EIKOの気まぐれ闘病日記 -189ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 室内にはタバコの煙が、もうもうと立ちこめている。1975年(昭和50年)4月。映画『続・人間革命』製作会議。

 田中友幸ら首脳陣は難問を抱えていた。山本伸一のキャスティグ。

「この選択を誤れば、作品全体の失敗につながる・・・・」

田中は腕組みしたまま、固まった。


 「選考委員会」を立ち上げた。

プロダクション、劇団、歌舞伎界や大学の演劇部からも推薦を募った。一般応募も合わせ1000人近くの履歴書が山積みされた。

 引き続きメガホンを執る舛田利雄は、300人に絞り込む。全員、撮影所に呼んだ。直接この目で確かめる。

 呻吟の末、4人を選ぶ。戸田会長と伸一が出会う座談会シーンを実際にセットに組んだ。丹波や学会員役を集め、カメラテスト。候補者を順番に、会場の後方に座らせる。

 ここで「絵」になるか。丹波と「あ・うん」の呼吸を取れるか・・・・・・。

 舛田の視線が一人の青年に絡みついた。あおい輝彦。

「目の感じが池田会長に近いかな。円満な目をしている」

演技は上々。ただ年齢が気になった。27歳。それに顔が売れすぎている。

ジャニー喜多川がプロデュースした歌手グループ「ジャニーズ」の一員だった。後に一世を風靡していくジャニーズ系アイドルの草分けである。紅白歌合戦で軽快にステップを踏む姿が目に焼きついて離れない。

 山本伸一の清純なイメージに合うだろうか。摺れた印象にならないか。

舛田は賭けた。

「よし、あおいでいこう。できあがっているものは根底から破る。新しい味を引き出してみぜる」


 「日本正学館に初めて出社した昭和24年の1月3日ですが・・・・・・」

橋本忍は、狙いを絞って聞き始めた。

「とんな1日でしたか」

池田会長が答える。

「大変に寒い日でした。大田区森ヶ崎の自宅からバスに乗り、品川から神田まで電車で通いました」

「昼食には弁当ですか」

「ええ、弁当持参です・・・・・」

細かいディテールを掘り起こす。

 映画『続・人間革命』の製作が決まった。1974年(昭和49年)5月、都内で時間を取ってもらい、橋本忍は入念に取材した。

 続編の目玉は、山本伸一の登場である。日本正学館(戸田会長の出版社)に入社した場面を描きたい。

 最初の仕事は何か。給料はいくらか。編集会議に出ていたのか。

会長の記憶は鮮明だった。朝八時に出社したが誰もいない。雑巾がけをした。電報が来たが誰も来ないので、戸田先生のご自宅に届けた。これが初仕事。

初任給は3000円。すぐ6000円に昇給した。

 雑誌『冒険少年』の編集者として、駅やバス停に足を運んだ。通学の子供が何を読んでいるのか。気になって仕方なかった。

 ほう。橋本が嬉しそうに頷く。

「分かります。私も映画を作ると、小屋(映画館)の前に立って、どうだったかと聞いたりします」

明かされるエピソード。

編集部に届いた便りには、必ず返事を出した。

「頭を下げて一流の作家の了解を取ってきても、十分な原稿料が払えない。これが本当に苦しかった」

 宣伝力不足で休刊に追い込まれる直前、詩人の西条八十を訪ねた。

「西条先生、偉大なる少年たちに夢を与え切れる詩を書いてください」

「いい言葉だな。本当に池田君は頑張っている。子供を愛していることが、よく分かった」

心から少年読者を愛していた。


 次第に核心に迫っていく。

 ついに出版事業は頓挫し、丸ごと信用組合へ吸収された。金融業。最も苦手な分野である。

「一番嫌いな仕事でした。だが戸田先生は『大作、やってくれるか』と。あれほど真剣な表情は見たことがなかった。『先生がやられることなら、何でもやります』と答えました」

会長は包み隠さず話してくれた。信用をつかむため、ビラを作って、一軒一軒、一人で回ったこともある。あまりの重労働に、実際より10歳も老けて見られた・・・・・。

 橋本は淀みなくペンを走らせる。

 一瞬、会長が空を見つめた。

「橋本さん、できれば、こう加えてもらえませんか」

珍しい申し出だった。

「信心というのは、こういう試練を経なければいけないのだ。社会の荒波を乗り越えなければならないのだ。その目的のため、あらゆる苦労をしていったのだ」

原作者の肉声である。


 橋本は、伊丹万作に師事した。

わが師は日本一と同じ、伊丹が言うことは、すべて従った。伊丹が落ちるところまで落ちたら、オレも落ちよう。腹をくくっていた。

 意見の衝突もあったが、今になると、師の真意がよく分かる。

 映画の道。信仰の道。

 次元は違うが、戸田会長と池田会長の強い紐帯に共鳴できた。


 東北地方の漁村。公民館に立てかけられた看板の前で、老人が棒立ちになっている。

「こんなところにまで・・・・・」

 戸田会長の丹波哲郎のアップ。その下に「映画『人間革命』絶賛上映中!」の大見出しが躍っている。

 1973年(昭和48年)9月8日。映画『人間革命』(製作=シナノ企画、東宝映像)は東京・有楽町でロードショーが封切られた。翌月から全国で一般公開。

 一番館(主要都市の映画館)二番館(地方都市)三番館(地方の市町村地域)。全国に「小屋=直営の映画館)を持つ東宝の強みだった。

 公民館や市民会館でも上映された。野良仕事帰りの農婦や汐臭い漁師がスクリーンの前に詰め掛けた。


 映画専門家の声。

「宗教映画じゃない。人間映画」

「人間臭さと崇高な理念をあわせもった戸田会長」

「宗教に関心のない人こそ見よ」

同年の興行収入で第一位。日本映画界の記録を塗り替えた。

公開後、著名な映画監督から学会に打診があった。

池田会長の随筆「一枚の鏡」の映画化である。戦時中、ビルマで戦死した会長の長兄と母をめぐるドラマ。オールロケになるため、制作費の関係で実現しなかったが、多くの映画人が池田作品に注目していた。

 監督の舛田利雄。

「あれほど楽しい映画作りはなかった。学会も、すべて任せてくれた。監督冥利につきる」

東宝では、いまだに社史を語る上で「人間革命」と「人間革命後」の立て分けがあるという。

 私の現在の病名は「双極性障害(躁鬱病)です。

きっかけは、約8年ほど前に抗欝剤の効き方が悪かったので、アモキサンカプセルを服用しました。

服用したところ薬が効き過ぎてしまい、すぐにアモキサンカプセルの服用は中止になりました。


 躁状態の時は、自分では調子がいいくらいの自覚しかないので、本人は分かりません。

躁状態になると、金使いが荒くなったり、深夜にこそこそ動いたりなどの症状がでます。


 昨年の今頃、北海道へ旅行したりしたのですが、この時ばかりは自分で”躁状態”なのではないかと、思うようになりました。

 そこで昨年の10月から、躁の薬に切り替わりました。

最初は躁の薬の副作用が辛くて大変でしたが、その後うつの症状も出たため、現在は躁の薬と抗欝剤の両方を服用しています。


 未だに良くなったり、悪くなったり波が激しいですが、たまには体調がよく外に散歩に出られる日も増えてきました。

 「ある!本当にあるんだ!地獄も極楽も、あの世ではなく、この世に!」

セット裏から丹波の太い声が響いてくる。

珍しいな。スタッフが顔を見合わせた。台詞を覚えてこないことで知られる丹波が台本に、かじりついている。ひどい時など、自分の出番の部分だけ、ぴりっと破いてポケットに入れておく。全体がどうなtっているか、まったく関係ない。その丹波が、最初から最後までシナリオを読み込んでいる。


 役作りのため、丹波と舛田は、戸田会長の講演レコードを聴いた。

眠くなるような説法が延々と続くかと思ったが・・・・・何だ、これは。

面白い。抜群に面白い。大衆の心を見事につかんでいる。下手な落語よりも愉快である。笑いと涙があった。不正への怒りがあった。

 一段高いところに立って、教えを広める人ではない。実に人間くさい。いい意味で肩の力が抜けていく。

 宗教映画だからといって聖人君子を描く必要はない。人間はなれした主人公では、観客から遠い存在になってしまう。

 なんと魅力的な指導者なのか。池田会長が師事した理由もわかった気がした。


 ロケは長期にわたる。撮影のあとで、スタッフやキャストが食事に繰り出す。場の中心は、丹波である。焼肉などをつついていると、すくっと立ち上がる。

「そもそも人間とは、いや、生命とは・・・・」

よっ、待ってました。ヤジが飛ぶ。「この映画が最高の配給と観客動員することは間違いない。なぜなら、この戸田がついているからだ!」

やんやの喝采である。

丹波は徹底的に演技を磨いた。

数珠の掛け方。題目の唱え方。難解な仏法用語も濁点の有無にいたるまで正確に覚えた。体重も5キロ減らした。戸田会長の癖を叩き込むため、スタジオに向かう車中では、会長講演を録音したテープを流し続けた。

 この年の毎日映画コンクール(1973年)。丹波は菅原文太らライバルを抑え、男優演技賞(最優秀男優賞)を受賞している。