EIKOの気まぐれ闘病日記 -179ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 一難去って、また一難。その連続だった。

 外務省旅券課の窓口で引っかかった。若い役人が、学会に批判的な記事が載ったアメリカの新聞を持ち出した。

「学会さんは海外で、こんな悪口を書かれていますよ」

アメリカ側で入国を拒否される可能性があるのではないか。ねちねちとしつこい。なにも、この段階になって、わざわざ・・・・・・。

 それでも永井は神妙に頭を下げた。なんとか穏便に事を運びたい。その横で、ぬっと巨躯が動いた。

「なにい・・・・・」

 黒柳である。さんざん苦労させられ、タライ回しにされた挙げ句に、この嫌みか。ずいと永井を押しのけ、担当官の胸ぐらをつかまんばかりに詰め寄った。

「もう一遍、言ってみろ!」

 場が凍りついた。

 ”やってしまった・・・・・。”永井は目をつぶった。ここまで慎重に組み上げたトランプカードの家が崩れてしまうのか。

 なかば観念したが、意外や意外、がらりと役人の態度が変わっている。一喝されて、慌てている。どうやら公僕として一線を越えすぎたと気づいたらしい。

 ハッと我に返った黒柳も態度を改める、やがて池田会長はじめ渡航者全員が手続きを済ませ、旅券の申請は通過した。

 渡米を一週間後に控えた9月25日。静岡県内の戸田会長の墓前に、出発を報告する池田会長の姿があった。


 同年5月3日の第三代会長就任式。その夜、東京・大田区小林町の自宅では常と変わらぬ献立が食卓にあった。

「お祝いのお赤飯でもと思ったのですけれども、お葬式にお赤飯は、おかしいですから」

 香峰子夫人は、この日が池田家の葬式と覚悟を決めていた。

「お赤飯は用意していませんが、何か記念の品を差し上げたいと思います」

 会長は応じた。「旅行カバンがいい。大きくて丈夫なものを」

 10月2日。羽田空港、目の前には会長が幼少期を送った羽田の海。胸ポケットには戸田会長の写真。手には夫人が贈った心づくしの旅行カバンがあった。


 海外渡航には厳しい規制があった。今日のように、単なる視察や観光目的では許可は下りない。

 こころみに、1963年発行・大蔵省海外旅行調査会監修の『海外旅行の手引き』を開いてみよう。

 たとえば、次の要件に該当する場合、渡航は認められない。

「その渡航の通常の業務からいって、あるいはその渡航者の業務の取り扱い量からみて、海外に渡航することの必然性を認めがたいようなもの」

 池田会長は商社マンでもない。留学生でもない。報道関係者でもない。まして政府要人でもない。その場合は「一般外貨渡航審査連絡会」なる機関の審査を受けるしかない。

 この審査がまた煩雑このうえなかった。

 まず、渡航目的や行為の詳細、費用の見積もりなどを明示した各種申請書を日本銀行の外国為替局管理課に提出する。

 次に、これら申請書の写しを持って、関係する五つの省庁を回れねばならない。大蔵省。外務省、通産省。経済企画庁。科学技術省。

 それぞれの省庁を訪ね、担当者に渡航の趣旨を説明する。すべての省庁で、渡航の必然性が認められて、初めて渡航審査連絡会に案件が回る。

 もとより交渉は難航を極めた。


 旅行代理店で学会担当となった永井健雄。まだ駆け出しの新米社員だった。

 相棒は、学会に新設された海外係りの黒柳明。「黒ヒョウ」と渾名された大柄の身体に汗を浮かべている。愛想はいいが、目は笑っていない。

 二人が省庁回りを始めて、かれこれ一ヶ月。何度、門前払いを食わされようが、諦める気配がない。どの省庁でも、すっかり顔を覚えられた。

「またお前たちか!」

 大蔵省の為替局管理課。ノンキャリアから叩き上げた課長補佐が窓口で睨みつけている。

「創価学会?最近できた新興宗教だろ。何しに行くんだよ」

 江戸っ子なのか。チャキチャキのベランメエ口調、切り口上だ。

 申請書の渡航目的には「文化交流」「世界平和」と記されている。しかし紙を一瞥するだけ。詳細も聞かずにつき返してくる。

 無理もない。現地団体からの招聘状や契約書があれば有利だが、その種の書類は一切ない。アメリカでの団体の知名度も低い。現地のメンバーに有力者がいない。連絡網や指揮系統すらない。世界規模の教団として認知される要件は皆無に等しい。

「どうせ、貴重な外貨を浪費してくるだけだろ、やめとけ、やめとけ」

 悪意はなさそうだが、頑固者、埒は一向に明かなかった。


 池田会長から逐一、報告を受けた。そのつど勘どころを指摘した。

 かつて戸田会長の事業破綻を打開するために、顧客のもとへ昼となく夜となく足を運んだ。礼を踏み、頭を下げた。

 渉外は誠実第一だ。ただし卑屈になってはならない。あなどられてはならない。主張すべきことは確信を持って主張せよ。”渉外のホシ”を黒柳に伝えていく。

 永井の労も労った。食事を共にし、近況や家族構成などを聞きながら気づかった。揮毫をしたためた書籍も贈った。

「学会員でもないし、旅行代理店のペーペーの若造にすぎない自分に・・・・・・」

 高校球児だった永井。監督から叩き込まれた「体当たりで行け」がモットー。闘志に火がついた。会長の誠意に応えるため、自分なりに仏法を勉強し、役所の窓口で粘りに粘った。

「今回の渡航は、日本と世界の平和に必ず寄与します。すぐ結果がでるわけではありません。時間はかかります。でも、長い目で見てください。大事な大事な渡航なんです」

 一方、熱血漢の黒柳。時には肩を怒らせ、テーブルを叩く。口角泡を飛ばして熱弁を振るう。省庁の廊下を行く人までもが、遠巻きにして見た。

「分かったよ」。ひと月半ほどたった頃、難物だった大蔵省の担当者が根負けしたように折れた。

 渡航の案件は、ついに渡航審査連絡会に回された。

 信濃町の学会本部あたりに、赤とんぼが飛び交い始めていた。

 困り果てた顔で副理事長(当時)の北条浩が会長室に入ってきたのは、8月も半ば過ぎのことである。

「先生。どうしても、うまくいきません・・・・・」

 渡米準備の件だった。

 当局に渡航を申請してから、すでに1ヶ月。承認のメドすら立っていなかった。

 出発は10月2日と決まっていたが、とうてい間に合いそうもない。日程の延期を進言するつもりだった。その理由を会長に列挙していく。

 じっと聞いていた会長。北条の話が一段落するのを待って口を開いた。

「そうか。言いたいことは分かった。でも、私たちがやろうとしているのは、何のためだと思う?世界のための渡航じゃないか。そこを分かってもらいたい」

 世界のため──。

 北条には意外だった。

 草創期、聖教新聞に「世界」という見出しは、まず見当たらない。

 そもそも戸田城聖第二代会長ですら「東洋」とは口にしたが「世界」を明確に展望したことはない。学会員にとっては聞き慣れない、現実感に乏しい概念だった。

「向こうで、みんな待っているぞ。時は今だ。今しかない。渡航の日は変更しない」

 北条の話は正論かもしれない。しかし未踏の道を行く以上、困難、障害は覚悟のうえである。出発日は予定通り。その一点は譲らない。

 会長室を辞した北条は思った。会長の決意は固い、乾坤一擲、鵯越えの義経か、桶狭間の信長のようだ。


 ジャーナリストも驚きの目を向けた。

「会長になって半年後。ほかの団体なら一番、不安定になる。トップ交代に伴う種々の変化が、すべて表面に出てくる。それを落ち着かせ、内部を固めなければならない時期だ」(五島勉)

 第三代会長の誕生に学会全体が沸いていた。日を追って激増する会員数。それに伴う組織の改編、整備・・・・・・。

 学会は最高幹部以下、国内の懸案事項だけで天手古舞いであった。

 ニューヨークの乾いた空に、国連本部ビルが聳えている。

 1960年(昭和35年)10月14日。日本人の一行がビルを仰ぎ見ていた。整然と並んだポールにたなびく国連加盟国の旗、旗、旗。イースト川を渡る風は強い。早くも晩秋の冷たさである。

 第二次世界大戦の戦争状態を終結させたサンフランシスコ講和条約の発効から、やっと8年。日本は国際社会のテーブルの末端に、ようやく席をもらった程度の存在である。

 トレンチコートに身を包んだ池田大作SGI会長。パナマ帽を手に、同行者を振り向いて微笑んだ。

「帽子をかぶった紳士は、見当たらないねえ」

 同行の学会幹部たちが、面目なさげに頭をかいた。

 会長のいでたちは、彼らが悩み抜いた末のアイデアである。どんな服装で国連本部を表敬すればよいのか。正直、見当もつかなかった。渡航直前、ニューヨークの雑誌を読みあさった。新宿の帽子屋でパナマ帽を買い求めた。最新のフォーマル・ファッションのはずだった。


 初訪米。受け入れる現地スタッフは一人もいない。先発隊は無縁のこと。会館、拠点どころか、メンバーの連絡先すら、ほとんどつかめない。すべてが手探り状態のまま乗り込んだ。

 ハワイ、西海岸を経て、ここニューヨークにやってきた。

 国連本部では、第十五回通常総会を傍聴した。国連職員たちは怪訝そうに一行を見ている。池田会長は何事か想い巡らせながら議場を注視していた。

 国連ビルから表通りに出た。マンハッタンの街角では、渋い顔をしたニューヨーカーたちがニュースペーパーを読んで毒づいている。前日にワールドシリーズ最終戦があり、地元ヤンキースが痛恨のサヨナラ負けを喫していた。

──日本人メジャーリーガーの活躍など夢のまた夢。日本から、はるかに遠く隔たった異国である。

 訪米の計画が議論されていたころ。一人の学会幹部が、池田会長に質問した。

「海外には、ほとんど会員がいません。それなのに、どうして行かれるのですか」

 つくづくと彼の目を見て答えた。

「30年後を見なさい。私が行った後には、必ず多くの学会員が歩く。今は分からなくてもいい。後で分かる。見ておきなさい」

皆さん、いつも拙いブログを読んでくださり、ありがとうございます<m(__)m>


本日で「出会いのヨーロッパ」の連載が終了しました。


次回からは「アメリカ・希望は海を越えた」を連載しますので、宜しくお願いします。


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