「日本正学館に初めて出社した昭和24年の1月3日ですが・・・・・・」
橋本忍は、狙いを絞って聞き始めた。
「とんな1日でしたか」
池田会長が答える。
「大変に寒い日でした。大田区森ヶ崎の自宅からバスに乗り、品川から神田まで電車で通いました」
「昼食には弁当ですか」
「ええ、弁当持参です・・・・・」
細かいディテールを掘り起こす。
映画『続・人間革命』の製作が決まった。1974年(昭和49年)5月、都内で時間を取ってもらい、橋本忍は入念に取材した。
続編の目玉は、山本伸一の登場である。日本正学館(戸田会長の出版社)に入社した場面を描きたい。
最初の仕事は何か。給料はいくらか。編集会議に出ていたのか。
会長の記憶は鮮明だった。朝八時に出社したが誰もいない。雑巾がけをした。電報が来たが誰も来ないので、戸田先生のご自宅に届けた。これが初仕事。
初任給は3000円。すぐ6000円に昇給した。
雑誌『冒険少年』の編集者として、駅やバス停に足を運んだ。通学の子供が何を読んでいるのか。気になって仕方なかった。
ほう。橋本が嬉しそうに頷く。
「分かります。私も映画を作ると、小屋(映画館)の前に立って、どうだったかと聞いたりします」
明かされるエピソード。
編集部に届いた便りには、必ず返事を出した。
「頭を下げて一流の作家の了解を取ってきても、十分な原稿料が払えない。これが本当に苦しかった」
宣伝力不足で休刊に追い込まれる直前、詩人の西条八十を訪ねた。
「西条先生、偉大なる少年たちに夢を与え切れる詩を書いてください」
「いい言葉だな。本当に池田君は頑張っている。子供を愛していることが、よく分かった」
心から少年読者を愛していた。
次第に核心に迫っていく。
ついに出版事業は頓挫し、丸ごと信用組合へ吸収された。金融業。最も苦手な分野である。
「一番嫌いな仕事でした。だが戸田先生は『大作、やってくれるか』と。あれほど真剣な表情は見たことがなかった。『先生がやられることなら、何でもやります』と答えました」
会長は包み隠さず話してくれた。信用をつかむため、ビラを作って、一軒一軒、一人で回ったこともある。あまりの重労働に、実際より10歳も老けて見られた・・・・・。
橋本は淀みなくペンを走らせる。
一瞬、会長が空を見つめた。
「橋本さん、できれば、こう加えてもらえませんか」
珍しい申し出だった。
「信心というのは、こういう試練を経なければいけないのだ。社会の荒波を乗り越えなければならないのだ。その目的のため、あらゆる苦労をしていったのだ」
原作者の肉声である。
橋本は、伊丹万作に師事した。
わが師は日本一と同じ、伊丹が言うことは、すべて従った。伊丹が落ちるところまで落ちたら、オレも落ちよう。腹をくくっていた。
意見の衝突もあったが、今になると、師の真意がよく分かる。
映画の道。信仰の道。
次元は違うが、戸田会長と池田会長の強い紐帯に共鳴できた。