池田が日中友好に果たした役割。その真骨頂は、1968年(昭和43年)に発表した「日中国交正常化提言」である。
1万数千の学生たちを前に、1時間17分にわたって講演した。
この「池田提言」は直ちに中国にも打電された。国内では「朝日新聞」が講演当日に一面セカンドで報道、2面で講演要旨を掲載したほか、各誌が取り上げた。
すぐさま議論が巻き起こる。「光りはあったのだ」(竹内好・中国文学者)、「百万の味方を得た」(松村謙三・衆議院議員)等々、国内の友好論者たちは希望を見る思いだった。
いっぽう反中国の勢力からは、殺気だった抗議が押し寄せた。学会本部の電話交換台はベルが鳴り止まなかった。受話器の向こうから怒号が飛んでくる。街宣車も、不穏な動きを繰り返した。
都内の大学に通っていた、ある学生部員、大学の物理学の講義で耳を疑った。担当教授が、いきなり「創価学会の池田さんが切り札を出しましたね」と話始めたのだ。
「提言は、こんなに関心を集めているのか」。あらためて師匠の巨大さを感じた。
その9ヶ月後。池田は小説『人間革命』(「戦争と講和」の章)、敢えて再び日中友好に言及したのである。
「あらゆる外交政策のなかで、今こそまず中華人民共和国との平和友好条約の締結を最優先すべきであり、これこそ最も現実的な政策である、と私は重ねて訴えておきたい」(1969年=昭和44年6月21日付「聖教新聞」)。
”竹のカーテンに閉ざされている”といわれた中国。日本との国交正常化の歯車が劇的に回転するのは、この3年後のことである。
当時の「聖教新聞」は400万部超。その紙面で「重ねて訴えておきたい」──この主張の重みは、史実を調べれば調べるほど増していく。