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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 池田会長が民音の設立構想を明かしたのは、1961年(昭和36年)2月、インド初訪問から、ミヤンマー、タイ、カンボジアに向かう旅の途中だった。

 青年部が音楽団体のパンフレット、チケット、綱領などを収集。単価、購買力、集客力などを割り出す。63年8月、民音の設立構想が公になり、同年秋の創立記念演奏会に向け、歯車が動き出した。


 「名前は、ミンオンがいいね」

 会長の提案をきっかけに、民音設立の準備を進めていたメンバーは、検討を行った。

 1963年9月1日。「仮称・民主音楽協議会」と発表している。

 だが会長の意見は異なった。「民主音楽協会にしよう」

 民衆に迎合する団体ではない。もちろん、民衆相手に商売するのではない。

 民衆と力を合わせ、ともに成長し、文化を高めていこう。会長の思いが込められていた。


 初代鼓笛隊長の丹羽美枝。一流の音楽家を集めるため、奔走した。交渉が難航すると、池田会長の激励を思い起こした。56年(昭和31年)から57年にかけ、毎週のように鼓笛の練習会場に足を運んでくれた。自宅に隊員を招き、音楽談義に花を咲かせたこともある。

「僕だって苦境の折、ひとりアパートでベートーベンを聴いて心を奮い立たせた」

58年、鼓笛隊の全国大会。150人の参加者に力説してくれた。

「モスクワ芸術座の舞台を見に行ってきたよ。言葉はすべて分からなくとも、手に汗を握った。これが芸術の力だ」

 モスクワ。芸術。あの時は、遠い夢のようだったが、いつの間にか、大衆が文化運動を担う時代が迫っていた。

 演奏会の約1ヶ月前。目玉の指揮者が決まらない。

一張羅のワンピースに身を包み、大きく深呼吸してからベルを鳴らした。目黒の近衛秀麿邸。当代随一の指揮者が住んでいる。

「おっ、また君か」

ドアが開くと、らくだ色のカーディガンを着た近衛が表情を崩した。

 ピアノが置かれた洋間に通された。日本音楽界の草分けである。自分はヤマハ音楽教室の非常勤講師にすぎない。音楽家の格としては、天と地ほどの差がある。それでも池田会長の理念を伝えたい。

 心臓が早鐘のように脈打つ。

「近衛先生!民音は、押しつけは致しません。聞く側、そして演奏する側、それぞれの考えを大切にし、架け橋となります!」

 言い終わって、顔を上げると、近衛の目が、なごんでいる。「お嬢さんは、どこの学校」「お仕事は」「信仰活動のほかは何かしているの」

 一つ一つ答えると、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。

「うん、うん、分かったよ」。とうとう出演を約束してくれた。


 10月18日。東京・文京公会堂に、唯是震一(琴)、清水勝雄(チェロ)、諏訪根自子(バイオリン)ら、名だたる演奏家が集まった。

 池田会長の姿はない。新しい事業は、新しい人たちの手で、一貫した心情である。

 フィナーレが近づいてくる。指揮を執るはずの近衛秀麿が、まだ到着していない。

 落ち着かない丹羽。そわそわ舞台袖から楽屋裏を行き来している。

 タイムリミット、代理の音楽家が「僕がやろう」と腹をくくったその時、通路がざわめいた。燕尾服の近衛があらわれた。周囲に軽く会釈をしながら颯爽と壇上へ。

 静寂の中でタクトが一閃し、新しい音楽団体の第一小節が、ようやく音を立て始めた。



 アルゼンチンタンゴの新星、マリアーノ・モーレスが、古賀政男(音楽家)と出会ったのは、昭和14年である。来日公演を約束したものの、太平洋戦争のため機会を逸してしまう。

 夢が叶ったのは、1984年(昭和59年)。タンゴ界の巨匠として民音公演に招聘された。

 運命は残酷だった。

 同じステージで歌うはずの子息ニト・モーレスが、ガンに冒され、床についたまま動けない。来日公演中も病状は悪化をたどる。危篤の報が届き、最期の別れを告げるため、急遽、帰国した。

 享年38歳だった。それでも「日本のファンが待っている」。葬儀を終え、再来日。事情を知る関係者は、芸術家魂に圧倒された。


 1988年(昭和63年)、日本で池田会長と会見する機会を得た。息子の死から4年。傷は癒えていない。会長は、東洋の生命観を通し、話してくれた。

 ───死は、新たな生への活力を得るための充電期間です。ご子息は、あなたの胸の中で生きている。残された人が、どれだけ強く、前向きに生きられるか。それによって、愛する人と再び一緒に前へ進むことができる。

 生と死の問題を、現実生活の中で直視した哲学に、胸を打たれた。

 92年、仏法が説く「永遠の生命」に着想を得た「アオーラ」を池田会長に献呈した。

 息子は私と一緒にいる。高らかに歌い上げた曲である。

 池田会長と同年代。

「音楽を愛する人に、多大な愛情を与えてくれる。父のような存在です」


 過去の歴史をひもとくと、芸術家が才能を開花させた背景に、幾多のパトロネージュ(保護や後援)があった。

 ルネサンス期にレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロを育てたメディチ家のような例もある。

 池田会長は創立者だが、実務に携わることはない。アーティストとも一定の距離を置く。ただ、彼らが不幸に見舞われたり、人生に行きづまったとき、目立たぬかたちで手をさしのべてきた。

 文化、教育、平和、政治。池田会長の事業は多岐にわたるが、共通した理念がある。「運動が大衆に資するか否か」。この点である。


  珍しく朝から体調が良かったので、バスに乗り近くのジャスコに行ってきましたバス


最近は朝から身体がだるくて重い日が続いていましたダウン


私は肝機能、中性脂肪が高めなので、内科の医師からまめに歩くように言われているのですが、だるくて散歩などできない状態でしたガーン


 フードコートでお昼ご飯を食べたり、買い物をしたりして過ごしましたラブラブ


明日も良い体調が続くといいな~ドキドキ


では、おやすみなさいニコニコぐぅぐぅ

 病室に民音創立者の池田会長夫妻から見舞いが届いた。色紙に力感のある筆至で揮毫してあった。

「知者楽仁者寿」

『論語』の一節である。

「知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し」─知者は、いかなる変化にも身を処し、すべてを楽しんでいける。仁者は、いつも変わらず、長寿をまっとうする。

脇書には、

「御健康をひたすら祈りつつ

      大作 香峰子」

と認められている。

香峰子夫人から、多数の満開のバラの花も添えてあった。

幾度も読み返した。

いくつもの音楽団体と関わってきたが、こんな人はいない。公演に穴をあけ、迷惑をかけているのは、こちらだというのに。


 帰国後、リハビリが始まった。

歩行や階段の昇降。手足が思うように動かない。くじけそうになるたびに家族で話し合った。「池田先生に命を救っていただいたのだ。立ち止まってなどいられない」。過酷なリハビリに耐え、徳徳瑪は、歌手として再起した。

 2007年9月、徳徳瑪は、日中国交正常化35周年を記念する公演の舞台に立っていた。会場は北京展覧館。完全復活のソロコンサートを歌いきった。

 沸き変えるアンコール。徳徳瑪は、あらためてマイクを取った。

「今、この舞台に立てるのも、池田先生と奥様のおかげです」

あのバラの香りを思い出していた。


 日本で倒れ、人生観が変貌した。芸術を通じて人に尽くす。それが真の知者であり、仁者ではないか。

 2002年、故郷の内蒙古に、貧しい牧畜民が学べるように芸術学院を創立した。若い才能を開花させて、社会で活躍させたい。

 2007年、民音関係者が、学院を訪ねた。

 案内された学院長室。ドアを開けると写真が飾られていた。

 あっ。

 池田会長夫妻の大きな写真だった。

 内蒙古の女性歌手・徳徳瑪(ドードーマー)が、すーっと奈落に落ちるような眩暈に襲われたのは、市立宇都宮文化会館のステージでライトを浴びている時だった。

 最後まで、最後まで、歌わなければ・・・・・。

 先刻から息苦しかった。会場に酸素が少ないのかと思ったほどである。もう立っていられない。マイクに声を振り絞ったが、歌のエンディングとともに、記憶は遠のいた。


 舞台袖に控えていた渡邉サト子は、いち早く異変を察した。地域の民音の中心者。ステージ上で徳徳瑪が、糸の切れたマリオネットのように崩れていく。

 中国中央民族歌舞団の民音公演は、舞台裏で騒然となった。血相を変えた渡邉が駆け寄る。呼びかけても反応がない。「救急車!急いで!」

 脳血栓で倒れた徳徳瑪を搬送する救急車が、済生会宇都宮病院へ吸い込まれていったのは、1998年(平成10年)4月2日の夜だった。


 徳徳瑪が深い眠りから覚めると、病室の天井が見えた。

 助かった・・・・・。

 毎日、渡邉が見舞いに来てくれ、徐々に意思の疎通がとれるようになった。表情は冴えない。身体にマヒ。元のように舞台に立てるだろうか。もし歌えなければ、死の宣告に等しい。