函館の岸壁を離れた青函連絡船「羊蹄丸」は、船首を津軽海峡に向けた。
昭和46年6月12日。北海道指導を終えた池田会長が、船内の一室で本を積み上げ、ペンを握っている。青森まで約4時間の船旅。揺れる船上で、本の見返しに東北の会員への贈言を揮毫し続けた。
翌13日の日曜日。記念撮影会が青森山田高校で行われた。地元の青森市内はもとより、八戸や弘前、下北からも続々と来る。バスは数十台も連なっている。
「すごいことになってるなあ」
高校側の受け入れ担当者だった教頭の木村隆文は驚いた。大人数なのに混乱がない。すみずみまで配慮が行き届いている。校舎を汚さないように仮設トイレも用意していた。池田会長自身からも丁重な挨拶を受けた。
体育館の一隅。ぺらぺらのベニヤ板で仕切られた一角が会長の”控え室”だった。撮影の合間に、戻り、冷たいおしぼりで顔をぬぐう。準備が整うと「よし!」と膝を叩いて立ち上がる。1グループ200人以上が待つ撮影台に向かった。
居合わせた読売新聞の記者。後日、聖教新聞に寄稿している。
「体中に生気がみなぎってまるで真剣勝負に向かう王者のように見えた。あるとき、そのことを会長に聞いてみた。『記念撮影は同志との無言の誓いですからね。いい加減な気持ちでは一緒に座れません』。キリリと答えが返ってきた」
シャッターが下りるとサッと立ち上がり、マイクを握る。
「一番遠くから来た人は?」「一番年配の方は?」
「のびのびとした信仰をやりましょう。信心は悠々と楽しくなければいけません」
明るい返事が返ってきた。
「田植えのほうは、心配ございませんね。冷害はどうでしょうか。大丈夫ですか」生活を慮る。
「呼吸を合わせて仲良くやれば、何でもできる。百人の力が千人の力になる。それが団結の力。それで学会はここまできたんです」
総勢3000人の参加者の姿から、読売の記者は感じた。
「さまざまな生活環境の中で、病も、失業も、差別も襲ってきたろうし、孤独と不安の淵を歩いた日もあったろう。しかし、この人達は、若き非凡な指導者と、仏法に機縁して、いま、幸福な人生を生きていることを、生き抜けることを確信しているようだ」
合間にシュプレヒコール。会長は、都会を見返すような強い言葉を選んで、声を上げるようにうながした。
「東京が何だ!」声が小さい。「もう一度」「もう一回」
幾度も呼びかけるうちに、みな腹の底から叫んでいた。
「その心意気だ!」
役員だった上村武之助は述懐する。
「東北人は寡黙です。私たちの殻を打ち破ってくれたと思います。」
大都会に依存するのではない。自分が強く生きるしかない。