EIKOの気まぐれ闘病日記 -190ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 昨日、栄養療法の事を書きましたが、大雑把だったので足りなかったことを補足したいと思います。


栄養療法は、初めの半年間に大量のサプリメントを服用します。予算が足りない場合は一部の栄養素を保険のきく薬にすることもできます。

私は1年ほど通院して、60キロほどあった体重が50キロまで減りました。

薬は最低限の抗欝剤と、睡眠導入剤、ビタミン剤などを服用しました。


 この診療内科に通院している時、夫が交通事故にあい半年間働けなくなりました。

しかも自営業だったので、休んでいる間にお得意様もいなくなり、夫は無収入になりました。


私はパートに出ていましたが、夫の事故のショックから、仕事に行こうとすると具合が悪くなるようになり、仕事を休むことが多くなりました。

仕事を減らしてもらっても、いざ出勤の日になると、具合が悪くて会社にいけません。

こんなことが続いたので、ついにドクターストップがかかりました。


 そんな時市役所の人から「障害年金」を教えてもらいました。

担当医に診断書を書いてもらったのですが、却下の知らせが届きました。


 担当医は私の症状を軽くみている様子で、2度目の診断書を書いてくれません。

私はこの医師にこれ以上通院しても無駄だと思いました。

そして、以前通っていた医師のところへ戻りました。


 現在私は、精神障害者福祉手帳(以前の医師は診断書を書かなかった)

自立支援医療制度、国保障害年金2級を受給しています。


障害年金をもらうまでは、お金がないので病院へ行く度に、母からお金を借りていました。

親孝行しなければいけない年なのに、年金暮らしの母からお金を借りるなんて情けなくてどうしようもありませんでした。


金銭的なことを考えるだけでも、うつ病が悪くなったりします。


今は、家事もできない状態だけど、年金暮らしを卒業して、自立して働けるようになるのが私の目標です!


 敗戦の色濃い東京。背の高い男が焼け野原に茫然と立ちつくしていた。

折れ曲がった煙突。焼け爛れた電柱。かつて教鞭を執った私塾「時習学館」は跡形もない。

 撮影の西垣六郎が回すカメラの向こうで、男が和服の裾を払い、瓦礫の山に思い腰を降ろす。

心配そうに寄り添う戸田会長夫人役の新美千代・・・・・・。

「ハイ、カット!」

 メガホンをとる舛田利雄の野太い声。「いいねー、丹波ちゃん!」

 1973年(昭和48年)4月25日。東京江戸川区郊外のロケ地。

 カメラの脇で、池田会長が熱演を見守っていた。原作者としての陣中見舞いである。

「映画とはいえ、本物そっくりですねぇ。昔を思い出しますよ」

昭和20年にタイムスリップしたような光景に、会長が感嘆した。

廃材などの処分場として使われていた埋立地である。美術監督の村木与四郎が、たまたまハゼ釣りに通っている時に発見した。

 トラック二台分の廃材を焼き、コンクリートの塊を転がし、約二週間で作り上げた。

 撮影が一段落した。丹波が休憩に戻ってくる。会長が声をかけた。

「戸田先生、おはようございます」

「おっ、伸、元気か!」

役になりきっている丹波。おおまじめな応対に笑いが弾けた。

学会本部への帰途。車中で現会長の原田稔に語っている。

「戸田先生の門下が、いかに大勢いたとしても、現実に先生を宣揚したのは、私しかいないんだよなあ」


 撮影快調である。

学会側の協力もスムーズだった。現場の注文に応じて、担当の鈴木琢郎が精力的に資料を提供してくれる。スポンサーの現場への介入。”職人たち”にとって、これが一番カチンとくる。幾多の苦い記憶がある。配給会社に政治力を持つ大物の鶴の一声で、どれだけやる気を削がれたことか。

 池田会長は一切、口をはさんでこない。現場第一。学会のコントロール下で、宣伝映画をつくるのではないか。懸念は杞憂だった。

 スチールマンの中山章は、どうやって「学会らしい」スチール(宣伝材料)を撮れるか悩んだ。

 学会員が経営している飲み屋や食堂にも通った。庶民的で前向きな生き方の人が多い。すっかり意気投合した。

 おい、中山は信心したのか。冷やかすスタッフもいた。「何を言うか。君、六道輪廻(仏法用語。迷いの世界から抜け出せない意)を知っているか」と切り替えした。

 作中で、拘置所に入った戸田城聖がシラミをつぶすシーンがある。

 生きたシラミを調達しなければならない。日本伝染病研究所から20匹を借りてきた。寒いと動かない。小道具係りがヒーターや人肌で温めた。シラミ一匹の動きにも執念を燃やした。

 仕事を辞めた後、「診たて違いの心の病 実は栄養欠損だった!」(溝口徹著 新宿溝口クリニック院長)という本に出会いました。

 溝口医師によれば、心の病のほとんどは”栄養欠損”だというのです。

心の病の他にも、糖尿病、更年期障害、アトピー性皮膚炎、リウマチ、頭痛、花粉症等も挙げられていました。


 溝口医師は、新宿溝口クリニックの他に、日本橋に診療内科専門のクリニックを開設されていて、私は希望をもってこの心療内科に1年ほど通院しました。


ここの診療内科は、患者の栄養状態を見るために、保険適用外の血液検査をして、どの栄養が足りないのかを分析します。そして足りない栄養素のサプリメントを服用します。

 私の場合、初診の時のサプリメントの値段が、10万円を超える金額を提示されましたが、持ち合わせがないので、8万円台に減らしてもらいました。

 とても体調はよくなかったのですが、サプリメント代を支払うために再びパート勤務を始めました。

 この頃は私にとってとても辛い時期でした。具合を治す為に働かなくてはならず、何のために働いているのか分からなくなりました。

仕事で小さな失敗を繰り返す度にひどく落ち込み、酷い時は自傷行為をしたこともありました。「私がいなくなれば、家族は皆幸せなのではないか」などと何度も考えました。

 私の場合はたんぱく質、ミネラル不足と診断され、高額なサプリメントを服用したお陰で、体重は10キロ以上落ちました。

 その後、私はドクターストップがかかり、働けなくなりました。

ドクターストップに至って、障害年金等の受給の申請をしたかったのですが、医師に書いてもらえず、以前の担当医の診察を受けることになりました。

 次はカオ(役者)である。

戸田城聖役を誰にするか。一流スターの名が続々と上がった。どれも粒が小さい。

 橋本忍の師匠格になる映画監督の伊丹万作。「百の演技指導も、ひとつの打ってつけの配役には、かなわない」と言い残した。それほどキャスティングは、作品の成否を握っている。

 最後の最後で舛田が奥の手を出した。丹波哲郎。180センチ近いタッパ(身長)が戸田会長を彷彿させる。演じなくても演じているような存在感がある。

「アクション俳優ねぇ・・・・・」。関係者の訝しげな声を跳ね返した。

「いや、性格的にいって、丹波が一番近いんだ」


 舛田が丹波を口説きに行った。

型にはまらない天性のスター。学徒出陣したが、まったく規律を守らず、上官も見放したほどである。高圧的な態度は逆効果だ。徹底して持ち上げるしかない。

「あんたしかやれないんだ」 「これは適役だよ」

丹波は返事を渋っている。まずは脚本をよんでくれと頼むと「いや、今ここで、どんな話か教えてくれ」。

筋書きと狙いを話した。「死への恐怖」を覚えた少年時代の原体験も打ち明けた。

太い眉のの下で、丹波の目がぎょろりと動く。

「うーん、それは面白い」役者魂に、ぽっと火がついた。

「実は俺も生命というものに興味がある。人間、死んだら、どうなるのか。最大のテーマだね。よし、分かった。そんなに俺を必要としているなら、ひとつ舛田さんを喜ばせてやるかな」


 1973年(昭和48年)2月10日。映画『人間革命』はクランクインした。初日に、丹波哲郎が分厚い眼鏡をかけ、鼻の下に髭をつけた。

この瞬間、橋本は直感した。”これでいける!”

似ている。無造作に立っているだけで、厚みがある。スタジオ関係者が、ぎょっとした表情で丹波を見た。