みなさん、いつもペタやコメントをくださり、ありがとうございます<m(__)m>
「民衆こそ王者ー池田大作とその時代」シリーズを連載してきましたが、今日からは
最終章「師に捧ぐー(人間革命)12巻の完結」を連載します。
頑張りますので、宜しくお願いします。<m(__)m>
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最終章「師に捧ぐー(人間革命)12巻の完結」を連載します。
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一人。また一人。また一人。膨大な人数と、地道な対話を続けるなかで、池田は考え続けていた。
いつ再開するか。
1980年の7月末。聖教新聞の担当記者に池田は、「『人間革命』の連載を再開したい」と語った。
すでに聖教新聞紙上で、新連載「忘れえぬ同志」をスタートすることが決まっていた。池田とともに、茨の道を切り開いてきた功労者たちを讃える隋筆である。
担当記者は躊躇した。
・・・・・『人間革命』は池田のライフワークである。それを再開すること自体が、宗門から攻撃の対象になってしまうのではないか・・・・・。池田の身を案ずる、弟子の真剣な心だった。しかし、池田は、懸念を一蹴した。「私が、批判の矢面に立てば、済むことだろう。そんな批判は初めから十分わかっている。それでは、どうすれば今、皆が立ち上がることができるんだ!やるしかないだろう」
8月10日。『人間革命』第11巻の連載がスタートする。章の題名は「転機」。第10巻の終了から、2年の月日が経っていた。
連載再開が決まってほどなく、池田は担当記者に言った。
「体調が優れない。悪いけど、私が口述するから書き取ってくれないか」
1980年は冷夏だった。当時、池田は神奈川文化会館、立川文化会館、創価大学などを移動しながら、執務を続けていた、疲れもたまっていた。
その日。狭い畳の部屋だった。池田は額にアイスノンを置いて、仰向けになっていた。足にはタオルが巻いてある。
「悪いが、少し待ってくれないか」
10分ほど経って、池田は畳をパーンと叩き、上体を起こした。
「さあ、やろう」。資料を見ながら口述が始まる。10分ほど続いた。息が上がってくる。「悪いけど、もう一度、休ませてくれないか」。横になった。また10分ほど経って、畳をパーンと叩く音。
「さあ、続けよう。皆が待っているからな」。再び口述。これが何度となく繰り返される。
池田が休んでいる間に、記者が口述を整理する。その原稿を手渡す時、池田の体の熱が伝わってくる。
首筋が腫れ、目は充血し、肩で息をしている・・・・・。
「さあ、続けるぞ」。起き上がる。こうした状況のなか、連載が進められた。
第11巻の連載が始まった8月10日早朝。大阪・住吉区に住む山下ハルコは、自宅前の路上で聖教新聞の配達を待っていた。家の中で待っていられなかった。
1年前、池田の会長辞任をテレビのニュースで知った。「なんでや!そんなの嘘や!」と叫んだ。聖教新聞から池田の指導記事が消えた。納得できない日々が続いていた。
この日の朝。新聞を受け取るや、何度も『人間革命』を読んだ。涙でなかなか読めなかった。再開の喜びを、聖教新聞「声」の欄に送った。
「お盆休みに入った。正午前でした。聖教新聞社から1本の電話がありました。もうびっくり仰天して・・・・・、。」
それは、池田からの伝言だった。
ー先生が山下さんの原稿を読まれて、「やっぱり関西だね。ありがたいね。ありがたいね。うれしいね。山下さんに御礼の電話をしてください」と伝言がありましたー
「私の人生で1番の、忘れられない日になりました」と満面の笑みで語る。
会長辞任から13年後に発刊された、単行本『人間革命』第11巻。その冒頭には、次のように記されている。
「妙法という法則は、永遠であり、不滅である。その法を信受し、流布する創価学会もまた、永遠であり、不滅である。
「烈風をも恐れず、豪雨にもたじろがず、吹雪に胸張り、我らは敢然と進む。尊き仏子の指名を果たしゆくために、民衆の凱歌のためにー」
報道されなかった”獅子のドラマ”連載終了
5月11日。岐阜の婦人部長だった石崎信子。功労者である大石忠雄宅への訪問の後、「宗門に切り崩された地域などの実情を聞いていただきました」。池田はそれらの支部の名前をメモに書き、シャツの胸ポケットにしまった。その日のうちに、その地域の支部長、支部婦人部長たちへ、激励として中国のお土産が届けられた。
岐阜文化会館での支部長会に出席した池田は、「久々に、学会らしい会合だったね」と喜んだ。健気に信心を貫いてきた百歳の老婦人(角はる)に、池田が直接カーネーションを渡す微笑ましい一幕もあった。
各務原文化会館での臨時の「自由勤行会」は、関西の時と同じく、多くの人が集まったため正面から入れず、池田は非常階段から入場した。
5月12日午後。諸行事を終え、静岡に向かうため岐阜羽島駅に到着してからも、「一目、先生に会いたい」と駆けつける人々がいた。改札に入る直前まで激励、懇談。集まった19人に「羽島グループ」と名付けた。
5月13日、静岡文化会館でも「自由勤行会」に出席。翌日、池田は大石寺に向かっている。
第五次訪中から、九州、関西、中部ー狭い紙幅には収めきれない、まるで春嵐のような、約2週間の激励行が終わった。
日蓮正宗の法主・日達は、池田の会長辞任から89日後に急逝(1979年7月22日)。その後、安部日顕が猊座に就いていた、明けて、昭和55年の6月、学会本部は山崎正友を、恐喝容疑で警視庁に告訴。宗門と学会を牛耳ろうとしていた者たちの思惑は、崩れ始めていた。
5月9日。愛知の中部文化会館には、空前の勢いで人が詰めかけた。
池田が出席した臨時の「自由勤行会」は、少なくとも午前中に5回、午後に6回行われた記録がある。
人の流れが止まらない。運営本部に、「地下鉄の名城公園駅の出口から、名城公園を通って中部文化会館まで、延々と列ができている」との一報が入り、誰もが耳を疑った。到底、会館に入りきらない。あまりの人数に、東京から来た幹部は勤行会を打ち切ろうと提案した。しかし、池田は言下に否定する。
「私が呼んだ方々だ。私が会うまで、絶対に一人も帰してはならない」
執念の一言だった。現・中部総主事の大野和郎をはじめ、中部の最高幹部たちは会館の外へ飛び出した。待っている学会員に事情を説明するためである。
「後にも先にも、あんなことは一度もなかった。先生にご迷惑をかけ、申し訳なかった。ただ、中部にこれだけ熱い師弟の絆があることを、誇らしくおもいました」と、中部参事の牧野洋一郎は恐縮しながら語る。
勤行会場の雪山会館だけでなく会議室、応接室など、多くの部屋が学会員で埋まった。池田はそのすべてを回り、汗だくになって記念撮影をし、励ましの声をかけ続けた。
それでも終わらない、夜の10時前後、屋外の階段で待つメンバーのもとに池田が歩み寄る。
「先生!」と声が起きかけるが、「シーッ、静かにするんだよ」と、池田自ら近隣に配慮し、列の整理をして、記念撮影する一幕もあった。すべてが終わったのは午後11時前だった。
中部滞在中の記念撮影は、「100回」を優に超えている。のちに池田は、この時を振り返って語った。
「(会長辞任の際に)全国の方々から10万通を超える手紙や電報をいただいた。そうした方々へお礼を申し上げたいこともあり、この中部の地を訪れ、自由勤行会を開催することになったわけである。関西でも7、8万人の方々がこられたが、中部では5万人から6万人の会員の方々が集ってこられた」
滞在日数から考えて、中部の人数は驚くべき数字である。
励ましの旅は終わらない。5月10日「聖教写真展」のテープカットを終えた池田は、岐阜に移動した。
5月4日から8日にかけて、池田は20を超える行事に出席。7日は、予定にない「自由勤行会」が2度開催され、質問会も行っている。
それらの数々の会合で、池田がどのような話をしたのか、報道されていない。
5月5日、関西女子部の部長会の直後、参加者がシナノ企画のインタビューに答えた音声が残いてている。入会4年目だった原田和美と小西みつ子の姉妹は、さっき聞いたばかりの池田の話を、こう要約している。
「この会合に苦しみながら来ている人もいるかもしれない。重たい気持ちで集った人もいるかもしれない。私自身も、本当に悩みがあり、重たい気持ちの時もありました。どうか、人の苦しみのわかる人になってほしい」
「親が信心していない人は、親孝行していこう。今まで親に育ててもらったのだ。感謝と尊敬の念をもって、接していこう」
5月6日。連日の激励でのどを痛めた池田は、救護の部屋を訪れた。
救護役員の亀田睦子。「蒸気を吸入されながら、寸暇を惜しむように色紙を書かれ、居合わせた人々を激励される様子を目の当たりにしました」
その色紙に、池田は綴った。
一生は夢
信心の炎のみが実
愛する関西の女子部のために