EIKOの気まぐれ闘病日記 -188ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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先日の台風が過ぎてから、すっかり秋らしくなりましたね。


私は9月になってから体がだるくて重くて、午前中起き上がれないことが多くなりました。


内科の医師からは散歩するように言われていますが、全然できていません。


私はうつがひどくなると、お風呂や洗顔、歯磨きなどが苦痛で出来ないことが多くなります。

お風呂に入れなくなるのは私だけではなく、精神疾患の方に多く見られる症状の一つです。


最近は夕方まで気力がなくて何も出来ず、夕方から少しずつ気分がよくなる状態です。


この病気は良くなったり悪くなったりを繰り返すので、焦らずマイペースで過ごしたいと思います。

 晴れ上、がった富士を仰ぎながら、二人の男が歩いていく。

「ついでに、白糸の滝まで歩くか」

戸田会長と山本伸一。

大きな吊り橋を渡る。戸田は立ち止まった。伸一の肩に手を置き、じっと見つめる。

「伸、俺はな、俺一代で現在の世帯7500を、十倍の7万5000、いや、百倍の75万にまでしてみせる」

「75万世帯・・・・」

戸田が破顔一笑する。「その75万を750万世帯にするのは、伸、お前だぞ」

 富士が、じっと師と弟子をみつめている─。

 すぐ隣で、スクリーンを見つめる池田会長が、幾度もうなずいた。田中友幸は、安堵の息をもらした。

 1976年(昭和51年)1月31日。『続・人間革命』の完成試写会。会長は太鼓判を押した。

「大変な力作です。何も言うことはない。申し分ない」

あおいと舛田が、合否を待つ受験生の親子のように身体を固くしていた。

「名演技です」

丹波哲郎も満足げである。得意の毒舌を披露する。

「橋本のダンナも、なかなか難しい顔をしているが、頑固で強情、思い込んだら命がけの男です。映画が終わってみると、何ともいえない、心の広々とした男に変わっていた」

 誰からともなく、この映画のおかげで人間革命できたわけだ、と声が上がった。映画人たちは、どっと沸いた。

 あっ。照明スタッフの石井長四郎が小さく叫んだ。

 池田会長が『続・人間革命』撮影現場を訪れた。

 1975年(昭和50年)10月29日、東京・砧の東宝スタジオ。

 石井は成瀬巳喜男ら巨匠を支えてきた日本屈指の名ライトマン。当初、アシスタントたちが訝しがってい    た。「なぜ石井さんが宗教映画の照明なんか・・・・・・」

 石井は続編からスタッフに加わった。くどき落としたのは田中友幸である。

 「前作を超える作品をつくりたい。ぜひ力を貸してくれ」

 この日も黙々とセットを照らしていた。

 キャッチライトという手法がある。瞳にピンポイントでライトを当て、生き生きとした表情を生む技術。あらゆるスターの輪郭、顔の陰影、瞳を観察してきた。眼の光で心の動きや身体の好不調まで判断できる。

 山本伸一のアパートを再現したセット。会長は、あおい輝彦、丹波哲郎、新珠美千代ら出演者、スタッフと輪になった。

 初めて会った原作者。石井は、スチール撮影のため、スポットをあてる。

 おやっ。眼が異常に赤い。「これは熱があるな・・・・・」

 ぎりぎりまで身体を追い込んでいる。なのに、そんな気配を周りに感じさせていない。セットへ、にじり寄った。

 伸一の部屋を再現したスタッフに会長が頭を下げている。特に本棚の蔵書は、小道具係りが3ヶ月かけて蒐集した。会長が手をさしのべて、労をねぎらっている。石井も、あぐらから正座に座り直した。

 これまで何十人という原作者を撮影現場に迎えた。有名スターと記念写真を撮って、さっさと帰ってしまう大物もいた。

 会長は、セットの隅々まで目配りして、裏方の仲間の健闘をたたえてくれた。気がつくと、帽子を脱いで会長の前に出ていた。


 「凄い人だったなあ」

 会長を見送った後。石井は学会の担当者の飛田正夫に感動を漏らした。

 「ただね・・・・・」耳打ちした。

 「今日の会長の眼は赤かった。熱っぽかった。大事な人なんだから、もう少し周りが、きちんと守ってあげないと。相当、無理をされているよ」

 職人たちの男気に火がついた。

 舛田の雷が落ちた。「いま何て言った!」

あおいの身体が凍りついた。

クランクインした撮影現場で、ふともらした一言が引き金だった。

「もう僕は、まな板の上の鯉だから」

烈火のごとき監督の叱声。

「『まな板の上の鯉』だと?ふざけるな!鯉にするかどうかは、これから俺が決めるんだ。覚えておけ!」

 あおいは映画人では新人。包丁を入れる鯉ですらない。慌てて腰を折った。「すみません!」

 厳しい演技指導がはじまった。

 アクション映画で鳴らした舛田組。ささいなしぐさ一つにも叱咤が飛ぶ。

「カット!あおいちゃん、そこ、もっと力強く!」

舛田には「山本伸一」の明確なイメージがあった。

「清潔。無垢。青年独特の精神の力強さ。これがないと駄目なんだ」

鬼監督の心意気に、あおいも必死で応えた。19歳の役に合わせ、長かった髪もバッサリ。ジャニーズ時代に見につけた演技は捨てて、ありのままの地を剥き出しにした。

撮影終盤。舛田好みの、何ものかに飢えた目つきの、あおいがいた。

 あおい輝彦が聖教新聞社(東京・信濃町)の玄関前で車から降り立ったのは、1975年(昭和50年)6月27日である。

 池田会長に挨拶する。田中や橋本、舛田も同席してくれるが、やはり話題の中心は自分になる。

 ”首実験”にのぞむような心境だった。14歳でデビューし、数々のステージを踏んできたが、やけに胸が高鳴ってくる。


 応接室。

「伸一さん、こっちにいらっしゃいよ」

池田会長が迎えてくれた。すぐ横に、緊張気味の舛田。

「思う存分、自分らしくやってください。監督とケンカしながらやってください」。鬼監督の相好が崩れる。

「橋本先生も、お久しぶりです。お焼けになりましたね」

 橋本は、すでに次回作『八甲田山』の製作に追われていた。すっかり八甲田連邦で日に焼けている。池田会長とひとしきり、その話題で盛り上がる。

 あおいは安心した。肩肘張る必要はない。気心の知れた友人が集っているようだった。日中、日ソの友好に行動してきた池田会長から、国際情勢をめぐる話が続く。コスイギン(ソ連)周恩来(中国)キッシンジャー(アメリカ)。国際政治の要人の名前が飛び交う。

「私は親中派でも何でもありません。世界派です」「この日本が、あと千年、生きるためにはどうするか。そのために手を打っている」

大きい。この人なら。座の途中で、思い切って尋ねた。

「戸田先生との初めての出会いで、直感的に『人生の師匠』と感じられたのでしょうか」

ここが続編のヤマ場になる。たった一度の出会いで、人間が変われるものなのか。会長に葛藤や煩悶はなかったのか。

「敗戦の憂き目にあって、誰も信じられない時代だった。いわば切羽詰まった状態で座談会に出たんです」

 諭すような口調だった。

「一番、感動したのは、戸田先生が坊主でないことでした。まったく気取りがない。赤裸々に、愛情を持って、何でも話してくれた。一切の形式を脱ぎ取った人間だった」

 入信後、しばらく反発しながら学会活動を続けたとも明かしてくれた。

「不思議だった。どこへ逃げたって戸田先生に出会ってしまう。どうしようもない間柄だった」

 しみじみ振り返る。

「それから煩悶は始まった。もし、この人についていったら、難があるだろう。中傷、批判は一生ついてくるだろう。これは大変な世界だ。喜びなんていうものじゃない」

 ああ、やはり葛藤があったのか。悩みの中で師匠を求めていたのか。神秘的な儀式などではない。人間と人間の自然な結びつきだったのだ。