詰襟の学生服を着た佐瀬章が、眠い目をこすりながら仙台駅に急いだのは1951年(昭和26年)7月15日の午前7時だった。改札の外に80人ほどの人だかりができていた。もうすぐ東京からの夜行列車が到着する。
「いっぱいだなぁ。池田さんって、どういう人だろうか」
佐瀬をはじめ、一行にとって未知の人物である。それでも仙台支部の支部長になっていた渋谷の鼻息が、やけに荒い。
「すごい人が仙台に来てくれるぞ」
その勢いに押され、朝からこんなに集まったのである。
あいにくの雨だったが、改札口から出たところで、からりとした声が響いた。
「おはようございます!雨の中、ご苦労さまです!」
さっと頭をさげた。何人か、東京からの同行者がいるが、それらのけだるい顔とは、えらい違いである。
「お世話になります。青年部の池田と申します」
日曜日のこの日、午後から座談会が開かれた。仙台駅の東に、戦災をまぬかれた街並みがあり、洋服店を営む熊谷宅が会場だった。
8名の友人をまじえ、計60名ほどが二間をぶち抜いた部屋に集まった。
東京から来た幹部が何やら小難しい話を得々としゃべり続けている。サッパりわからない。ぽかんと口が開きだしたとき、司会が告げた。
「続いて体験談。池田班長」
結核を克服した体験である。おもしろい。分かりやすい。理屈ではなく、実感したことを自分の言葉で伝えてくれる。戸田第二代会長の事業を必死で立て直した経済闘争も語ってくれた。
続く質疑応答では、次々と手が挙がった。やがて友人のほとんどが入会を希望した。
会場を提供した熊谷よね。
「池田さんと言う青年部の班長さんが、うちに来てくれた。目が鋭くて、素晴らしい方でね。礼儀正しく、ハッキリと話しておられた。折伏が上手で、いっぱい入会したんだよ」
彼女の一生の語り草だった。
夜は別会場で御書講義。
終了後、池田班長は青年たちと車座になった。4日前に行われた男子部結成式の様子を語る。
「先日、東京で、ついに男子部が結成されました。今日の仙台と同じく雨でした。豪雨でした。戸田先生のもと、青年部が決然と立ち上がる時が来たのです!」
佐瀬は度肝を抜かれた。すさまじい気迫である。背後の障子までびりびり震えるように感じる。
「青年部の戦いで、戸田先生を必ず東北にお迎えしようじゃないか!」
この春、高校を卒業したが、進路は決まらず浪人。学会の活動にも消極的だったが、心がスパーンを一変した。
「エライことになったなぁ!よーし、オレもやるぞ!」
4ヵ月後、学会指導部長の柏原ヤスら3人が東京から仙台にきた。
雑然とした”未開の地方組織”を想像していたが、目を見張った。
拡大の意気さかん。各人の信仰への姿勢も、組織の在り方も、真っ直ぐで曲がったところがない。
「いったい、いつの間に・・・・・。東京のA級支部以上に楽しみではないか」
数日後、聖教新聞に「仙台支部ルポルタージュ」が大きく載った。興奮冷めやらぬ見出しが並ぶ。
「整然たる陣容 多数の人材と融和 この支部には実力がある」
誰よりも喜んだのは、戸田会長である。翌52年3月、初めて仙台の地を踏む。池田班長が布石を打ってから半年余りで、東北の会員数は約3倍に達した。
会長は宣言した。
「よし。東京から始まった学会の組織に”右の腕”ができた。この仙台が東日本の出城だ」
以来、戸田会長の東北指導は5年間で15回に及ぶ。