EIKOの気まぐれ闘病日記 -178ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 戦争花嫁。ウォー・ブライド。

 終戦後、日本に駐留した外国人と結婚し、相手国に渡った日本人女性である。

 人数。時期。渡航先の国。外務省、厚生労働省等に公式データはない。ある調査によると1960年ごろまでに、4万から5万人がアメリカやオーストラリアに渡った。

 戦後のアメリカで、これほど冷遇された存在も珍しい。

 第一に、法的な保護がない。

 米国への帰化申請を認めない「新帰化法」(1906年)が立ちはだかっていた。

 50年、「改正GIフィアンセ法」が定められる。ようやく進駐軍兵士の妻子に限って入国が認められた。

 しかしアメリカは”合衆国”である。60年代に入っても、多くの州で異人種間の結婚には大きな制約があった。

 第二に、社会的な差別である。

 50年代、アメリカ全土を「マッカーシズム」の暗雲が覆った。”アメリカ的でないもの”を根こそぎ排除するイデオロギー。戦争花嫁も槍玉に挙がった。

 結婚手続きに1年以上かかることはザラだった。病歴、生活状態はおろか、思想信条までも立ち入ってチェックされた。

 第三に、家族の壁。

 ようやく結婚と入国が認められても、夫婦双方に「親の壁」があった。

 夫の親は「ジャップの嫁だけは連れてくるな!」

 妻の親は「ヤンキー野郎と結婚するなら勘当だ!」

 双方とも、戦争で命を落とした親戚や知人が少なからずいた。

 一人の人間として、女性として、夢を描いて渡ったはずのアメリカ。彼女たちの運命は過酷を極めた。

 祖国からも、夫の国からも切り捨てられた「もう一つの戦後」があった。



 「アメリカさんと結婚するような人間は、どこか違うのよ。お前は普通の娘なんだから。早まらなくてもいいじゃないの」

 テキサス州オースティンのアキヨ・リウェリン。1959年(昭和34年)、24歳の時に渡米した。いつまでも母の言葉が心に刺さった。普通って、何かしら。私は普通ではないのか。 

 神奈川県のキャンプ座間で働いていたころ、駐留軍兵士の夫と結ばれた。3歳の長女と1歳の長男の手を引いて太平洋を渡った。14日間、船にゆられオークランドに着岸。とたんに心細さが襲ってきた。歩くたびに涙がこぼれ落ちた。

 たどり着いたのはカンザス州のフォートライリー、ここも基地の町である。庭のない二軒長屋に住んだ。

 英語が話せない。話し相手がいない。知人がいない。夫の実家では冷たくあしらわれる。親の反対を振り切った手前、口が裂けても泣き言は言えない。日本への手紙では「心配いりません。私は幸せよ」と強がった。

 彼女たちの苦しみは、日本のマスコミでも報道された。

「敗戦日本でこそ玉の輿と思えた結婚は米国本土の厳しい現実にうちひしがれ離婚 自殺などが続出して ルーズベルト元大統領夫人も警告を出すほどだった」(毎日新聞社『一億人の昭和史』)

 アキヨは疲れ果てた。

 ある日、日本の友人からエアメールが届く。文面を追う目が一点で釘付けになった。

「絶対に幸せになれる」

 学会員の友人からだった。

 このブログは闘病記でもあるので、最近の病状を書きますねニコニコ


私の病気は”双極性障害”なのですが、今は双極性障害の症状と、鬱病の症状が


同時に現れています。


 双極性障害の症状としては、過眠(寝過ぎる)やお金を使い過ぎる事。


 鬱病の症状としては、人に会いたくない、電話に出られない。気分が晴れない。


身体がだるく重い。お風呂に入れない。などです。


 一番強いのがお風呂に入れないことです。精神疾患を患っている方は、お風呂に


入れない方が多くおられます。入れない理由としては、お風呂の狭い空間に入るのが苦痛という方が多かったです。


私はお風呂に入ると、幼い頃の悲しい思い出を思い出して悲しくなるので入りたくないのです。


お風呂に入る時は一大決心をして入ります。


 私は部屋がシーンとしているとマイナスのことばかり考えてしまうので、私の部屋は


常にテレビをつけっぱなしにしています。


 ブログを始めて1年半になりますが、ブログを通して沢山の方々と出会ったことが、


今の私には最高の励みになっています。心から感謝しています。


 これからも焦ることなくマイペースで双極性障害の完治を目指していきます!



 いわばコストパフォーマンスを完全に度外視した渡米であった。

「なぜ」「それでもなお」アメリカを世界への第一歩として選択したのか。

 記者がインタビューした。「会長に就任して、まず何をやろうと思ったか」

 答えは想いがけないものであった。

「アメリカに行こうと決意しました」

 合点がいかない記者の表情に、言葉を継いだ。

「アメリカには、戦後の混乱期に学会に入会し、アメリカ人のご主人と海を渡った婦人メンバーがいることを知っていました。気の毒な人が多かった。それとなく、私なりに、できる限りの方法で激励してきました」

 なんだって。戦争に翻弄された気の毒な女性のため・・・・・。

「いつの日か行く。必ず行く。それまで待っていてほしい。いつも、いつも気にしていました。このままでは、みな、あまりにも、かわいそうだ」


 第二の点。海外については、アジアなど文化的、地理的に近い諸国から始めたほうがいい。学会内では、そういう意見が圧倒的だった。押しとどめたのは池田会長である。

「国際情勢を見てみなさい」

 会長就任二日前の5月1日。ソ連領空を侵犯した米軍の偵察機が撃墜され、米ソ首脳会談が断絶した。

 日本には「安保反対」の大合唱が渦巻いていた。

「新安保条約」の批准を阻止するため、デモ隊が国会を取り巻く。警官隊と衝突し、痛ましい犠牲者も出た。アイゼンハワー米大統領の来日が延期された。

 アメリカでは反日感情が極度に高まっていた。

 首都ワシントン。

「オレたちの言うことが聞けないのか。ジャップ!イエロー・モンキー!だったらアメリカから出て行け!」

 憎しみのこもった罵声に、身の危険すら感じた日本人は多かった。

 日米関係が厳しいからこそ行く。一人の日本人として、仏法者として、アメリカから一歩を刻む。


 大学生もいれば、白髪交じりの学究の徒もいる。10畳ほどの部屋に机を並べ、原稿用紙と格闘している。

 学会本部二階の「東の間」。

 夏の暑熱がこもる部屋の隅で、古い扇風機がカタコト音をたてて首を振っている。夏休み返上で、英語版の学会紹介書『ザ・ソウカガッカイ』の編集に没頭していた。

「海外でも言論戦だ。まず文章での勝負になる。それも現地の言葉でなければいけない」

 会長の音頭で作業は7月下旬からスタートした。当初は『折伏経典』を抄訳する案が有力だったが、納得しなかった。

 日本人の思考や教義の押しつけになってしまう。文化、習慣が異なる事情を考え、新たに書き起こすほうがいい。

 7月半ば、翻訳グループの選抜が行われた。白文の立正安国論の冒頭を英訳する試験。受験者31人中8人が選ばれた。

 日をおかずして学会本部での”缶詰め”が始まった。

 辞書が役に立たない。「久遠元初」「一念三千」「十界互具」。仏法用語をを、どうやってアメリカ人に伝えるのか。一から議論を交わすしかない。

「これじゃダメ!やり直し」

 先輩から原稿を突き返され、がっくり肩を落とす大学生。第一章から、赤ペンで直しに直され、原型をとどめていない。作業は遅々として進まない。

 白地に青の文字が映える『ザ・ソウカガッカイ』が刷り上ったのは出発直前だった。


 「移民の国」アメリカとはいえ、敵国だった日本への国民感情は依然、厳しい。

 日本人の定住目的の入国を禁止する「排日移民法」。日本からの布教の道も事実上、閉ざされていた。

 加えて東西冷戦下である。アメリカ社会全体が、保守化していた。とうてい極東発祥の宗教を受け入れる素地などない。

 そもそもアメリカは建国以来、日本に頭を下げて教えを請うたことなど一度もない。