あおい輝彦が聖教新聞社(東京・信濃町)の玄関前で車から降り立ったのは、1975年(昭和50年)6月27日である。
池田会長に挨拶する。田中や橋本、舛田も同席してくれるが、やはり話題の中心は自分になる。
”首実験”にのぞむような心境だった。14歳でデビューし、数々のステージを踏んできたが、やけに胸が高鳴ってくる。
応接室。
「伸一さん、こっちにいらっしゃいよ」
池田会長が迎えてくれた。すぐ横に、緊張気味の舛田。
「思う存分、自分らしくやってください。監督とケンカしながらやってください」。鬼監督の相好が崩れる。
「橋本先生も、お久しぶりです。お焼けになりましたね」
橋本は、すでに次回作『八甲田山』の製作に追われていた。すっかり八甲田連邦で日に焼けている。池田会長とひとしきり、その話題で盛り上がる。
あおいは安心した。肩肘張る必要はない。気心の知れた友人が集っているようだった。日中、日ソの友好に行動してきた池田会長から、国際情勢をめぐる話が続く。コスイギン(ソ連)周恩来(中国)キッシンジャー(アメリカ)。国際政治の要人の名前が飛び交う。
「私は親中派でも何でもありません。世界派です」「この日本が、あと千年、生きるためにはどうするか。そのために手を打っている」
大きい。この人なら。座の途中で、思い切って尋ねた。
「戸田先生との初めての出会いで、直感的に『人生の師匠』と感じられたのでしょうか」
ここが続編のヤマ場になる。たった一度の出会いで、人間が変われるものなのか。会長に葛藤や煩悶はなかったのか。
「敗戦の憂き目にあって、誰も信じられない時代だった。いわば切羽詰まった状態で座談会に出たんです」
諭すような口調だった。
「一番、感動したのは、戸田先生が坊主でないことでした。まったく気取りがない。赤裸々に、愛情を持って、何でも話してくれた。一切の形式を脱ぎ取った人間だった」
入信後、しばらく反発しながら学会活動を続けたとも明かしてくれた。
「不思議だった。どこへ逃げたって戸田先生に出会ってしまう。どうしようもない間柄だった」
しみじみ振り返る。
「それから煩悶は始まった。もし、この人についていったら、難があるだろう。中傷、批判は一生ついてくるだろう。これは大変な世界だ。喜びなんていうものじゃない」
ああ、やはり葛藤があったのか。悩みの中で師匠を求めていたのか。神秘的な儀式などではない。人間と人間の自然な結びつきだったのだ。