EIKOの気まぐれ闘病日記 -177ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 初訪問から15年──池田会長がニューヨークの国連本部へ3度目の訪問をしたのは、1975年(昭和50年)の1月である。

 事務総長に、核廃絶を求める1000万署名を手渡した。

 その席上、国連首脳が切り出した。

「キリスト教が世界宗教になるまで、多くの殉教者を出しながら2000年かかりました。創価学会は、わずか40数年で到達しましたね」


 一方通行であってはならない。池田会長は日本にアメリカの代表を招く。

 夏の研修会。

 「一緒に歩こう」

 アメリカSGIの幹部に呼びかけた。

 あたりをゆっくりと歩き、会う人、会う人ごとに励ます。役員が気を遣わせまいと、物陰に身を隠す。すると裏に回って「隠れなくてもいいんだ」。一通り歩くと「きょうの研修は終わりにしよう」。指導めいたことは一切ない。拍子抜けした。

 その夜の質問会で会長に問いかけた。

「権威主義の人間を出さないためには、どうすればいいですか」

会長は「だから今朝、研修したんじゃないか」

あっ・・・・・。

目が覚めた。これまでの自分の振る舞いを思い返す。

独立、自主の気風を尊重する国で、メンバーの気持ちを十分に汲み取っていたか。一人一人の特性を生かそうと真剣だったか。


 会長は、アメリカの幹部や青年との懇談のなかから、要望を受けて、いくつかの提案をしてきた。

①財政の透明化・・・・収支報告を明確にする。金銭問題を起こす幹部に常に厳しい。

②法人会則の明文化・・・・・リーダー個人の資質に左右されないシステムの整備を。「成功したアメリカ企業は、強いリーダーシップとルールが厳格である」

③会員第一の精神・・・・・・「暖かさを失ってはならない。会員を大切にしないと、組織が壊される」

④合議制の実施・・・・・上意下達は時代遅れだ。組織の打ち出しを一方的に落とすような会議は行き詰る。

⑤文化本部の設置・・・・・医学者、法律家、教育者らの特性を生かす場を設けてはどうか。

 これは、ほんの一端である。

 日本の組織と一線を画した上で、アメリカをSGIのモデルケースにしようとの意図がうかがえる。

 日曜日の午前11時。「アメリカが分断される時間」と言われている。

 アメリカ市民が礼拝に行く時間帯である。人種の違いが明確になる。

 白人の教会。黒人の教会。中国人の教会・・・・・。それぞれに礼拝施設が分かれている。同じキリスト教宗派であっても、民族によって分断されている。

 他民族国家。裏を返せば宗教対立、文化の摩擦が時に暴発を誘引する。

 政治の問題とも複雑に絡み合う、黒人開放運動の指導者マーチン・ルーサーキングや、米大統領ケネディに向けられた凶弾の引き金にもなった。


 あるアメリカの宗教専門誌が「人種的多様性がある」とSGIを報じている。

「アフリカ系アメリカ人も、ほかの少数民族も何の隔てもなく平等にSGIで活躍する。これまでどの仏教宗派も不可能だった」

 1960年当時、アメリカの会員の96%は日本人だったが、現在では10%にも満たない。アメリカの民族構成比に照らしても、アメリカSGIは圧倒的に多人種・他民族である。

 同SGIの機関紙は現在、英語をはじめ、スペイン語、中国語、韓国語、フランス語、ポルトガル語、タイ語、カンボジア語、そして日本語の、計9カ国語で製作されている。読者の半分近くが、英語を母国語としない。

 初渡米の折、池田会長がアメリカの日系人メンバーに「市民権の取得」「自動車免許の取得」「英語の取得」の三指針を示したことは知られている。

 日系の著名人が述べている。

「どうすればアメリカ社会に根付くことができるのか。私たちは何十年も考え抜いてきた。その末に導き出した結論と同じです」

 英字による独自の機関紙発刊を提案した。

 自分たちの国の言葉で、学会の指導を読み、仏法を学びたい。日本からの”出先機関”ではなく──メンバーの率直な思いであろう。

 アメリカに行く日本の幹部に言い聞かせた。

「アメリカ人から学んできなさい」

 教義や指導を押し付けるのではない。アメリカ人を尊敬する。その長所を尊重する。そうでなければ、東洋発の宗教は根づかない。


 日本の宗教がアメリカで浸透することは難事である。

 特に南部の保守的な地域では「警戒するべき異教」という考えが今も根深い。仏教徒の家に爆弾が投げ込まれる事件まで起きた。

 事実、アメリカの国情、国民感情を顧みずに、いたずらに社会問題を起こした教団もあった。珍妙な布教方式、医学の否定。賭博の温床となった教団まであった。

 浄土真宗など既成仏教宗派の布教も、日系人社会の枠内にとどまっていた。神道とて同じである。日本人以外への布教を試みた教団はあったが、黒人やメキシコ人は敬遠した。教団内での白人系信者の反発が予想されたからである。

 一昨日の夜、クレジットカード会社から突然電話がかかってきました電話


話を聞いてみると、私のクレジットカードから、3件も不正使用されていましたガーン


 このカードは普段使わないし、カードも家に置いていたので、何処でカード情報を


盗まれたのか全くわかりません目


 カード会社のコンピューターが不正使用を感知したそうで、確認のための電話でした電話

 カード番号を新しい番号に作り変えるそうです。


 皆さんも気をつけてくださいねドキドキ

 黄昏のマンハッタンン100丁目。

 写真家の江成常夫は、霧がかかった摩天楼を一瞥すると、めざすアパートメントへ歩みを早めた。

 毎日新聞社の報道カメラマンからフリーに転身した。1974年(昭和49年)秋、ライフワークとなるべきテーマを求めて、アメリカへやってきた。

 細く暗い路地の先。灰色にくすんだ外壁の建物が見える。黒人と白人のミュージシャン夫婦が住んでいた。

 撮影のため部屋に入ると、奇妙な物体が目に飛び込んだ。狭いリビングの中央に、不釣合いな仏壇。

「創価学会?日本の宗教が、こんなところにまで・・・・・・」


 「アー、ユー、ウォー・ブライ・・・・・・」

 ガチャン!

 ツー、ツー、ツー。

 またか・・・・。

 弱弱しく受話器を置きながら江成は溜め息をついた。

 4年後の78年、再渡米。ロス郊外の安アパートを根城にした。ポンコツ車にカメラ器材一式を積み、取材対象を探し回った。

 目的は「戦争花嫁」探しである。4年前の渡米で、ようやくつかんだ撮影テーマだった。

 彼女たちの存在を抜きに、日本の戦後は論じられないのではないか。ドキュメント的な手法で、戦争の一断面を切り取りたい。

 サンディエゴ。オーシャンサイド。モントレー。米軍基地の周辺を必死に回ったが、壁は厚かった。

「戦争花嫁(ウォー・ブライド)と口にした瞬間、電話を切られた。

 運良く会えても、貝のように押し黙ったまま。匿名です、撮影もしません。時間をかけにかけて説得し、ようやく重い口が開く。

「家族に見捨てられた悲しみ。ふりきれない郷愁の念。彼女たちは、愛憎相半ばする情念に身も心も引き裂かれんばかりだった」(江成)

 取材は一向に進まない。そんなある日、不思議な女性と出会った。これまでと何か違う。夫とのなれそめ。家族の反対。苦境の日々。驚くほど赤裸々に語ってくれた。

 部屋に上がらせてもらうと、立派な仏壇がある。

「あっ!創価学会!」

 彼女たちにとって過去は、いつまでも心にまとわりつく、忌まわしいものではなかった。既に信仰によって乗り越え、勝ち越え、人生の喜びに昇華したものだった。むしろ逆境の日々を誇りにすら感じている様子だった。

 驚きが取材を加速した。同じ境遇の婦人部メンバーを紹介してもらった。誰もがこころよくインタビューに応じてくれた。


 2年がかりで100人を超える戦争花嫁を取材した。そのうちの実に三分の一がSGIメンバー。労苦は写真集『花嫁のアメリカ』(講談社刊)に結実し、この分野の草分け的存在になった。江成の名は一躍、写真界に刻まれた。

 江成は今も語る。

「私のような表現者は、不偏不党でないといけない。そのうえで感じることがある。SGIメンバーは、誰もが前向きで逞しかった。悩みの底を突き抜けていた」