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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 早朝、丹野勉の家で電話のベルが鳴った。地元の幹部からである。

「今日、池田先生が丹野君のサクランボ園に寄ってくださることになったよ」

昼前には到着するという。

 1987年(昭和62年)の7月7日。5日間にわたった東北指導の最終日である。

会長を乗せた車は山形の市街地から県道20号線を北上し、白川の土手下で止まった。左岸に目当てのサクランボ園がある。

 丹野が迎えに走る。会長は白いキャップを取って応えてくれた。

「バーン!」「バーン!」轟音が四方八方で鳴り響く。果実から鳥を追い払うための爆音機だった。

「フランス革命が始まったみたいだね」会長の一言に、緊張がほぐれる。


 道すがらカメラのシャッターを次々と切った。川べりの風景、軽トラックを運転する壮年、近所の犬・・・・。

「こんど、パリで写真展でもやるから、そのために撮っているんだ」

こんな片田舎の風景をパリに。

 まだ収穫せずにおいていたサクランボの大木が1本あった。樹齢30年。品種名は「ナポレオン」。総量200キロにもなる真っ赤な実がつやつやと美しい。丹野は、もぎ方を実演。軸を上に持ち上げるように採るのがコツだ。会長は摘んだサクランボを、みなと一緒にほおばる。

 木下に白にテーブルとイスが4脚、置かれた。母親も招かれ、会長夫妻と懇談した。

「農業は儲かるかい?」

果物の輸入自由化が広がっていた。果実王国・山形でも先行きが見えない。

「働く時間の割には、そんなに儲かりません」

率直に答えると、しばらく会長は考えて語った。

「新しい品種に挑戦することも大切だね。基盤はあるから、あとは工夫次第だ」

「今後は、消費者を意識した物作りが、ますます重要になってくる」

母親には、家庭の状況をつぶさに尋ねてくれた。山形弁で聞き取れなかっただろうが、笑顔で何度もうなずいていた。


 丹野は7年前、東京の大学で農学部を卒業してからUターン。仕事は父親から教わった。農業の先輩だが、反面「親父の言うとおりには、やりたくない」と対抗心があった。

 その父も2年前に他界。それからというもの、仕事になんとなく張り合いがない。ちょうど悶々としていた時期だった。

 作業での課題は多岐にわたるが、張り合いとか、やる気といった心理的な要因も無視できない。丹野はその典型だった。

 補助金や兼業収入だけでは埋まらない。精神的な空白を埋める指導者が農村に減ってきている。

 低く高く、トンボが飛び交う。会長が人差し指を差し出すと、スーッと先端に止まった。

 「頑張れ。40代が勝負だ」

 20年以上経った今も、丹野は新しい作物や品種の栽培、販売ルートの開拓をおこたらない。

地域でいち早く無農薬栽培もはじめた。




 うつ病の症状は人によって、それぞれ違いがあります。


昨日のブログで書き忘れたのですが、私の場合は原因不明の首の後ろの痛みが始


まり、その後決断力がなくなりました。仕事で同僚に何か聞かれても、すぐに答えられなくなりました。


 仕事を辞めてからは、激しい自己嫌悪。強い罪悪感に襲われ、とても苦しい思いをしました。


買い物の最中に、悲しくもないのに、涙が訳もなく流れてきました。


これはおかしいと思い、やっと精神科を受診する覚悟ができました。


 うつ病の症状は様々ですが、身体的な症状と、精神的な症状があります。


 まず、身体的な症状では、頭痛がする、頭が重い、よく眠れない、食欲がない、体がだるい、疲れやすい、性欲がない等です。


精神的症状では、物事に集中できない、何もやる気にもなれない、会社に行くのがおっくう、イライラする、気分が重い、焦りばかり感じる、以前面白かったことが、最近は面白くない等です。


 普通の憂鬱と、うつ病の違いでは、憂鬱は、程度は弱く、現実からかけ離れるほどではないのに対し、うつ病では、強い落ち込みが2週間以上続きます。


人に会いたくない、電話に出られない、外に出たくない、などがあります。


一番特徴的な症状は、朝は気分が最悪なのですが、夕方になると気分がよくなることです。


最悪の場合は、死にたいと思うようになります。


 精神科や心療内科に行くには抵抗があるとおもいますが、うつ病は早く受診すれば早く治る病気です。


私のようにならないためにも、早めの受診をお勧めします。


 

 聖教新聞の束を摑んだ、谷藤光子の手が止まった。

「名誉会長、13年ぶりに盛岡を訪問 岩手文化会館」

一面の五段見出しが目に飛び込む。昭和60年5月21日の早朝である。配達員の谷藤は、同じ組織の女性の顔を思い浮かべた。加藤晴美。二人の幼い娘を持つ主婦だが、つい二週間前に夫を亡くしていたのである。

”なんとか、一目だけでも、お会いできないだろうか・・・・”

谷藤は新聞を自転車のカゴに詰め、はやる気持ちを抑えながらペダルを踏んだ。


 午前7時半すぎ。谷藤は家族を送り出すと、加藤晴美たちに声をかけ、タクシーを奮発した。

「いいところに連れて行くから、急いで」

岩手文化会館に来たものの、中に入れない。しばらくして、やっと諦めがついた帰り際「ここに先生がいるんだよ」と外から窓を見上げた。

 その時、3階で白いレースのカーテンがさっと開いた。以外にも、窓の奥で池田会長が手招きをしている。それっと、館内へ走った。


 大広間に入ると、香峰子夫人が姿を見せた。

「さっき主人は『人間革命』の締め切りが近いので書いておりました。フッと外を見たら、皆さんがいらっしゃったから」

 一緒に勤行をしてくれた。谷藤は思い切って、夫に先立たれた加藤の話を切り出した。じっと聞き入る香峰子夫人。「私も次男を亡くしました」

 前年秋のことである。自身の体験を通しながら、力強く生きようと励ました。

「二人のお子さんは、必ず立派になります。大切なのは、これからです。覚えておきます。加藤さんですね」

いったん席を外したが、すぐ戻ってきた。

「主人から預かってきました」白い封筒が二つ。加藤に手渡された。「長女様、次女様」と記されている。

「二人のお子さんのお父さんは、先生がなってあげるから。子供の成長を楽しみに頑張りなさい、と言っておりました」

 加藤は医療関係の仕事に就き、女で一つで娘二人を育て上げた。

 うつ病を発症してから約13年経ちましたが、今思えば前兆がありました。


当時私は近くのスーパーでパート勤めをしていました。


家庭では、父親の小言や息子の事、夫婦関係にも悩んでいました。


うつ病を発症する前年の冬頃、首の後ろが痛みだしました。


手で揉んだり、シップを貼ったりしましたがよくなりません。


それから約4ヶ月後には、楽しかった仕事が突然辛くてたまらなくなりました。


悩んだ末、子供が小学校に入ったばかりだったので、子供と一緒にいてあげようと、


仕事を辞めることにしました。


しかし、症状はだんだん悪化するばかりでした。

 記念撮影会を終えた会長が、宿泊先の十和田湖畔のホテルに着いたのは、6月13日の夕刻である。翌14日。朝から気にかけていることがあった。新聞各紙に目を通したいが、山間部である。早朝の配達は望めない。

 その会長のもとへ、市街地から朝刊数紙を届けようと、十和田の学会員・小川政志たち3人は車を走らせた。

 午前8時ごろ、後部座席の樋口晴子が声をあげた。「あれっ、今の車は!」

会長車と十和田湖畔ですれ違い、あわててUターン。後を追うと奥入瀬渓流沿いの道に入った。緑が濃い。水音が樹間に反響している。

 曲がりくねった道の途中で、車が止まった。会長が「白糸の滝」のあたりで遊歩道に降りていく。100メートルほど離れた地点で小川たちも停車した。新聞を手に近寄る。突然、岩陰から声がした。

「君のことは知っているよ」会長が歩み寄ってくる。

「僕も知っています!」予期せぬ返事に会長は大笑い。カメラを構え、香峰子婦人も入った4人を被写体にシャッターを切った。

「奥入瀬は、どこをみてもいいね。今の写真送るからね」

撮り終えると、水際で新聞を広げる。日中の橋渡しを託した公明党の代表団が、第一次訪中に出発する直前だった。方中断に関する記事がないか。目を凝らしてページをめくる。

「誠実の二字で友好を広げて欲しい。それが私の願いだ」と新聞から顔をあげて言った。

今日、池田会長が日中友好の実現に果たした役割は誰もが知る。公明党代表団の訪中も、周恩来をはじめ中国首脳と会長の信義あればこそであり、あえて会長が「具体的な外交の橋渡しは、宗教者である自分よりも党に任せたい」と決断したからにほかならない。

 後年も会長は語っている。「誰がやったとかではない。日中の間に友好が結ばれることが大事だ。あとは枝葉だ」その心情の一端が奥入瀬での一言にも表れている。


 この時の奥入瀬を思い浮かべて詠んだ詩が「滝の詩」である。


 滝の如く 激しく

 滝の如く 弛まず

 滝の如く 恐れず

 滝の如く 朗らかに

 滝の如く 堂々と

 男は 

 王者の風格を持て