EIKOの気まぐれ闘病日記 -174ページ目

EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
いきなりのアメンバー申請はお断りしています。

 こんばんはニコニコ EIKO2002です。


 今日も沢山のペタありがとうございますドキドキ


 今ペタ返しが終わったところです。


 今日は通院日でした病院


 東京まで通院するので大変ですが、息抜きの側面もあります。


 今の先生に出会ってここまで良くなったので、医師を変えるのが怖いのもあります。


 いつも通院日は疲れすぎてなかなか眠れないのですぐぅぐぅ


 そろそろ寝る準備をしたいと思います。


 それでは、お休みなさい(@ ̄ρ ̄@)zzzz

 核時代平和財団の所長デイビット・クリーガーが答えに窮したのは、2000年(平成12年)3月16日である。

 東京・創価学園。卒業式を前に池田会長と懇談していたときである。

「所長。いったい核は、どんな色をしているんですか。どんな臭いがするんですか」

 虚を突かれた。核とは何物なのか。どうすれば退治できるのか。その正体を暴きたい。烈々たる思いが伝わってきた。


 平和運動の世界は、やたらと「箔」を重視する一面がある。やれ国連の某要人が後援した。やれ先進国の一流会議場フォーラムを開いた。やれ欧米の一流紙が大々的に取り上げた。

 NGO(非政府組織)で平和運動部門のリーダーをしている人物が嘆く。

「人類は平和、平和と叫んで、5千年も経った。だが、世界平和が実現したことは一度もない。結局、平和屋、人権屋を生んだだけじゃないか」

 別の運動家は言う。

「いや、もう一種類いる。社会と世界の現実なんか、どうでもいいという夢想家、妄想家だ。浮世離れした『平和原理主義者』『平和念仏主義者』だ」

 平和や人権を食い物にする者。現実を知らず、世間を知らない、青い「跳ねあがり」「お調子者」。いずれに対しても池田会長は厳しい。


 余談になるが、1970年代後半の、いわゆる第一次宗門事件のさなか。静岡県大石寺の境内で、こんな場面があった。

 坊主頭が雁首をそろえ、池田会長に手を合わせた。

「何とかしてください・・・・・」

 日蓮正宗宗門では坊主同士が派閥争いを繰り広げ、まっぷたつに分裂していた。反執行部の若手が寺にデモをかけるという。

 慌てふためく大石寺。ピケを張って防御の用意をする者もいた。

 右往左往の宗門首脳を横目に、池田会長は同行していた学会幹部に語った。

「本当に来ると思うか」

 事態は緊迫している。だが、誰も確証はできない。

「本気で戦うという覚悟なら、来る。だけど、そうは思えない。来ないよ。口先だけだよ」

 結局、デモ隊は来ず、アリバイのように周辺でビラをまいただけだった。

 口先だけの人間を、ずばりと見抜く。


 別のエピソード。

 紹介する人があり、某国の要人を地方の会館に迎えた。

 大物ぶっている。どこか軽薄な男、挙措動作にも落ち着きがない。会長は常と変わらず、自ら会館を案内し、厚く持て成した。

 談たまたまソ連大統領ゴルバチョフの話題になった。会長は既にモスクワでゴルバチョフを会見し、初訪日の意向を引き出している。それを知ってか知らぬか、要人が吹聴した。

「ゴルバチョフについては、私も橋渡しをやろうと思っている」

 倣岸な響きの声だった。会長が問うた。

「あなたは大統領に会ったんですか」

「いや・・・・・」

「それでは、何を、いつ、どのように手を打つというんですか」

「・・・・・・」

 会見が終わった。要人の表情は訪ねてきた時とは一変していた。

「あの人、奮え上がっていましたね」(同行記者)





 おや?方向が反対じゃないか・・・・・。

 衛生兵の吉川光雄は、小さな船窓に顔を押し付けた。南下して日本へ帰還するはずの貨物船なのに、逆に間宮海峡を北上しているではないか。

 突然、船内のスピーカーが耳をつんざいた。「日本兵士は捕虜としてソ連に連行する。入国のため直ちに所持品検査を行う。甲板に集合せよ!」

 畜生!だまされた、国際法も完全に無視している。ソ連を罵る怒号が渦巻いた。1945年(昭和20年)9月、船はシベリアに碇をおろした。ラーゲリ(強制収容所)で過酷な労働が待ちうけていた。

 猛吹雪の日。原始林で伐採作業をしていた吉川は仲間とはぐれた。頼りの焚き火が消えた。

 ああ、俺は死ぬ・・・・・。

 気がつくと病院のベッドの上にいた。全身凍傷。傷が癒えると、衛生兵の経験を見込まれ、看護士になった。しかし、あっけなく仲間は生命を落としていく。厳寒期は一晩に最低一人は死ぬ。

 せめて人間らしく野辺送りしてやりたいが、ソ連兵は「死人に着せる服などない!」。枯れ木のような裸の骸がシベリアの大地に吹きさらされた。


 一年が過ぎた。病室から怒声と野次が聞こえる。

「この帝国主義の手先め!徹底的に自己批判しろ!」

 目を血走らせた捕虜が、同じ日本人を吊るし上げている。「大衆裁判」が開かれていた。

 共産主義への洗脳。きっかけは壁に張られた「日本新聞」だった。日本政府を批判し、ソ連をたたえる記事が紙面を埋める。編集長はKGB(ソ連国家保安委員会)中佐コワレンコである。

 冷たく凍った目の男も潜入してきた。思想教育のプロ。患者は恐怖におののく。これが病院なのか。警察官。憲兵。役人。支配階級にあった者を引きずり出す。吊るし上げは2時間、3時間と続く。肉体的に弱ったところへ精神的に辱める。発狂して首を吊る者も出た。

 生き地獄そのものだった。

 吉川も机の上に立たされ、徹底的に批判された。反抗すれば帰国の道が閉ざされる。歯を食いしばった。同じ祖国の仲間なのに、なぜ!

 48年(昭和23年)6月。日本への帰還許可が出た。抑留は実に971日間。ソ連への憎悪は消えようがない。


 帰還後、北海道庁に職を得た。再婚した妻のミサヲは学会員で、しぶしぶ入会した。内心、これも洗脳の一種じゃないのかとも疑った。

 しかし根は勉強家。池田会長の著作に吸い寄せられる一文があった。

「戦争は人間の生命に巣くう魔の所業である」

 シベリアで人間の魔性を嫌というほど見てきた。

 最も驚いたのは、共産主義国家との対話だった。冷戦下、ソ連、中国の首脳をも魅了している。「日本新聞」編集長、コワレンコまで池田会長を慕っていた。

 あの共産主義の権化が!

 吉川は悩んだ。自分が小さく見える。ソ連を憎んでいるだけでいいのか。

 池田会長を見てみろ。自分に何かできないか。そうだ、あの悲惨な体験を後世に残すことができるじゃないか。

 思い出すのも嫌だった過去を呼び起こし、原稿用紙に刻みつけた。ラーゲリでの日々、同胞の死。執筆は深夜にまで及んだ。

 よし、これでいいだろう。

 1984年(昭和59年)、ペンを置いた。原稿用紙5000枚。憎しみの壁を乗り越えた満足感があった。

 この資料をもとにまとめた『971日の慟哭』は96年(平成8年)、北海道ノンフィクション賞(特別賞)に選ばれた。

 先日は皆さんにご心配をおかけしてしまい申し訳ありませんでした。


 お陰さまでだいぶ体調も戻ってきました。


 沢山のコメントありがとうございました。<m(__)m>


 この所、130件を超えるペタが続いていました。


 連日ペタ返しに4,5時間かかっておりました。


 最近は大量のペタが一日おきになってきたので、少しは楽になってきました。


 どうぞこれからも宜しくお願いします!<m(__)m>

 「日本名は鈴木光義さん、鈴木光義さんです。山東省から来られました。中国名は・・・・・・」

 ブラウン管から叫びにも似たアナウンスの声が響いていた。

 1983年(昭和58年)11月。石崎馨(かおる)(東京都豊島区)はテレビに食い入った。画面に男性の顔が映し出され、テロップに間違いなく「山東省」の文字が流れている。その上には「中国残留孤児帰国調査」とあった。

 目と耳を疑った。

 山東省に残留孤児?

 石崎は、巣鴨とげ抜き地蔵の近くで工務店を営む平凡な職人である。

 大正末期の44年(昭和19年)に召集され、宇都宮第十四師団第二歩兵連隊に入隊した。

 戦況は悪化の一途である。訓練もそこそこに中国・山東省に派遣された。

 翌年8月、終戦。石崎ら三東省駐留の部隊は、粛々と任務を遂行した。

 最後まで踏みとどまって、山東省に残留する邦人の帰国ルートを確保した。祖国への帰還に全力を注いだ。


 テレビを消して考えた。

 どうして山東省に孤児がいるんだ。全員帰国させたはずではないか。

 大工の石崎は、仕上げた仕事にケチをつけられたようで面白くない。

 翌朝、厚生省(当時)に電話し、残留孤児「鈴木光義」の滞在先を教えてもらった。訪ねていって、鈴木に会った。

 生い立ちを聞くと、第十四師団の手が届かない地域で、一家は離散していた。そうだったのか。残念で仕方ない。

 ここから残留孤児との縁ができる。

 3年後、鈴木光義の妹・信子が発見された。しかし、お役所の杓子定規の規定にはばまれ、日本の永住が認められない。

 石崎は家族を集めた。

「俺が身元引受人になる。縁があるんだ。見離せない。さんざん池田先生から『一人を大切に』と教わってきたじゃないか」

 妻も家族も賛成してくれた。


 石崎の店は、学会の東京戸田記念講堂に近い。幹部会の度に池田会長を迎えた。出会った一人一人に、とことん面倒を見る姿勢が目に焼きつく。

「日中友好なんて大それたことを思っちゃいなかった。ただ、日本に帰りたい、と言っている人の力になりたくて。

 それに中国人は、敵国だった日本人の子供を育ててくれた。その恩義に報いたかった」

 妻・かなえと共に身元引受人として厚生省に登録。以来、世話した孤児らは24年間で20世帯。100人を超える。

 帰国した孤児に池田会長の足跡を語ることもある。日中国交正常化提言。周恩来との出会い。「あなたたちが、ここにいるのも、日中友好の井戸を掘った人がいるからだ」。孤児たちは、驚きと感謝の混じった顔になる。