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EIKOの気まぐれ闘病日記

このブログは、日蓮仏法の信心を根本に、双極性気分障害と闘うEIKOのブログです。日々の出来事や家族のこと、創価学会や池田名誉会長のことを書いていきます。
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 池田は、沖縄初訪問(1960年=昭和35年)の際、沖縄婦人部に一首を贈っている。


  妙法の


  宝を胸に


   今日も又


  人のためにと


   君ら舞いゆけ


 「人のために」。この一首が、婦人部の仲間玉枝をはじめ、沖縄の同志の胸に染みわたった。

 己の力ではどうしようもない、苦しい国土の宿命を背負った人たち。誰もが、なによりも「自分の幸福のために」信心を始めた。

 仏法では、

「自他ともの幸福」

 を説く。「人のために」尽くしてこそ、自分の境涯も開ける。幸福を生み出せる。池田はこの原理を、「最も苦しんできた」人々こそ伝えたかった。

 沖縄の友は、「人のために」の一言を、正面から受け止めた。「たとえ、食べ物が無くなっても」──仲間は言う。

「靴だけは買い替えました」。安い運動靴を、何十足、履きつぶしたかわからない。

「必ず幸せになる道がある」

 語ってまわったのは、むろん、彼女だけではない。

 草創期の人々の取材で、何度となく聞いたキーワードが二つある。

「沖縄全土を歩き抜きました」

「池田先生から教わりました」

 当時、会合へ向かう「3セント」のバス代がなく、困り果てた女子部員もいた。歩いて、歩いて、歩いて、道を開いた。

 東京の学会本部から「最も遠い場所」の沖縄で、創価学会の活動の「王道」が踏み固められていった。

「400年(1609年)の薩摩の侵略以来、沖縄は差別されてきました。今日も、毎日のように基地問題が報道されています。でも、被害者意識に囚われたままでは、幸福になれません。宿命の殻を打ち破る”強さ”を、私たちは先生から教えていただいたのです」と仲間玉枝は強調する。

 安見清は、静かに言った。「先生ほど、”うちなんちゅう”(沖縄の人)から好かれた”やまとんちゅう”(本土の人)はいませんよ」


 1964年(昭和39年)12月2日。今は改築された、旧・沖縄本部の二階。ここで池田は、小説『人間革命』の連載第一回と第二回の原稿を書いた。

 戦後の学会再建から書き起こし、恩師の逝去まで綴るには、優に十巻を超えると予想された。ハイビスカスの見える窓から外を眺めて、思った。

「この連載は、相当、自分を苦しめることになるだろうな」

 連載という苦闘を、沖縄から始めた。それは「私は最も苦しんできた同志とともに進む」という覚悟の表れであった。

 



 沖縄創価学会の歴史は、1954年(昭和29年)に始まる。

 マグロ漁船の第五福竜丸が、アメリカの水爆実験で被災。テレビではプロレスの実況中継が始まり、シャープ兄弟をなぎ倒す力道山の空手チョップが、大人気を博し始めた。

 この年、安見福寿・清の夫妻が、東京・立川から那覇へ移住した。

 勇んで学会の話を始めた。

「折伏に行くでしょう。ずいぶん、いじめられましたよ」

 安見清(那覇王者県婦人部主事)。懐かしそうに話す。隣で孫娘の静子が微笑んでいる。

「皆から、『とぅいぐわー・うがまーたー、ちゅーんどー(鳥を拝む者が来るよ)』って言われてねえ」

 学会員が舞い位置読誦する「法華経」。

 ほけきょう

 と読む。言うまでもなく鶯の鳴き声に似ている。

 そこから当時の沖縄では、学会員が来ると「鳥さん=とぅいぐわー」を「拝む者=うがまーたー」と珍しがり、悪口を言ったのである。

「話をしに行っただけなのに、塩をまかれ、水をかけられてね、大変でした」

 それは一面的には、ヤマト(=本土)の学会員たちが受けてきた迫害と似ている。と同時に、根本的に異なってもいた。


「内地から流れ込んできたヤマト魂」。草創期、沖縄の学会員は、こうした罵倒を何度となく投げつけられた。

 軍国主義を支えた国家神道。学会は、まさにその神道の強制に反対し、初代会長の牧口常三郎は73歳で獄死した。(不敬罪・治安維持法違反)。しかし沖縄では、そのような認識以前に、「ヤマト(=本土)」という一点で、しばしば拒絶されたのである。

 それは、当然の反発だった。

「本土を守る」という大義名分のの下、「捨て石」にされた沖縄。戦後も米軍基地という重荷を背負わされた沖縄。その国土に、「本土から来た宗教」を弘めようというのである。

 言うまでもなく、布教は悪戦苦闘を極めた。

 


 1965年(昭和40年)1月、学会の旧・沖縄本部。

「池田先生の『人間革命』が始まったよ」

 朝礼で、「聖教新聞」を皆で読み合わせた。新垣昇は(沖縄方面参事)は、その時のことを鮮明に覚えている。


 戦争ほど、残酷なものはない。


 戦争ほど、悲惨なものはない。


「『人間革命』の冒頭の一行目、二行目が有名ですが、私は、三行目以降に釘付けになったのです」

 そこには、


 だが、その戦争はまだ、つづいていた。

 愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである。


 と綴られていた。

「まるで、我々の今の住んでいる沖縄のことじゃないか」と驚いた。

 この一節がどこで書き始められたのか。新垣はまだ知らなかった。

 同年2月、アメリカは「北爆」(北バトナムへの爆撃)を開始。7月には、沖縄の嘉手納基地からB52が北爆へ発信した。琉球立法院は超党派で抗議を決議。国会では公明党などの野党も一斉に抗議した。

 1945年(昭和20年)の7月3日─戸田の出獄のシーンから始まる『人間革命』。その冒頭の一節は、言うまでもなく、太平洋戦争へと突き進んだ国家指導者たちの、生命に潜む魔性をえぐる告発である。

 と同時に、鋭い「同時代性」を有している。

 大嶺哲雄は、「『人間革命』の冒頭を、この沖縄で書き始められた。ここに、池田会長の平和への覚悟を感じるのであり、沖縄県民にとって、じつにありがたいことです」と語る。


 沖縄平和文化祭(1983年)を観た大嶺。「勇壮さに心が震えた」という。雨をも吹き飛ばす気迫の演技に、素直に共感した。しかも、最も激しい演技である男子部の組体操には、学会員でない友人たちも参加していた。これまで見たこともない民衆運動が、そこにあった。

 大嶺は日本軍の残酷さを知っている。安っぽい平和論など受け付けない。学会は何かが違う、と感じた。

「平和を論じ、行動する団体は、ともすれば観念的、感情的に流される場合がある。ところが創価学会には、それが皆無なのです。その力強さは、いったい何なんだろう、と驚きました」

 大のカメラ好きでもある大嶺は、興奮のなかでシャッターを切った。文化祭の演技を撮ったその写真は、県内の写真展で特選に輝いた。

「池田会長の心を、沖縄の方々が、かたちにしてきたのではないですか」

 1960年(昭和35年)7月18日。初訪問の沖縄・摩文仁の丘。

 直下に崖がのぞく。緑の豊かな濃淡。その先には、青い青い海が広がっている。

「この崖です」

 同行した学会の婦人部員が語る。

「この崖から、わが子を投げ捨て、自分も身を投げたお母さんが、たくさんいました」

 風が潮騒を運んでくる。開襟シャツの袖が震える。

 池田は黙々と聞いていた。


「ひめゆりの塔」で、そして「健児之塔」で、題目を唱えた。居合わせた人々も唱和した。

 友利栄吉。南部戦跡に同行した一人である。

──南無妙法蓮華経。

 友利は、題目三唱の後、池田が発した言葉に驚いた。

──もう二度と、ここで戦争は起こさせません!沖縄の国土を我々が幸福の楽土に変えてみせます!

「池田先生が、そういう意味のことを、何かに向かって宣言されました。びっくりするくらい大きな声でした。通りいっぺんの慰霊とは全然違った。『ああ、このように祈るものなのか!』と思ったことを、強烈に覚えています」

──もう一度、お題目をあげようよ。池田は一行とともに、再び題目を三唱した。さらに語った。

「そこに生きる人の境涯が変われば、国土は変わる。

 最も悲惨な戦場となったこの沖縄を、最も幸福な社会へと転じていくのが私たちの戦いだ」

 友利はこの時、真の「沖縄の戦後」が始まったと思った。

「最も苦しんだ人が、最も幸福になる権利がある」。

 この池田の信条は、一貫して変わらない。


 1962年(昭和37年)7月、3度目の沖縄訪問。

 池田は再び南部戦跡へ。

 夫人の香峰子、恩師・戸田城聖の夫人も同行した。

 同じ史跡を二度訪れるのは、きわめて珍しい。

 池田は沖縄で語っている。

「日本の軍隊は『国民を守る』軍隊ではなく、『権力者を守る』ための軍隊であった──これが根本の事実である」

 また、「沖縄から見ると『日本の正体』がよく見える」とも指摘している。


 かつて師の戸田は、愛弟子に呼びかけた。

「私は、この世から、一切の不幸と悲惨をなくしたい。これを広宣流布という。どうだ、一緒にやるか!」

 この言葉のままに、58年の生涯を駆け抜けた風雲児・戸田。その伝記小説『人間革命』を書き始める場所。

 決めていた。

 銃撃。爆発。病。飢え。次々と倒れる家族。手榴弾による、強いられた「集団自決」が続発した。

 創価学会青年部が編纂した反戦出版「戦争を知らない世代へ」シリーズにも、悲痛な体験が記されている。

 「私の家族も親戚とともに円陣を作って座り、叔父が手榴弾の信管を抜きました。しばらくして、ものすごい爆発爆発音がしたので、一瞬目をつぶりました・・・・・・。

 叔母が抱いていた2歳になる乳飲み子は、頭が吹っ飛んでなくなっていました。その子の頭を支えていた叔母の3本の指もなくなっていました。義理の妹、その妹、主人、子供二人も一瞬にして死にました。一言も言わなかった」(「渡嘉敷島の集団自決」安座間豊子。『沖縄戦─痛恨の日々』所収)。

 忘れてはならない歴史。「過去」に目を閉ざす者は、「未来」に対しても盲目となる。池田は沖縄の中学・高校生に、戦争体験の聞き取りを提案したことがある。

 「戦争反対のためにも、事実の記録のためにも、お父さんやお母さんから少しずつ聞いてまとめてみてはどうか」(1974年=昭和49年2月9日、名護会館で)

 この提案は、「戦争を知らない世代へ」シリーズの『血に染まるかりゆしの海』に結実した。


 池田は「感傷」が嫌いである。

 宿命に翻弄される会員たちに、「センチメンタルになってはいけない」「強く!朗らかに!」と言い聞かせてきた。

 「感傷からは、何も生まれない。前に進めない」──1000万の同志を牽引してきた指導者の哲学であり、信念である。

 その池田が、「感傷といわれようと、一向にかまわない」──こう言い切った文章がある。

 「平和の砦」。沖縄戦について綴ったエッセーである(1971年執筆。『きのう きょう』所収)。

 「琉球政府の発行した、沖縄県史のなかに『沖縄戦記録』という巻がある」──沖縄が公式に定めた歴史書だ。その中から、当時39歳だった女性の体験を紹介した。

 18歳の娘が、爆撃の破片を受けて死んだ。妹も死んだ。四女と姑は爆風で即死した。1歳半の子は栄養失調で死んだ。

「砲弾と爆風が激しく、もう人間の肉がどこからともなくちぎれて飛んできましたよ。死体も一ぱいころがっていましたよ・・・・・」

 彼女は10人以上の肉親を失った。この、まさしく血で書かれた戦史を読者に紹介しながら、池田は結論づける。

「一人一人の人間の心の奥深くに、戦争を否定しきる平和の要塞を構築しなければならない。それ以外に悲しき人間の業を転換しゆく道はないからである。

このような呼びかけは、いかにも複雑な政治の現実をわきまえぬ、感傷とわらわれるかもしれない。しかし、当然のことを、当然のあるべき姿に向けることが感傷というのであれば、私は感傷といわれようと、一向にかまわない」

 一人一人の人間の心の奥深くに、戦争を否定しきる平和の要塞を──この池田の思想は、沖縄の地に立った時、ひときわ鋭く浮かび上がる。