「日本名は鈴木光義さん、鈴木光義さんです。山東省から来られました。中国名は・・・・・・」
ブラウン管から叫びにも似たアナウンスの声が響いていた。
1983年(昭和58年)11月。石崎馨(かおる)(東京都豊島区)はテレビに食い入った。画面に男性の顔が映し出され、テロップに間違いなく「山東省」の文字が流れている。その上には「中国残留孤児帰国調査」とあった。
目と耳を疑った。
山東省に残留孤児?
石崎は、巣鴨とげ抜き地蔵の近くで工務店を営む平凡な職人である。
大正末期の44年(昭和19年)に召集され、宇都宮第十四師団第二歩兵連隊に入隊した。
戦況は悪化の一途である。訓練もそこそこに中国・山東省に派遣された。
翌年8月、終戦。石崎ら三東省駐留の部隊は、粛々と任務を遂行した。
最後まで踏みとどまって、山東省に残留する邦人の帰国ルートを確保した。祖国への帰還に全力を注いだ。
テレビを消して考えた。
どうして山東省に孤児がいるんだ。全員帰国させたはずではないか。
大工の石崎は、仕上げた仕事にケチをつけられたようで面白くない。
翌朝、厚生省(当時)に電話し、残留孤児「鈴木光義」の滞在先を教えてもらった。訪ねていって、鈴木に会った。
生い立ちを聞くと、第十四師団の手が届かない地域で、一家は離散していた。そうだったのか。残念で仕方ない。
ここから残留孤児との縁ができる。
3年後、鈴木光義の妹・信子が発見された。しかし、お役所の杓子定規の規定にはばまれ、日本の永住が認められない。
石崎は家族を集めた。
「俺が身元引受人になる。縁があるんだ。見離せない。さんざん池田先生から『一人を大切に』と教わってきたじゃないか」
妻も家族も賛成してくれた。
石崎の店は、学会の東京戸田記念講堂に近い。幹部会の度に池田会長を迎えた。出会った一人一人に、とことん面倒を見る姿勢が目に焼きつく。
「日中友好なんて大それたことを思っちゃいなかった。ただ、日本に帰りたい、と言っている人の力になりたくて。
それに中国人は、敵国だった日本人の子供を育ててくれた。その恩義に報いたかった」
妻・かなえと共に身元引受人として厚生省に登録。以来、世話した孤児らは24年間で20世帯。100人を超える。
帰国した孤児に池田会長の足跡を語ることもある。日中国交正常化提言。周恩来との出会い。「あなたたちが、ここにいるのも、日中友好の井戸を掘った人がいるからだ」。孤児たちは、驚きと感謝の混じった顔になる。