EIKOの気まぐれ闘病日記 -176ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 被爆都市・長崎。市長在任中(1979年~95年)から、本島は国内外の政治家、学者、平和運動家を長崎に迎えた。

 ひときわ印象に残る人物がいた。池田大作SGI会長。

 ありとあらゆる平和団体と接してきたが、何が違うのか。

「そりゃ、あげればきりがないけど、とにかく会長は言葉が分かりやすい」

 現在、本島は執筆に専念している。反核、軍縮、平和。テーマは明快だが、論じるほど言葉も内容も難解になる。多くの学者や運動化が直面するジレンマである。

「池田会長は、難しい言葉を使わない。全部、平明な言葉。著作を読んでも前のページにさかのぼって読み返す必要がない。それこそ島原のバアちゃんでも「なるほどなあ」とわかる」

 市長時代から、池田会長の論文、著作を紐解いてきた。

「かといって、決して内容の質が落ちるわけじゃない。そこに僕は偉大な感じるんだな」

 平和運動の指導者の資質とは。

「大衆向きに長じていることです。それが池田会長には生来、そなわっている」

 発言の背後には、世にあまたある平和団体の実態も垣間見える。難しい。分かりにくい。大衆の側を向いていない。

 時に利権すら絡む、一部の平和団体、環境保護団体、人権団体が「環境や人権を食い物にする利権屋」と化しているのも事実である。


 池田会長の民間外交の軌跡は、折々に触れてきた。日米、日中、日露、日韓・・・・・・・。それぞれの国と日本の間には、戦争、反目、対立の歴史があった。国家と国家と谷間にのみこまれた犠牲者がいた。

 池田会長は、こうした大衆に、どんな言葉を届けたのか。いかなる心の変革をもたらしたのか。

 新聞記者と別れ、公用車に乗り込もうとした瞬間、本島等は異様な気配を背後に感じた。

 パン!

 銃声。熱い火箸を突き刺されたような衝撃が走った。

 たった今、本島と別れたばかりの記者たちは長崎市庁舎の玄関前に飛び出す。修羅場を踏んでいるはずの彼らも息をのんだ。

 本島が胸をおさえながら、膝から崩れ落ちている。背広に赤黒い染み。路上に血だまりができていく。

「市長!」

 1990年(平成2年)1月18日午後3時過ぎである。

 犯人取り押さえ、救急車搬送。取材陣は、病院や警察に散って、原稿を書き殴る。

「長崎市長が狙撃され重体」「至近距離1・5メートルから撃たれ、左胸を貫通」「犯人は右翼団体幹部」・・・・。

 戦争責任に関する本島の発言が引き金だった。

 戦後、初めて要人が国内で撃たれたテロ事件だった。

 辛うじて一命を取り留めた本島。

「人間というものは、十人から激励や支持を得ても、一人からすごい非難攻撃を受けると、案外こたえるものですね。眠れぬ夜もありました」

 言論の重さは生命の重さに等しいことを、改めて知った。

 いつも私のブログを読んでくださる皆様、ペタやコメントいつもありがとうございます。                                <m(__)m>


 本日で「アメリカ・希望は海を越えた」の連載が終了しました。


 次回からは「平和・行動と祈り」を連載しますので、よろしくお願いします。

                                   <m(__)m>

 かつてキャンプ座間からアメリカに渡ったアキヨ・リウェリン。

 二軒長屋に住んでいた戦争花嫁は仏法と出会い、ダンボールの仏壇にご本尊を安置した。

 それから40余年、娘のジョアン・マクミランはオーストン市の女性リーダーに。孫娘のリサは2007年(平成19年)5月にアメリカ創価大学を卒業した。

 なぜ米兵と結婚したのか、なぜアメリカに来てしまったのか・・・・・。あの孤独に打ちひしがれた日の面影は見当たらない。


 「うーん」

 江成常夫は白いものが混じった鬢を撫でながら考え込んでいた。

 「やはり確かめに行こう」

 1997年、渡米の準備を始めた。

 一貫して日本人と戦争の関わりをテーマに取材してきた。すでに木村伊兵衛写真賞、土門拳賞、毎日芸術賞などの栄誉にも浴していた。

 そのうえで、どうしても確かめたいことがあった。あの戦争花嫁たちは、どうなったのか。20年ぶりに追跡調査し、再び写真集にまとめようと思い立った。

 当時の赤ん坊が成人していた。音信普通の女性も数多い。思いがけない後半生の激変に瞠目したケースもあった。

 そのなかで、やはりSGIの女性は違った。光って見えた。

「彼女たちと巡り会っていなければ、私の人生も変わっていたでしょう」

 写真集のタイトルは『花嫁のアメリカ 歳月の風景』(集英社刊)。一枚一枚、ページをめくりながら回想する。

「そういえば20年前、彼女たちの口から、よく池田会長の話が出てきました」

 懐かしそうに語る。

「私など、たまたま戦争花嫁という視点が評価されたようなもの。池田会長は世界的な活動のなかで、戦争花嫁一人一人の幸せに光を当ててこられた」

 一枚の写真、一瞬の表情の背後に、幾十年にわたる歳月の流れがある。SGIメンバーの写真を指差しながら続けた。

「ああ、この一家は大邸宅に住んでいましたね。この人は何十人もの大家族に囲まれていた。人種融合のモデルですね。20年たって、以前よりも、もっと幸せな生活を送っている」

 写真の中の彼女たちは、みな笑顔だった。

 


 池田会長は、ユダヤ系、アフリカ系、イスラム系など多様なアメリカ人と対話を重ねてきた。政治家、学者、経済人、芸術家、社会運動家・・・・。交流の幅は広い。

 肩書きで人を選ばない。ある著名人との会見を用意した幹部に語ったことがある。

「肩書きでなく、誠実な人との語り合いたい」

 ハワイ・東西センターのオクセンバーグ理事長。カーター政権下は国家安全保障会議の中国・インドシナ担当上級スタッフだった。クリントン政権下でも米中関係のアドバイザーだった。

 学会への関心は高かった。

 軍部による壊滅的な弾圧を受けながら、日本最大の宗教団体になった。戦後日本の奇跡的な復興のエネルギーの一つである。しかも共産主義国とも友好を深め、世界各国に会員がいる。

 ミスター池田、どんな人物なのか?

 来日した際、オクセンバーグは関係者に尋ねている。「お会いする際、特別なルールはありますか」東洋の宗教指導者と会う場合、往々にして制約や慣例がある。身体に触れてはいけない。目を合わせてはならない。ひざまずく必要がある。エトセトラ。

 答えは「なにもありません」

 会見を終えたオクセンバーグは声を弾ませた。「理知的だ。進取に富んだ宗教指導者だった」


 アメリカ大統領との会見も、J・F・ケネディ以来、幾度となく話があった。

 1992年(平成4年)、当時のジョージ・ブッシュ大統領のパーティーに招待された。この時も、会長から指名を受けて学会の幹部が応じている。

 この時だけではない。「アメリカは政治の国。あえて大所高所から考え、大統領と会う選択肢をとられなかったと思います」と、ある幹部が述べている。

 政治と一定の距離を置く。特定の党派や勢力に与することはない。あくまでも「よき市民」として生きる。SGIの一貫した原則である。


 池田会長がアメリカ刻んだ足跡は多い。

 アメリカ創価大学、ボストン二十一世紀センターの創立。ハーバード大学などでの講演。米国務長官キンシンジャー、経済学者のガルブレイス、レスター・サロー等々との対話。

 文明間対話の対談集だけでも──ヌール・ヤーマン(ハーバード大学教授、文化人類学者)ドゥ・ウェイミン(ハーバード大学教授、儒教研究の世界的大家)、ハービー・コックス(ハーバード大学教授、宗教学研究の第一人者)、エリース・ボールディング(平和学者・社会学者)、ヘイゼル・ヘンダーソン(未来学者)

マジット・テヘラニアン(平和学者)、ノーマン・カズンズ(ジャーナリスト・医学者・平和思想家)、ライナス・ポーリング(世界的科学者・ノーベル化学賞・平和賞受賞者)・・・・・。

 40年以上におよぶアメリカ社会への貢献については、稿を改めて述べたい。