篠原美保子は広島平和記念公園の片隅で息を殺した。1975年(昭和50年)11月8日の午後である。
原爆慰霊碑までおよそ300メートル。視線の先で、池田会長が歩いている。青年が掲げる花環を先頭に、ゆっくりと慰霊碑に進む。
篠原は胎内被爆者である。
この公園の上空で原爆が投下された時、母の胎内にいた。30年が過ぎたいま、篠原は母になろうとしている。初出産を控え、7ヶ月の身重だった。
胎児がお腹を蹴る。だがーもし自分と同じ後遺症の悲劇が、この子に待ち受けていたら・・・・・。
中学一年の時、歯茎から出血し始めた。全身に赤い斑点。紫斑病だった。
高校2年で再発。不正出血も続く。入院する気にもなれず、家に閉じこもった。 死に場所を求め、自宅近くの三滝山の奥深くをさまよった。絶望して大田川の川辺にも立った。
就職差別。結婚差別。被爆者の苦しみは後遺症だけではない。本心を言えば、学会の行事で被爆者として登壇することも苦痛だった。過去に目をつぶり、口を閉ざしたかった。
11月9日に広島で学会の本部総会が開かれる。その前日、会長が平和公園で献花すると聞き、駆けつけた。こっそり建物の柱の影から会長を見つめ、慰霊碑に手を合わせた。邪魔になっちゃいけん。急いで立ち去り、噴水の前の信号で立っていると車が通った。
「あっ、先生!」窓ガラスを下ろして、会長が手を振っていた。
興奮気味に帰宅すると、姑が仏壇から紙片を持ってきた。「生きんさい」。本部総会の入場整理券だった。姑の分だが、篠原が参加することが一家にとって一番プラスと考えたようだ。
翌日、総会の会長講演。ひときわ胸に突き刺さった言葉がある。
「広島の皆さんには、生きる権利がある。生存の権利がある。生きて生きて、生きぬかなければならない!」
いつも死に引き寄せられがちな、弱い心を断ち切られた。絶対に子供を生もう。それが私の生きている証だ。翌年2月、長男を出産。子宝に恵まれ、元気な二男一女の母になった。
篠原は変わった。「一人でも一言でもいい。しゃべらんといけん」
広島市内の大学で被爆体験を語り始めて10年以上にある。相手は米イリノイ大学からの留学生。アメリカ、中国、シンガポール。国籍は多様である。
日本語しかできないが、もっとストレートに語りかけたい。最近では、英語原稿の全文にカタカナで発音を書き込んでいる。あれほど過去を隠していた自分が、世界に呼びかけようとしている。次は中国語に挑戦する予定だ。
篠原の被爆手記は、アメリカで刊行された大学生向けの教科書にも掲載された。