EIKOの気まぐれ闘病日記 -187ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 西郷が始めて民音公演のステージに立ったのは、1969年(昭和44年)である。

 「民音?あの創価学会の?」

 眉をひそめた。芸名を郷里の偉人・西郷隆盛から取ったように、鹿児島県生まれ。少年時代、学会の評判は悪かった。なにより家族が大の学会嫌いである。

 近所の学会員に折伏されて起こった親が、バケツの水をぶっ掛けたことが忘れられない。

 労働組合が母体の「労音(勤労者音楽協議会)」ならよく知っている。同じように勢力拡大の手段だろうか。

 強い抵抗があったが、仕事は仕事と割り切った。

 民音公演の準備が始まった。スタッフが素人っぽく、変に業界ずれしたところがない。

「なんだって。あえて自分の持ち歌を歌わなくてもいいって?」

思いもよらない提案がポンポン飛び出す。業界の常識、セオリーなど、おかまいなし。

「これは面白い。普段、できないことが、やれるかもしれないぞ」

 本番のステージに立った。ところが客席は静まりかえっている。いつもなら、ここで黄色い歓声が飛んでくるのに。

 プログラムを間違えたのだろうか。かすかに足が震える。恐る恐る歌い始めた。

 だんだん目が慣れ、ステージから客席の顔が見えてきた。みな、妙に表情が強ばっている。

 そうか。お客さんも緊張しているのか。初めてコンサートを観賞した人も多いに違いない。

娯楽にかける経済的余裕などなかったのかもしれない。

 歌い終わった瞬間、万雷の拍手。観客席の表情も弾けている。

 ひょっとすると、ここから新しい音楽ファンの開拓が期待できるんじゃないか。西郷は不思議な高揚感にとらわれた。

 1983年(昭和58年)、西郷に大役が回ってきた。映画『小説吉田学校』で若き田中角栄に扮する。

 森繁久弥(吉田茂役)、芦田伸介(鳩山一郎役)ら大先輩との共演だが、モデルとなる政治家の多くは没していた。現役の政治家として、田中は超大物だった。

「私の役をやるんだったら、一週間、通いなさい」

 田中から直々に呼ばれ、役作りのため、田中邸(文京区目白台)と砂防会館(千代田区平河町)に交互に通った。

 砂防会館には田中の個人事務所や、自民党大派閥だった木曜クラブ(田中派)の事務所がある。ひっきりなしに政財界の要人が出入りしている。

 保守正解の領袖である。来訪者への気配り、土産の品、伝言。どれも緻密で細かい。会食の場でも、食事に箸をつけない。

 記憶力も抜群で、西郷の芸能活動を、つぶさに把握していた。魅了される反面”こんなカリスマを演じなければいけないのか”正直、ひるみかけたほどである。

 精力的に動く田中本人には、さすがに直接は話しかけにくい。顔なじみになった秘書から、人となりを教えてもらった。


 ある日、意外な一面を知る。

「創価学会の池田先生は、すごいね。うちのオヤジ(田中角栄)も、よく言っているんだよ」

田中の胸の内を明かしてくれた。

「オヤジが言っていた。自民党といっても、あらゆる階層の人がいる。これを調整するのは本当に難しい。まして創価学会は、あれだけ幅広い人たちで成り立っている。その学会をまとめているんだから、池田先生はすごい、と」

 角栄さんが尊敬している人物─西郷の脳裏に、池田会長の名前が強く刻まれた。

 映画『小説吉田学校』が完成後、西郷は「次は誰の役をやりたい?」と映画関係者に聞かれた。頭に浮かんだ人物は一人だった。


 小説『人間革命』が映画化されたとき、若き池田会長をモデルとする山本伸一の役は、残念ながら、西郷に回ってこなかった。

 白羽の矢は、あおい輝彦に。西郷とはNHKドラマ『若い季節』で共演。「テル・テル」と話題になった間柄で、今も仲がいい。

「絶対、僕がやったほうが良かったという自信があります」

 少し悔しげな表情。

「でも、あおい君、なかなか雰囲気はありましたね」


 「一度でいい。一目でいい。お会いしたいなあ・・・・・・」

 西郷輝彦(歌手・俳優)。まるで告白するような口調で続けた。

 「民音をつくった池田先生にね」

 2007年(平成19年)10月16日。都内のインタビュー場所に現れた西郷は、還暦を過ぎたとは思えない若々しさだった。

 豊かな髪は黒く、ツヤがあり、長い足に細身のジーンズが、よく似合う。たくわえた髭も血色のいい顔に栄えている。

 舟木一夫、橋幸夫と一世を風靡した元祖「御三家」のひとり。

「この歳になると、子や孫たちの将来が、どうなっていくか、心配になります。この10年くらいの間に、日本は急激に変わった。モラルもそう。未来は、どうなるのか。みんな答えを求めています」

 デビュー43年。浮沈の激しい世界を生き抜いてきた男らしい視座である。

 なぜ池田SGI会長に会ってみたいのか。


 朝晩急に冷え込んでいますが、皆さん風邪など引いていませんかはてなマーク


私はうつ状態になってから、横になることが多くなりました。昨日は1日中横になっていました。


 昨夜は中々寝付けなかったせいか、今日は午前中起き上がれませんでしたダウン


 きのうあたりから首の後ろが痛くなってきましたガーン


私の場合、首の後ろが痛くなるのは、うつ状態が悪化する前兆なのですあせる


一見すると普通に見えるので、家族であっても病気を理解してもらえず大変です。


特に父親は全く無理解なので本当に困ります。


特に精神薬の服薬について偏見をもっています。


精神薬は自分で勝手に止めたりすると、うつ病が長期化したりする原因になるのですが、父は「薬に頼り過ぎている」という言い方をします。


 まずは自分の身体と相談しながら、マイペースで過ごすことにします。

 映画は祭りににている。シナリオ、キャスティング、製作発表、撮影、編集、宣伝、封切り─。

 幾多の興奮、熱狂を巻き起こすが、映画がはねると、祭りの後のような余韻が後を引く。

「あれは、いい仕事だったな」

 この映画に関わったスタッフ、キャストは今も往時を振り返る。

 幻の第三作の構想もあった。

 戸田会長が晩年に愛した歌に「星落秋風五丈原」がある。漢王室の命運を担った諸葛亮孔明の苦衷を歌い上げた名曲。橋本忍が一番、二番、三番と歌いながら、はらはらと涙を流す。これは次のヤマ場になると、もらしたこともある。


 あれから30年─。池田会長は関係者と変わらぬ親交を結んできた。

 あるスターが、大病に伏したと聞けば、見舞いと励ましの言葉を届けた。連れ合いを亡くした役者に、故人をしのんで植樹の配慮もした。

 あおい輝彦は息の長い役者になった。

 テレビドラマ『水戸黄門』で12年間、助さん役を好演した。富士山と野鳥が好きで「あおい鳥彦」とニックネームがつくほど、大自然を愛する横顔もある。

 2007年(平成19年)の春。池田会長が執務前にテレビのスイッチを入れ、NHKにチャンネルを合わせた。朝の情報番組『生活ホットモーニング』シリーズ「にっぽん体感こだわり旅」で、あおい輝彦がアナウンサーと富士周辺を旅していた。

 逆さ富士や夕景の富士を望む絶景ポイントをめぐり、青木ヶ原で野鳥を観察している。

 会長は、そっと伝言を頼んだ。番組を見ていたこと。末永い活躍を喜んでいること。

 丁重な伝言が届き、あおいは思った。富士山と池田会長は、いつまでも変わらない。いつも遠くから見守ってくれていると・・・・・・。