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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 桑田が「最も思い出深い仕事の一つ」と語る記事がある。「沖縄報告」。

 1969年(昭和44年)、「朝日新聞」の朝刊で、じつに100回にわたって続いた長期連載である。桑田はキャップとして赴任。トップクラスの記者が沖縄に送り込まれた。那覇支局にいた筑紫哲也も取材班の一員だった。

 政治に翻弄されつつも、したたかに生き抜く庶民の姿を追った。

「沖縄の人たちの、たくましい生活を書きたかった」と桑田。

「本土復帰」前の哀歓を書き込んだ連載は、新聞ルポの名作として高く評価されている。

 この連載が始まった時。沖縄には、中国を睨む核ミサイル基地があった。

 メースB──広島型原爆に相当する威力をもつと言われた。中距離核ミサイルである。冷戦下、アメリカの威信を示す軍備だった。

 基地は4ヶ所。計32基の発射台。ミサイルは北京、上海をはじめ、中国の主要都市を射程においていた。


 やがてメースBは撤去された。

 用済となったミサイル基地。その一つが恩納村にあった。現在、創価学会の沖縄研修道場になっている。海外からの見学者をはじめ、人々のにぎやかな声が絶えない。

 1983年(昭和58年)3月。池田は同地を初めて訪れた。基地の跡が、廃墟のまま残っている。地元では取り壊す話が進んでいた。本土の会社が、解体総額の見積もりまで出していたという。

 しかし、池田の発想は違った。

「ここを、そのまま世界平和の記念碑にしたらどうか」

 聞いた人は皆、その提案に耳を疑った。忌まわしいミサイル基地を、そのまま残す。しかも「平和の象徴」に変えようというのである。

「基地の跡は永遠に残そう。『人類は、かつて戦争という愚かなことをしたんだ』という、ひとつの証として」

 核兵器への不安から、『恐怖の城』とも呼ばれた恩納村の基地。「世界平和の碑」に生まれ変わった。


 実は桑田は、”会長就任以前”の池田を取材している。

 1956年(昭和31年)7月。参議院選挙の大阪地方区で、学会推薦の白木義一郎が当選した。「朝日新聞が「”まさかが実現”」と報じた「大阪の戦い」である。

 政治部記者だった桑田は、創価学会へ取材を申し込んだ。

 都内の取材場所へ着くと、他者の記者たちも待っている。細長い控え室。7、8人いただろうか。『朝日新聞』の記者もいた。「そっちも来てたのか」と互いに驚いた。

 順番が来た。部屋へ入る。

 テキパキと取材の応対をしていたのは、自分よりも若い男だった。

 目が合った。青年は言った。

「初めまして。池田と申します」


 ソフトな物腰。しかし、黙っていても、五体から満々と「磁力のようなもの」を発している。

「あ、この人は間違いなくリーダーになるぞ」。これが第一印象だった。

「取材は真剣勝負。刀を抜いて向き合う。切っ先が触れれば、『大した人物じゃないな』とか、『こいつ、やるな』とか、だいたい見極めがつく」

「池田さんと相対して、『油断するとこっちがやられる』と思った」


 中学生時代から、法華経などの宗教書にも親しんできた桑田である。

 ギシギシを椅子をきしませ、激しく問いかけた。

 打てば響く。答える池田。熱を帯びてくる。

「なぜ創価学会に勢いがあるか?」

「折伏精神があるからです」

「なぜ政治に参加するのか」

「創価学会は現実を変えるための宗教です。日蓮大聖人の精神を受け継いだ団体なんです」

 丁々発止。あっという間に時間が過ぎた。

 日中平和友好条約が締結される前年の1977年(昭和52年)、桑田は再び池田を取材している。

「青年時代のエネルギッシュな感じが、少しも変わっていなかった。

「本物の宗教運動は、既成の権力に対する一種の革命運動、改革運動になっていくものでしょう。かつて『立正安国論』を掲げて鎌倉幕府に迫った日蓮と、今も民衆運動の先頭に立つ池田会長のイメージは重なります」

 人の心は”時流”に乗って変貌する。桑田の回想。

「それまでにぎやかだった松村謙三さんの議員会館の部屋は、潮が引くように静かになった。散々世話になりながら、寝返った政治家もいた。松村さんの陣営の中ですら、グラグラ揺れていた」

 松村の人柄について、池田は折あるごとに語っている。

「あれほど純粋で、清貧に甘んじ、高潔な人格の政治家は少ない。党派を超えて尊敬できる方だ。公明党も、こういう方に学ばなくてはいけない」

 

その松村の周囲に吹き荒れた、毀誉褒貶。桑田はつぶさに見ていた。

「こうした状況下での池田会長の提言は、並々ならぬ覚悟に基づいた勇断であった。と言いたい。”周恩来の時代でなければ、国交回復は無理だ”──これが心ある人々の思いであり、報道に携わっていた私自身の実感でもある。あの時期に国交正常化を提言し、小説『人間革命』でも再び主張した池田会長の行動を、高く評価します」

 「しかし」と桑田は一言、つけ加えた。

 「池田会長の態度と違って、日中の交流に携わった公明党議員の中には、えらく威張っている奴がいたなあ」

「桑田さん、記事はこれでどうですか」

 フロアに政治部記者の声が響く。

「よし、これでいいよ!」

 1974年(昭和47年)9月、東京・有楽町の朝日新聞社。

 北京から次々と送られてくる記事や写真。政治部長の桑田弘一郎は、矢継ぎ早に指示を出していた。9月29日、田中角栄と周恩来が日中国交正常化の共同声明に調印。戦後日本史を画する一日となった。6月に政治部長になったばかりの桑田にとって、最初の大仕事だった。


 1950年(昭和25年)入社。敏腕記者として鳴らした。

 54年(昭和29年)4月。犬養健法務大臣が「指揮権」を発動した「造船疑獄」。「朝日」の朝刊一面トップに桑田のスクープ記事が踊った。池田隼人首相の番記者などを務め、他社とのしのぎを削る日々を過ごした。

 大阪本社編集局の後、東京本社代表、専務取締役。さらにテレビ朝日社長、民放連(日本民間放送連盟)会長を歴任した。

 その桑田が、「池田会長には深い敬意を表したい」と語る。


 桑田と中国の縁は深い。

 1962年(昭和37年)9月、”日中友好の草分け”である松村謙三・衆議院議員の訪中に随行。その後も両国の交渉を見つめ続けた。

「池田会長の提言が発表された時期は、日中関係が最も冷え切った”逆風の時”だった」

 池田提言の前年(1967年)、北京在住の日本商社員7人が「スパイ容疑」で取調べを受けた。読売、毎日、産経、西日本各紙の北京特派員が追放されたり、常駐資格を解き消されるという事態も生じた。

 さらに、年末に期限が切れた「LT貿易」(日中総合貿易に関する覚書)は、延長交渉が難航を極めた。両国の交流のパイプは一気に細くなっていく。

「日中関係は、音を立てるようにして崩れていった」

 池田が日中友好に果たした役割。その真骨頂は、1968年(昭和43年)に発表した「日中国交正常化提言」である。

 1万数千の学生たちを前に、1時間17分にわたって講演した。

 この「池田提言」は直ちに中国にも打電された。国内では「朝日新聞」が講演当日に一面セカンドで報道、2面で講演要旨を掲載したほか、各誌が取り上げた。

 すぐさま議論が巻き起こる。「光りはあったのだ」(竹内好・中国文学者)、「百万の味方を得た」(松村謙三・衆議院議員)等々、国内の友好論者たちは希望を見る思いだった。

 いっぽう反中国の勢力からは、殺気だった抗議が押し寄せた。学会本部の電話交換台はベルが鳴り止まなかった。受話器の向こうから怒号が飛んでくる。街宣車も、不穏な動きを繰り返した。

 都内の大学に通っていた、ある学生部員、大学の物理学の講義で耳を疑った。担当教授が、いきなり「創価学会の池田さんが切り札を出しましたね」と話始めたのだ。

 「提言は、こんなに関心を集めているのか」。あらためて師匠の巨大さを感じた。

 その9ヶ月後。池田は小説『人間革命』(「戦争と講和」の章)、敢えて再び日中友好に言及したのである。

 「あらゆる外交政策のなかで、今こそまず中華人民共和国との平和友好条約の締結を最優先すべきであり、これこそ最も現実的な政策である、と私は重ねて訴えておきたい」(1969年=昭和44年6月21日付「聖教新聞」)。

 ”竹のカーテンに閉ざされている”といわれた中国。日本との国交正常化の歯車が劇的に回転するのは、この3年後のことである。

 当時の「聖教新聞」は400万部超。その紙面で「重ねて訴えておきたい」──この主張の重みは、史実を調べれば調べるほど増していく。