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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 1963年(昭和38年)、原田直之は、仙台の民謡歌手・我妻桃也の門を叩いた。荒削りの19歳。節は回らないが、声に伸びがある。我妻に才能を見い出された。

 内弟子修行は2年。身の回りの世話をすべてやった。雑用ばかり。歌は教えてもらえない。

「大切なのは人間だ。芸は後からついてくる」。厳しく叩き込まれた。25歳で独立、上京。

 民謡界は興隆期にあった。NHKに出演すると一気に脚光を浴びた。


 原田が民族芸能文化連盟(民文連、1969年創立)から出演のオファーを受けたのは、この頃である。民音と同じく、大衆への文化啓発を目的とする。主に郷土芸能の分野で事業を展開してきた団体である。

 大胆な提案を原田に示してきた。「唄、舞踊、演奏を一体にして、舞台にかける?」

 民謡界ひとつとっても、流派が多い、幅広く出演者を束ねた企画など聞いたことがない。面白い団体だ。

 それだけではない。神社・仏閣等のもとにある民謡保存会を回り、文献や証言から調べ上げ、譜面を起こしてきたという。

 完成させた譜面は約300になる。「大森甚句」(東京)、「牛深ハイヤ節」(熊本)、「隠岐相撲取り節」(島根)など、埋もれていた民謡を掘り起こした。

 付け焼刃ではない。

「伝統の基礎の上に、現代的な舞台を追及している。民文連の舞台に立つことは、プロとして光栄だ」

 民文連は、民謡界のスターが終結する舞台となった。


 原田が主宰する民謡教室。

「読んでくださいね」。生徒が持ってくる聖教新聞を開く。民文連理事長の新倉武らが、池田会長を慕っていることも知った。

 文化・芸能界のみならず、世界のトップが会いたがる。偉い人だけではない。うちの生徒をはじめ、多くの人が慕っている。

 2007年(平成19年)8月。民文連の舞踊団「若竹」が、都内でパレードに参加した。直前に伝言が届いた。「私が見に行くと、ご迷惑になるから、通りが見える。ある場所から、拝見させていただきます」。池田会長からである。

 原田は、しみじみ思う。この人の中には、そもそも学会員かどうかという壁がない。

 「ワーリャ、見て。この色ならシャツとスカートに合うかな?」

 ウクライナ国立民族舞踊団の稽古場。スカーフを首に巻きながら、団員がヴァレンチーナを愛称で呼び止める。

 彼女はベテランの衣装係。若い団員から”お母さん”と慕われる。

2000年(平成12年)、民音招聘で日本の初公演が決まった。あまりなじみのない極東の国。進んで手を挙げる希望者は少なかった。


 しかし──公演初日。第一幕が終わった瞬間、舞台裏のヴァレンチーナの背筋は、ぞくりとした。ステージがら帰ってきた団員も顔を紅潮させている。

「聞いた?ものすごい拍手だよ、すごい!」

 全国20都市以上で公演。どこでも同じ歓呼で迎えられる。興奮は、それだけではない。

「ワーリャ、このステージも広いね。照明も工夫されているよ」。海外公演では、意思の疎通が難しいこともあって、狭くて古い劇場をあてがわれることも日常茶飯事だ。

 宿泊先にも差し入れが届く。しかも、どの菓子が減っているかを調べ、人気の品から補充されている。

「果物以外、食べちゃ駄目よ。太ったら衣装を縫い直さないといけないんだから」。ヴァレンチーナが、きっとにらむほどである。

 それにしても──。

 いつも伝言をくださる創立者って、どんな人だろう。

「異文化を尊重するのが仏法である。異文化と協調し、平和を目指していくのが文化である。文化を大切にして、決して相手を粗末にしてはいけない」

 創立者の信念である。

 3年後、2度目の日本公演が決まった。団員たちは、こぞって日本に行きたがった。


 フランスのピアニスト、マドレーヌ・マルロー。2007年11月、音楽愛好家らの招きで来日。ピアノリサイタルを記念して届けられた胡蝶蘭に目が止まった。

「日本滞在中にお礼の手紙を書かなければ」。それは、かつて夫とパリ近郊の館で対談を行った池田会長からの贈り物だった。

 夫は小説家アンドレ・マルロー。ド・ゴール政権下で、情報相、文化相を歴任した。ナチスの魔の手から芸術の至宝を守った夫との語らいは、対談集となった。

 理念を述べる人は多い。だが、現実に実行する人物は少ない。

 民音は、約100カ国・地域との文化交流を広げている。なんとダイナミックな活動だろう。

「音楽は、普遍的な言語であり、人々をつなげる文化です。民音は、池田先生の歩み、そのものですね」

2009年、民音は創立45周年を迎えた。

 「なんとしても、日本に本格的なオペラを呼びたい」

 1981年(昭和56年)。日本の著名な実業家が、ミラノ・スカラ座に熱烈なラブコールを送った。

 本場のオペラを日本に呼んでも、数人の歌手しか派遣されない。足りない分は日本の歌手でおぎなう。それが普通だった。

 経済大国だが極東の島国。日本人のオペラへの関心や理解度は。大規模公演の受け入れ体制は。採算は取れるのか。

 総裁のバディーニは腕組みをした。念のため、過去の資料を調べた。

「おや・・・・?」16年も前にスカラ座に乗り込んできた日本人がいるじゃないか。

ダイサク・イケダ・・・・

 1965年(昭和40年)10月24日、会長のスカラ座招聘の意向がギリンゲッリ総裁に示されている。その後、日本公演の仮契約まで進んだが、費用の点で折り合いがつかなかった。

 彼が創立した民音。日本の実業家よりも、優先すべき窓口ではないだろうか。どんな団体なのか。実績は。集客力は。今でも意欲はあるのか。

 国の至宝であるスカラ座。重視すべきは”信用”である。宝を預けるのに、ふさわしいか否か。バディーニは、池田会長と民音を選択した。

 1981年9月、世界最高峰のオペラが日本にやってきた。

 「大江さん、すまんが、民音係りをやってくれんか?」

 東京・江戸川の板金工・大江敏夫に、ひょんな話が舞い込んだのは、1964年である。好きな演歌が聞けるなら、二つ返事で民音推進委員を引き受けた。公演予定を告知し、チケット購入を啓蒙する。しかし、たちまち後悔させられた。

「音楽?映画?大江ちゃん、まず折伏だよ」「娯楽より仕事。商売繁盛を祈っているところだよ」

 ガリ版刷りのパンフレットを携え、裕福な友人を訪ねると「労音さんのチケットを買ったから」

 酒代を節約し、売れ残ったクラッシックのチケットを買った。快適な会場。心地よい空調。仕事の疲れが出て、ぐっすり眠ってしまった。

 チケットが売れたら売れたで頭をかかえた。夜間金庫もない。こんな大金を持って夜を越すのか。江戸っ子が弱音を吐いた。

 1966年(昭和41年)9月。「ノボシビルスク・バレエ団」がソ連から来日した。大江は元軍人。戦争末期、不可侵条約を一方的に破って攻め込んできたソ連が気に入らない。大江からすれば”敵国文化”だ。

 だが高価なチケットが残った。仕方ない。開襟シャツに背広のいでたちで上野の会場へ。「すました感じが気に食わねえな」。満席のホールの照明が落とされた。

 劇だときいたが、ストーリーは分からない。メロディも演歌ファンの大江には、なじまない。だが──こりゃ何という迫力だ。人間の中に、これほど圧倒的な感情がひそんでいるのか。気がつくと身体は前のめりになっていた。

 よっぽど苦労したんだろう。命がけで技を磨いたんだろう。大したものだ。気がつくと、拍手喝采を送っていた。

 まてよ・・・・・。ひょっとすると、池田先生が俺たちに教えたかったのは、この感動じゃないのか。

 1970年代、池田会長の訪ソが続く。

 コスイギン首相との会見。モスクワ大学からの名誉博士号。青年や教育者の交流もはじまった。食い入るように報道紙面を読んだ大江は、ちょっと自慢したい気持ちになった。

 へへ、俺は本場のロシアバレエを観ているんだ。


 67年(昭和42年)初夏。銀座の街角で、ある音楽評論家は、ひいきの靴磨きの女性に歩み寄った。創価学会の婦人部員のようだ。客待ちの間に聖教新聞を広げている。

 軽い気持ちで、得意の舞台の話題を振ってみた。

「いやあ、この前のモーリス・ベジャール。素晴らしかったよ」。民音で観てきたばかりである。

 女性は下を向いたまま、クリームを布につけ、シュッシュッと磨いていく。

「ああモーリス・ベジャールね!ベルギー国立二十世紀バレエ団でしょ」

 さらっと話題についてくる。

 おおっ!意表を突かれた。二十世紀最大の振付師だぞ。こんな街角のおばさんが、哲学や思想までも表現する。あの独創的なバレエに通じているのか。

「庶民が下駄履きで行ける音楽会であってほしい」

池田会長が願ったように、民音は庶民の支持を得て、独り立ちしようとしていた。






 民音事務局の大久保直彦は、音楽家の一家に生まれた。業界の事情に通じている。

「民音には出るなよ」。「その筋」から、やんわりと圧力をけられた歌手がいるようだ。

「池田会長は、既成の社会の土手っ腹に風穴を開けようとされている。よしっ、オレだって」

 芸能事務所に直談判。民音の目指す道を社長に懇切丁寧に語った。

「これからは第三文明の時代になります」

 こぶ茶をすすった社長が、腕組みしてうなずく。「そうでんなぁ。やっぱり演歌の時代でんなぁ」。はぐらかされて話が噛み合わない。


 引き下がれない。歌手と直接交渉するしかない。

 1963年(昭和38年)、紅白歌合戦に初出場を果たした田端義夫。通称・バタヤン。普段から大久保の家に出入りしている。頼み込むと困り顔になった。

「日ごろからお世話になっているし、断れないなあ・・・・」やっと突破口が開けた。

「言っておくけど、信心しなくてもいいんだろうね」

冗談めいた口調だが、バタヤンの目は笑っていない。

 勢いに乗って島倉千代子にも当たった。「田端さんがオーケーしても、私は関係ないわよ」。数日後、バタヤンが口ぞえしてくれたのか、島倉も受けてくれた。

 二人の舞台は大盛況だった。

「どうやら民音に出ても、折伏されないようだね。それなら・・・・」

遠巻きに様子を窺っていた歌手たちが、交渉に応じ始めた。