役割を担う時代が始まろうとしていた。
その約1年後、昭和30年2月5日の午後3時半。戸田会長は一級講義のため、仙台駅に到着した。前年暮れに初代渉外部長に就いたばかりの池田室長も一緒である。
二人が向かったのは東北で最初に開局した民放の東北放送。午後4時半から、局の要請でインタビューを受けることになっていた。
テーマは「生活と信仰」。すでに東北の会員世帯は3万に迫ろうとしている。インタビューは学会の正しい姿を伝える絶好の機会でもあった。
マイクや録音機材が準備された一室に、戸田会長と池田室長が入っていく。アナウンサーが、よく通る声で質問を始めた。
「戸田さん。創価学会でございますが『創価』と申しますと、ちょっと聞いた人は分かりにくいんじゃないかと思いますが」
会長が言葉を引き取る。
「初代の牧口会長が『利善美』という価値を発見しました。人生とは価値の創造だと。『価値創造』が人生の目的なんだと。そこから、創造の『創』価値の『価』を取って創価学会としました」
インタビューは、宗教と生活の関係、相対的幸福と絶対的幸福、宗教と政治など、哲学や政治的な内容にも踏み込んでいく。自由闊達に論じる会長のそばで、池田室長がうなずいている。
翌2月6日の午前6時半。戸田会長の気迫に満ちた声が、電波に乗って、みちのくの大地に轟いた。
「たとえ事情がどうあっても、絶対に、幸福の境涯に入るための信仰です!」
テレビ放送は2年前に開始されたばかり。まだラジオが重要な情報源の時代である。放送を心待ちにしていた仙台の会員は、胸がすく思いだった。
昭和31年4月1日と12月16日にも、東北放送のインタビューに応じた。最後の収録で「創価学会に青年が多いのは、なぜですか?」と尋ねられた。会長は言い切った。
「哲学が深いからです。若い青年は、その哲学を究めようとする。極めようとすれば、ますます山が高くなってくる。だんだんと山に登りますから、楽しみも増えるというわけです。だから、青年は一度ついたら学会を離れないのです」
今も池田会長が、折々に語る指導である。東北の言論闘争は、師弟二人のラジオ・インタビューから幕を開けた。
現在、東北放送の社長である永野為光は語る。
「草創期の民放ラジオで、宗教の番組は人々の大きな支えとなっていました。なかでも戸田城聖二代会長のインタビューを方送できたことは、わが社にとって大きな意義のあるものでした。これは、当時の渉外部長であった池田会長のご尽力なしでは、叶わなかったと思います」