なぜ、あえて東京裁判を論じたのか。池田は端的に述べている。
「あのような未曾有の惨禍を生んだ世界大戦の後始末が、どのように行われたかに思いを致したかったからである」(「宣告」の章)と。
それは、青春時代を戦争の灰色で塗り込められた池田にとって、極めて自然な問題意識だった。池田自身も、東京裁判について「人智を尽くした拙劣な一つの決算書」(同章)等と、厳しい評価を下している。
また「宣告」の章には、戸田城聖が「あの裁判には、二つの間違いがある」と述べた印象的な場面がある。「第一に死刑は絶対によくない。無期が妥当だろう。もう一つは、原子爆弾を落としたものも、同罪であるべきだ」
この言葉は、のちに戸田が「第一の遺訓」として発表する「原水爆禁止宣言」(1957年=昭和32年)の萌芽ともいえよう。パール判決書には、戸田の指摘や池田の平和観と強く響き合うものがあった。
「彼(=パール)は被告たちの『無罪』を主張したが、それは日本の太平洋戦争を、いささかも肯定しているものではない」(同章)
1952年(昭和27年)、53年と再来日したパールは、日本の再軍備を強く非難。平和憲法を守り抜けと説いている。
「碩学の法学者(=パール)は、太平洋戦争の真因を、冷徹に追及し、なにが真実で、なにが正解か、錯雑きわまりない国際戦争のすべての経緯を識別し、誇りと自信に満ちた判決書のために、畢生の情熱を傾けた」-この『人間革命』の一文が聖教新聞に載った日付は、1967年(昭和42年)1月10日。
まさにこの日、パールはカルカッタ(現コルカタ)で80歳の生涯を閉じた。
「私は感無量の思いに襲われ、一面識もなかったが、あえて博士の功労をしのび、弔電を打たせていただいた」と、池田は同感の「あとがき」に記している。
8年後。パールの子息であるプロサント・パールが、池田のもとを訪れた(1975年4月25日、聖教新聞社)
「今回の訪日で最大の出来事は、池田先生とお会いできたことであり、まるで夢のようです」
「偉大なお父様の姿を偲びながら、ゆっくりくつろぎながら語り継ぎましょう」-「非暴力主義」や「国連の役割」などを巡り、会見は2時間に及んだ。プロサント・パールは、孤高の父の業績を大きく取り上げた池田に、深い感謝を込めて伝えた。
「私は、池田先生の弟だと思っております。また私は、1000万の創価学会員の、1000万1人目のメンバーであると思っています」
現在、インド創価学会では、小説『人間革命』『新・人間革命』を学ぶことも、主な活動の柱となっている。