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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 1983年(昭和58年)。米軍の核ミサイル基地跡を池田が訪れ、「平和の象徴にしよう」と提案した史実には、すでに触れた。

 その翌日。沖縄市陸上競技場で、今も語り継がれる「雨の文化祭」が行われた(3月21日、沖縄平和文化祭)

 この文化祭に、池田とともに出席した一人の来賓がいる。

 大嶺哲雄(沖縄大学名誉教授)。生物地理学の権威であるとともに、公害研究の先駆者である。

「教師は若者たちに夢を与える商売」「実業に役立たない学問は無用」という信条。

 県内の大学で初めて「公害論」の授業を創設し、大教室を埋めた。「基地公害」の研究にも尽力。米軍基地内の環境調査も行った。

 ”闘争大学”ともあだ名された沖大の学生部長を務めた。学生思いの対話の熱っぽさは伝説になった。

 東大の自主講座「公害原論」で名を馳せた宇井純を、沖大へ招いた有志の一人でもある。

 その大嶺が語る。

「小説『人間革命』の冒頭からは、池田会長の反戦への切望、いわば”平和への覚悟”を感じるのです」


 1945年(昭和20年)の晩春。大嶺は13歳になる少年兵だった。沖縄本島北部の山中にいた。

 3月。米軍は最新の兵器を注ぎ込み、陸海空から、沖縄を蹂躙し始める。

 米軍上陸前、すでに沖縄の人々は、日本軍による徴兵と徴用で疲弊しきっていた。

 沖縄の人口は約59万人(昭和19年)。そこへ、総勢55万人の米軍兵士、1500の艦船が押し寄せたのである。

 「4人に一人」が命を奪われた。軍人よりも住民の犠牲者のほうが、はるかに多かった。

 猛爆撃により、地形まで変わった。本島南端の喜屋武岬までの一帯。「1ヶ月で680万発」の砲弾が撃ち込まれた。じつに、この付近の「住民一人あたり50発」。不発弾を完全に処理するためには、あと50年かかるとの調査もある。


 沖縄守備軍に入った大嶺少年は、通信などを担当。「今もできますよ」。手元のペンでモールス信号を叩いた。

 ある日突然、将校から「家に帰れ」と言われた。追い詰められた軍は、各地で民間人を放り捨てた。

「今さら帰る家なんかあるか!」

 大嶺は拒否した。3ヶ月前、兵たちと草をかきわけ、山を彷徨った。

 木の幹のそばに、乳飲み子を抱えた母が倒れている。死んでいた。赤ん坊は夢中で母乳を求めている。しかし、米兵に追われている。立ち止まれば、自分が殺される。見捨てて逃げるしかなかった。

 艦砲射撃の轟音。赤ん坊の泣き声。耳から離れない。

「13歳で、地獄を見たわけです」

「”わが身を犠牲にして”・・・・・・そんな言葉だけの薄っぺらさを、とことん知った」と振り返る。


 「4人に一人」が亡くなった地上戦。米軍占領下の混乱。


 苦悩の続く沖縄の地で、小説『人間革命』の執筆は開始された。


 それは戦争という人類の宿命への挑戦であり、


 「最も苦しんだ人を最も幸福に」との宣言でもあった。



 昭和40年代。8月の暑い盛りである。

 昼食を共にしながら、池田大作はあるジャーナリストと懇談していた。

 傍らのテレビは、甲子園球場を映し出していた。夏の高校野球。沖縄代表が健闘している。

 池田は言った。

「沖縄が出てくると、どうしても力が入ってしまいます」


 会合に臨む時、池田は常に、最も遠くから参加した人たちを気にかける。

「おなかはすいていないか」

「帰りの交通費はあるか」

「留守番をされている方に、くれぐれもよろしく」

 必ず確かめる。声をかける。

 これは学会の会合に限らない。「一番遠い場所」である沖縄から、球児たちがはるばる甲子園へやってくる。気にかかる。心が自然と動くのである。

 池田が沖縄を気にかける理由。それは決して距離の遠さだけではない。

 メースBの沖縄配備が発表された1960年(昭和35年)。第三代会長に就任して間もない池田は、アメリカ統治下の沖縄を初めて訪れた。7月16日から18日の3日間だった。

 初の「海外「指導である。訪問二日目の17日には、歴史的な「沖縄支部」結成大会が行われた。

 訪問最終日の7月18日、午前。一行は貸切バスに乗って、那覇から糸満を抜け、南部戦跡へ向かっていた。

 夏の太陽が、徐々に高くなる。

 車は「ひめゆりの塔」の前で止まった。

 皆で題目三唱。霊前で献花を売っていた婦人部員にも、池田は優しく声をかけ、挨拶した。

 再び車に乗り、摩文仁の丘に着いた。那覇から一時間半ほどかかっただろうか。

 熱風が頬を打つ。砂塵が舞う。

「国内唯一の地上戦」

 その結末の地に立った。


 日本の降伏間近の、1945年(昭和20年)6月。

 沖縄本島の南端、喜屋武半島。

 3万人の軍人と、十万を超える避難民が追い詰められていた。

「なぜなのか」

 問う余裕すら奪われた。

”鬼畜米兵”の手にかかるよりは──。

 逃げた。崖から飛び降りる人、人、人・・・・・。

 果ての果て。荒崎海岸で、ギーザバンダ(断崖)で、惨劇が続いた。

 海岸の岩穴。炎で焼き尽くされた。打ち寄せる波際。火焔放射の真っ黒な跡が、延々と続いた。今も沖縄では、当時の犠牲者の遺骨収集作業が行われている。


 ふだん、池田は驚くほど早足だ。側近たちは、ついていくのがやっとである。

 この日は違った。じっくりと、大地を踏みしめるように歩く。

 沖縄の学会員たちがついていく。

「池田先生が南部戦跡にいらっしゃる!」

 聞きつけた島尻の同志が、あとからあとから駆けてきた。

 坂が緩くなる。

 太平洋が見える。

 海鳴り。途切れることなく耳に響く。つかず離れず歩く人々。潮の香が漂う。崖が、迫ってきた。随行していた仲間玉枝は、この時の光景を忘れることができない。

「池田先生!」

 婦人部員の一人が、二歩、三歩と近づいた。

「じつは、私の家族は・・・・・」

 その一言が、堰を切った。心があふれ出る。こらえきれない。男子部員が駆け寄った。女子部員も口を開いた。壮年部員が足を踏み出した。

 誰いうともなく、かわるがわる、池田会長に沖縄戦の惨劇を伝え始めていた。

 空の青も変わらない、海の青さも変わらない、15年前。

 人間の世界だけが地獄と化した。


 小説『人間革命』全12巻。

 足かけ29年、連載回数1509回。今も世界各地で読まれるベストセラーである。

 その冒頭が、やがて、この沖縄の天地で産声をあげることを、まだ誰も知らない。

 コクヨの原稿用紙。タイトルは「大一章 黎明(一)」。

 こう書いてある。


 戦争ほど、残酷なものはない。

 戦争ほど、悲惨なものはない。

 だが、その戦争はまだ、つづいていた。

 愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである。


 この一節に込めた祈り。

 さらに追う。

 1964年(昭和39年)12月2日。

 旧・沖縄本部の二階。

 仲間玉枝(沖縄支部初代婦人部長)は控え室で、数人の婦人部員とともに諸行事の準備をしていた。

 隣の和室。沖縄を訪問中の池田が執筆を続けていた。

 仲間は「池田先生が座ったまま、冷やしたタオルを額にのせ、天井を眺めている姿を何度か目にした」と言う。微熱が続いていたようだ。

 その時。和室から「バァン!」と机を叩く音。と同時に、

「できた!」

 立ち上がった池田が、すたすたと和室から出て行く足音がする。

 急いでお茶を替える。机上を見る余裕はなかった。何が「できた」のか。彼女はわからない。


 沖縄創価学会の一粒種、安見福寿。同じく12月2日。

 一階の洗面所から二階の和室へ、池田が階段を上ってくる。

 バシン!バシン!と手を叩く。「とってもいい原稿ができたんだよ」と満面の笑み。

 何の原稿なのか。

 安見は、師の次の言葉を待った。


 この日、沖縄の学生部員が旧・沖縄本部に集まっている。

 桃原正義(総沖縄長)。琉球大学の一年生だった。

 前方にいる幹部たちに、さっと緊張が走った。背後から声がした。振り返る。

「やあ!沖縄学生部、やってるな!」

16ミリの「聖教ニュース」でしか知らなかった、池田会長がそこにいた。

「諸君の一人一人が、沖縄の各方面の指導者になってもらいたい。沖縄の民衆は諸君の成長を待っている」

 この日、池田が何を書き記したのか。学生たちが知るのは、後日のことである。

 なぜ沖縄だったのか。その淵源は、4年前にさかのぼる。

 ジョセフ・ロードブラット。1995年(平成7年)、ノーベル平和賞受賞。核廃絶運動の旗手だった。生前、池田と対談集を出している。

 2000年(平成12年)2月、「世界平和の碑」を見学。その経緯を知り、感嘆した。

「戦争の基地を平和の発信地に変えるというのは、なかなか思いつかないことです。それは、常に平和のことを真剣に考えている人でないと思い浮かばない発想なんです」

 同月、同じく沖縄研修道場。日本人初の中国・中央民族大学「名誉教授」受賞式の式場、池田は烈々と語った。

「ここは、日本の最高の恩人である中国に向かって、ミサイルを撃とうとした場所でありました。私たちは、貴国におわびし、日本と世界の指導者に『この事実を忘れるな』と伝え残すために、この道場をつくったのです」

 「世界平和の碑」には、中国からの見学者も訪れるようになった。

 研修道場の写真を見て、桑田弘一郎は感慨を深くした。

「恩納村の基地の跡は、今でもよく覚えていますよ。あそこが、こんなに美しくなったんですね。驚きました」