EIKOの気まぐれ闘病日記 -175ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 会長就任直後の1960年初頭。あるルポライターの取材を受けた。

 焦点は「幸福とは何か」。

「では池田会長、その絶対的な幸福とは、創価学会に入る以外にないというんですか」

 大きく手を振った。「そんな手前ミソを言うつもりはありませんよ」。

 だが絶対的というからには、よほどの頭脳や経済力、精神力などが必要だ。それこそ超人的な能力が。

 ライターの疑念打ち消すように、会長は語気を強めた。

「仏法には、そういう無理がないんですよ。人間とは何か。何をすべきか。それを極めて合理的に無理なく説ききっている」

 はっとした。

 仏法には無理がない。

 インタビューの核になる言葉だった。

「だから誰もが生きる目的を持ち、強くなれる。主体的な自らの宿命を転換していけるようになる。そうした個々の宿命転換の総和が、自然と、社会、国、人類の平和につながっていく」


 学会員は超人的な活躍などで平和運動を進めているわけではない。無理なく、自然に、己の生き方の延長として、いつの間にか平和というテーマに関わっている。そんなケースが圧倒的に多い。

 いつも私の拙いブログを読んでくださりありがとうございます。<m(__)m>


 毎日沢山のペタやコメントありがとうございます。


 5日ほど前から、3日間胃がキリキリと痛み出し、参りました。


 胃が痛くなることなんて滅多にないのに・・・・・・。


 気分も落ち込んでしまい、先週の座談会も、本幹も参加できませんでした。ガーン


 きょうもひまわりの会合でしたが、参加できませんでしたガーン


 何とかマイペースで過ごそうと思います。

 「元気な?」

 「元気だったか?」

 お互いに一言交わしたっきり。嗚咽が続く。30分の面会時間は、たちまち過ぎた。

 長い廊下を、うつむきながら歩く女性とすれ違った。ある戦犯の夫人だった。この日の深夜、元首相・東条英機の絞首刑が執行された。伊藤の父は受刑者として、後片付けをさせられた。


 仮釈放され、新居浜に戻ってきた父は、すっかり無口になった。何かを忘れるように酒に溺れた。

 創価学会で信仰と出会った伊藤だが、誰にも打ち明けられない悩みがあった。

 なぜ父は戦犯になったのか。私は犯罪者の娘なのか。問いただせないまま、重く時が流れた。

 そんな彼女の心に響いたのが、小説『人間革命』第三巻「宣告」の章だった。物語の舞台は、極東国際軍事裁判(東京裁判)である。

 1966年(昭和41年)の12月22日から聖教新聞で連載開始。奇しくも、巣鴨プリズンで父と面会した日だった。

 東京裁判を真っ向から論じている。勝者が敗者を裁く。そこに正義があるのか。戦勝国なら人を処刑しても罪にならないのか。父も戦争の犠牲者であることを改めて思い知った。

 「宣告」の章に背中を押され、戦犯について聞きたい、と父に初めて問うことができた。学会が戦争証言を集めている時期である。

 「ええが。済んだことじゃが」と言っていたが、一つ一つの記憶が鮮明だった。捕虜全員の名前すらも、高熱を出した捕虜のため、自ら薬を求めて飲ませたこと。その捕虜の証言で減刑されたこと。決して非人道的な父ではなかった。

 貝のように押し黙っていた過去が明かされ、父と娘の長い戦後が終わった。

 「私は貝になりたい」

 この題名のドラマがヒットしたのは、1958年(昭和33年)である。

 軍隊から復員した理髪店主(フランキー堺)が逮捕される。捕虜虐待の容疑、気の弱い男で、上官の命令にしたがった行動だった。しかしBC戦犯として法廷に立たされ、絞首刑に。

 家族への遺書。もう人間に生まれたくない。海の底の貝になりたい、と記す。貝ならば兵隊に取られず、戦争もないからだ。反戦ドラマの秀作だった。


 伊藤栄子(愛知県新居浜市)の父、喜市は、BC戦犯だった。

 軍事裁判にかけられ、4年間、東京の巣鴨プリズンに押し込められた。

 もともと平凡な製缶工である。43年(昭和18年)秋。会社から、工場で捕虜を使うように命令された。新居浜には収容所があり、オランダ、オーストラリア等の捕虜がいた。命令で警戒員を努めた喜市は戦後、捕虜虐待の罪に問われた。

 娘の栄子は、一度だけ母に手を引かれ、巣鴨プリズンの父を訪ねた。

 48年12月22日。池袋の周辺には闇市がひしめき合い、喧騒がうなっていた。

 募金箱を首から提げた傷痍軍人。無表情で丼物をかっこむ女。流行始めた「異国の丘」のメロディーがラジオから流れてくる。

 刑務所は異界だった。

 ヘルメット姿の立硝兵。肩にかけた機関銃が鈍く光る。高さ5メートルほどの赤茶けた塀の中へ。万事アメリカ流で運動場も整っている。娯楽施設もなる。食事も栄養価の高いメニューだった。

 橋本トヨミは、冷や汗をかきながら成田発パンナム16便の座席にたどりつき、シートベルトを巻いた。1982年(昭和57年)5月31日の夕方である。

 初めて搭乗する国際便。まったく勝手が分からない。しかも目的地はアメリカ。1945年(昭和20年)夏、長崎にいた自分の頭上で炸裂した原爆を製造した国である。

 ニューヨークで開かれる第二回「国連軍縮特別総会」。一連の行事の中で、被爆者代表として、苦渋の半生を発表する予定だった。

 ──45年8月9日、爆心から1・2キロの自宅にいた。一瞬の閃光と地響き。3歳の長男と崩れた家の下敷きに。息子は救出されたが、自分の上には重い梁。動けない。火の手が迫ってきた。逃げんば!

 飛び出た釘が横腹を切り裂く。痛みをこらえ、渾身の力を込めた。辛うじて脱出できた。全

身を刺したガラス片。”ピカ”を直視した長男の右目には光が戻らなかった。戦後も家族の入退院に明け暮れた。補償も不足し、長く暗い地獄が続いた。


 6月1日。

 アメリカの科学者グループと懇談した。原爆を開発した「マンハッタン計画」に関わった人もいる。

 そのひとり、マサチューセッツ工科大学教授のバーナード・フェルドが握手を求めてきた。学究者らしく穏やかで知的な風貌だが、目の奥に何かわだかまりがある。

 当たり障りのない話が続いたが、ふと言葉が途切れた時、フェルドが低い声で切り出した。

「あなたはアメリカを恨みますか?」

 ひやりとした空気が流れる。

 あまりにもストレートな問いである。極めて微妙な問いでもある。しかし橋本は、何の迷いもなく答え始めた。

「最初は憎くて、たまらんやった。原爆は、たった1発で、我が家の、多くの市民の幸せば奪いよったけん」

 橋本と通訳を交互に見ながら、科学者たちは険しい顔で聞いている。

「ばってん、今は、アメリカでも、世界の誰に対しても、私らが受けた苦しみを、二度と絶対に味あわせたくなかと。そいだけです」

 思いもかけない発言だった。

「私は日本で仏教の団体に入っています。創価学会です。会長の池田先生に教わりました。『愚かな指導者の生命にある魔性が、一番悪か』って」

 フェルドの顔に驚嘆の色が広がった。