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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 「一ホン(脚本)二カオ(役者)三クミチョウ(監督)」

この三つが、映画を成功させるポイントである。

まずはホン。すぐれた脚本である。

すでに原作は手に入れた。ヒット小説の筋書きをなぞった映画もあるが、そんな手法は田中に毛頭ない。

ターゲットは、あくまでも広い映画ファン。いかに客を呼べる作品にするか。真っ先に、当代一の脚本家を訪ねた。『羅生門』『7人の侍』などで知られる橋本忍である。


 橋本は首を縦に振らなかった。

信頼する田中のたっての願いである。絶対に離さないという気迫も伝わってくる。それでも迷った。

「田中さん、原作を読むだけでも時間がかかる。待ってくれ」。なんとか猶予をもらった。重い仕事である。

長年のカンで、これは長丁場になると分かった。脚本家の報酬はシナリオ一本あたりで決まっている。短期間で仕上がるものほど助かる。効率からいけば、この仕事は断るべきだ。しかし、ノーの返事にためらった。理由はひとつ。題名が引っかかる。

『人間革命』

スケールが大きい。どんなに長いシナリオも、煎じ詰めれば端的な命題に帰着する。巨大な意味の込められた四文字に見えた。

 池田会長の著作との格闘が始まった。人間の内面を描かなければならない。これが難しい。作中に描かれる戸田会長の生命論に引き込まれた。作品のヘソになるかもしれない。


 橋本は青年期に、生と死の淵をのぞいている。

徴兵後、肺結核を患い、軍の療養所へ。同じ病の戦友がバケツに血を吐く。おびただしい血が床に飛び散り、絶命していく。次は俺の番か・・・・・・。

療養所にいれば3年。田舎に帰れば2年。医師に余命を宣告された。

療養所の売店で筆記用具を買い求め、シナリオを書き始めた。身近に死を感じながら、脚本家の一歩を踏み出した。

 池田会長も結核だった。小説『人間革命』では、肺を病んだ山本伸一が人生を模索する日々が描かれていた。決断まで3ヶ月を要した。

「田中さん、やらせてもらうよ」

1971年(昭和46年)2月、橋本は仕事を受けた。





夫がアパートを借りてくれたので、二人だけの生活が始まりました。


二人で暮らして1年近くたった頃、思いがけず妊娠していることがわかりました。


高齢出産に加え仕事もしていたので、赤ちゃんが順調に育つかどうか不安でなりませんでした。

妊娠中は抗うつ剤も服用できません。辛い日々が続きました。

それから約1ヶ月後赤ちゃんを流産してしまいました。

心身共に疲れ果ててしまった私は、会社を辞めました。


家事もほとんどできず、うつ状態がしばらく続きました。

 うつ病になる原因として、夫婦間のトラブルなどの家庭でのトラブル、職場での対人関係のトラブル、転勤、転職、引越しなどの環境の変化、仕事上の責任や過労、身近な人との死別、離別などがあります。


 私の場合、急激な環境の変化に加え、夫の両親への気遣いや、新しい職場での勤務など、早く新しい環境に慣れようと頑張ったために起こりました。

夫の両親は同居し始めた頃は、なにもいわなかったのですが、だんだん慣れてくると私に気に入らないことがあると、小言をいうようになったのです。

やっとうつ病の地獄から抜け出したと思ったのもつかの間、2年で再発となりました。


 私の性格は、真面目で几帳面、完璧主義者(父からたたきこまれた)

感情表現が下手で、自分が思ったことを中々口にだせない。

言いたいことがあっても対立するのが嫌で遠慮してしまう。

私の性格はうつ病になりやすい典型的な性格でした。


 夫の父親の許せない言動から大きなショックを受けた私は、実家に帰りました。

夫は私と暮らすためにアパートを借りてくれ、夫と二人で暮らすことになりました。

 


 

 東宝の田中友幸が、池田会長と会ったのは1970年(昭和45年)8月31日だった。

『ゴジラ』シリーズ、黒澤映画など200本以上を手がけた辣腕プロデューサー。大阪の万国博覧会の会場を案内してから、映画『人間革命』の企画を会長に、ぶつける。いざ勝負の日である。

 映画は博打だ。小額の予算で巨万の富を生む傑作もあるが、50億円かけて大赤字の駄作もある。

 小説『人間革命』は、映画原作として魅力十分だった。池田会長の代表作。巻を重ねるごとにベストセラーを記録。創価学会の戸田城聖第二代会長を主人公にした伝記小説である。

田中の心は、不安と自信の間を揺れていた。

 日本の映画は斜陽化している。爆発的に普及したテレビに映像娯楽の主役の座を奪われた。ハリウッドの大作も目白押しで、邦画のヒット作は、めっきり減った。

 その閉塞状況に風穴を開ける。映画『人間革命』しかない。数百万の学会員を動員できる。ビッグマネーのチャンスである。

 しかし、危惧も抱いていた。

 果たして商業ベースに乗せていいのか。学会員の反発は招かないか。映画なら他の宗教団体も続々と乗り出している。安易な教団の宣伝に見られないか・・・・・。

 最後は自分の眼力を信じた。

 小説『人間革命』抹香くさい宗教本ではない。戸田会長の飾らない人柄。ダイナミックな生命論。戦後の混乱期を背景にした群像小説にも読める。多くの青年が「どうしたら、この世で幸せになれるか。平和を実現できるか」を追及している。

 絶対に「絵」になる。学会員ではない人々に訴えるだけの普遍性をはらんでいる。


 一方の池田会長。

生まれ育った東京・大田区の蒲田には、松竹撮影所があり、キネマの天地と呼ばれた。後輩を励ますため、一緒に映画館へ。多忙なため、物語のヤマ場になるころには席を立ってしまう。

 年末の仕事納めの夜。「ご苦労さん。映画でもいこうか」。若手を連れて新宿でオールナイトを観賞。受付のチケット係りが学会員で、思わぬ対話が弾んだこともあった。

 飛躍的に伸びてきた学会だからこそ「これからは質だ」「文化の時代だ」と語ってきた。

 恩師の戸田会長を直接知らない世代も増えている。小説『人間革命』の映画化も視野にあった。

新しい形で師の偉業を宣揚していく時期かもしれない。


 万博会場を案内した田中は、池田会長に切り出した。

「『人間革命』を読みました。大変に感動しました」思わぬ一言が返ってきた。

「私も映画に興味があります。良いものを作っていますね」

 手応えは十分。映像文化への造詣が深く、共鳴をする点も多い。3ヵ月後の11月、高ぶる気持ちを抑えながら伝えた。

「ぜひ映画化させてください。必ず成功します!」

東宝は製作部門を独立させ、良質な作品に力を入れてきた。映画館のネットワークも広い。全国にくまなく分布する学会員も足を運べる。条件は申し分なかった。

 後日。会長から返事をもらった。「ぜひ立派なものにしてほしい」

 アパート生活や仕事にも慣れ、夫と離婚が成立した後、とても優しくて私のうつ病を

とても理解してくれる男性と知り合いました。


 息子が中学生になったら私が引き取る予定でしたが、息子が生まれ育った家を離れたくないとの思いが強く、私の両親が息子を育ててくれました。

何度、息子を想っては涙を流したかわかりません。


 知り合った男性とだんだん親しくなり、私はプロポーズされました。

私は心底悩みに悩みました。

そして半年後、彼の誠実さを信じて再婚することを決断しました。

彼の家は私が住んでいるところから、車で3時間ほどかかりとても離れていて、こまめに息子に会いに行くことも中々できませんでした。


 こうして彼と彼の両親との新しい生活が始まりました。

新天地で新しい仕事も決まりました。

 私の父親はとても厳しくて、口答えをするととても怒りました。なので、私は父に言いたいことがあっても、ぐっと呑み込んでいました。

このような体験から、私は喧嘩のできない性格になりました。

彼の両親にも必要以上に気を使いすぎて、とても気疲れする毎日でした。


 そんな生活が1年程続いた頃、尋常ではない身体のだるさに襲われました。

近くの病院で採血検査をしても、何の以上もありません。

その後、この身体のだるさは、私が一番恐れていたうつ病の再発の前兆だったことが分かりました。