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(つづき)
□まとめ
◎条文検討
憲法17条は、大和政権の豪族・官人の規範として作成され、その条文を要約すると、次のようになります。
・1条=[儒教]和と議論を大切にせよ ~ 上下
・2条=[仏教]三宝(仏・法・僧)を大切にせよ([儒教] 枉/まがれるを直/ただす)
・3条=[儒教]詔(天皇の言葉・命令)を大切にせよ ~ 天地、君臣、上下
・4条=[儒教]礼を大切にせよ ~ 上下
・5条=[職務倫理]訴訟を明白に処理せよ([儒教]臣の道) ~ 財、貧・乏
・6条=[儒教]勧善懲悪を実行せよ([儒教]忠、仁) ~ 上下
・7条=[儒教]賢人・哲人を官人に任命せよ([儒教] 聖)
・8条=[職務倫理]早く出仕・遅く退出せよ
・9条=[儒教]信と義を大切にせよ
・10条=[仏教]怒りを捨てよ(煩悩除去)([儒教]聖・賢、愚)
・11条=[職務倫理]賞・罰を功績・過失で明白・正当に処理せよ
・12条=[職務倫理]国司・国造は公私二重に徴税するな ~ 公私
・13条=[職務倫理]官人の相互扶助で公務を停滞させるな([儒教]和)
・14条=[仏教]嫉妬するな(煩悩除去)([儒教]智、賢・聖)
・15条=[儒教]私に背いて公に向かえ([儒教]臣の道、和諧)([仏教]怨まず) ~ 公私、上下
・16条=[儒教]農作と桑作・養蚕のない冬に人民を使役せよ
・17条=[職務倫理]重大事は議論で判断せよ
17項目の規範は、儒教道徳的(8項目)、仏教教義的(3項目)、それ以外の職務倫理的(6項目)に大別できますが、仏教教義的(3)・職務倫理的(2)な規範を説明する際にも、儒教道徳が使用されているので、大半が儒教道徳に影響されています(それを考慮すれば、儒教13項目、職務4項目)。
ここでは、特に、和(1・13・15条)と議論(1・17条)、みんな凡人(10条)、礼(4条)、仏教(2・10・14・15条)の4つを取り上げてみます。
○和と議論
17項目のうち、和が3項目、議論が2項目なので、和と議論は、憲法17条で最重要視されているといえます。
ただし、1条では(15条も同様)、「和を貴び、逆らわないのを教義とせよ」「上の者が和をもち、下の者が親しみをもって、物事を論じるのを調えれば、つまり物事の理が自然に通じ合う」とあり、和は上の者に求められており、13条のような、同僚との和とは違います。
こうして、上の者が下の者との和を、採用すれば合議的に、拒否すれば独裁的になり、天皇・将軍等が政治に関与したり・しなかったりができたのも、和の採否を選択したからで、これは、日本の政治体制の本質といえるのではないでしょうか。
日本史上の政権で、合議的・独裁的等は、おおむね次のように、揺れ動いたとみることができます。
・古墳後期以前:[合議的]諸豪族の連合政
・飛鳥前期:推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の3頭政
・飛鳥中期:[独裁的]中大兄皇子=天智天皇
・飛鳥後期:[独裁的]天武・持統天皇夫妻
・飛鳥末期以後:[合議的]太政官政
・平安初期:[独裁的]桓武天皇の軍事(蝦夷征伐)と造作(宮城造営)
・平安中期:[独裁的]藤原北家の摂関政
・平安後期:[独裁的]治天の君の院政
・鎌倉初期:[独裁的]初代将軍・源頼朝
・鎌倉初期:[合議的]2代将軍・源頼家直下の13人の合議制
・鎌倉前期:[合議的]摂家・親王将軍直下の評定衆
・鎌倉中・後期:[独裁的]北条氏の執権政(+連署)
・南北朝期:[独裁的]後醍醐天皇の建武の新政
・南北朝期:足利尊氏・直義兄弟の2頭政
・室町期:[独裁的]3代将軍・足利義満
・安土桃山期:[独裁的]関白・豊臣秀吉
・安土桃山期:[合議的]豊臣秀頼直下の五大老・五奉行
・江戸初期:[独裁的]初代将軍・徳川家康
・江戸期:[合議的]将軍直下の老中
・江戸中期:[独裁的]8代将軍・徳川吉宗
・近代(戦前):[合議的]内閣
・現代(戦後):[独裁的]首相
○みんな凡人
前近代の中国で、帝王・官人は、儒教道徳(内面の思想)が必要とされたので、有能が前提でしたが、前近代の日本で、天皇・官人は、血筋・家柄(外面の形式)が必要だったので、無能が前提になり、その弱点を補強するために取り入れたのが、上の者による下の者との和と議論だったと読み取れます。
このような対比になった背景は、中国が大陸で(ヨーロッパも)、民族移動が容易・多数のため、合意形成で「何をするか」の内面の思想(利用価値)が優先された一方、日本が列島で、民族移動が困難・少数のため、前例踏襲で「何(誰)であるか」の外面の形式(存在価値)が優先されたからでしょう。
だから、10条では、人は皆、どこからが賢くて、どこからが愚かなのかが、わからない、端のないイヤー・リングのようだと、凡人を前提にしているのです。
前近代の日本は、後進国で、科挙(官人登用試験)を採用せず、政権の中枢でさえ、有能を前提にできないことと、下の者が先進国に派遣され、渡来した移住者もいたので、上の者より先進文物に精通していること等から、まず上の者から下の者へ働き掛けた和と、議論を最重要視したと導き出せます。
ちなみに、『日本書紀』によると、正式な留学生・留学僧の、最初の派遣は、608(推古16)年9月11日の遣隋使(8人)、最初の帰国は、615(推古23)年9月の遣隋使(学生の倭漢/やまとのあやの福因、薬師の恵日/えにち、僧の恵斉/えさい、僧の恵光/えこう等)でした。
○礼
儒教では、徳(道徳・倫理)のある君子は、政権を主導する正当性があり、徳のない小人(しょうじん)は、庶民なのが正道とされ、それは、政権に徳がなければ、人民の生活より私腹をこやす等、自分達に都合がいい礼楽刑政(儀礼・音楽・刑罰・政令)を制度化できてしまうからです。
『論語』では、君臣関係において、主君が礼すれば、臣下が忠する(3-59)、臣下が主君に礼すれば、人はこびへつらいとみなす(3-58)とあり、君民関係において、君主・役人が礼すれば、人民が敬する(13-306)とあるので、下の者がするのは、礼ではなく、忠や敬です。
しかも、礼も、和と同様、まず上の者から下の者へ働き掛けないと、下の者が上の者に働き返さないという秩序になっています。
逆に、親子関係において、子は親を、生前には、礼で仕え、死後には、礼で葬り、礼で祭る(2-21)とあるので、子には親への奉仕・葬儀・祭祀の3つの礼が要求され、これは、孝の具体化です。
このように、政権・国家と、家族で、礼の方向が上下全く違うのは、君臣間での忠と、親子間での孝で、対処が全く異なることが、影響しているのではないでしょうか。
『礼記』の曲礼下第2では、次のように、3度諫言(かんげん、忠告)してもダメなら、臣下は、主君のもとを去ってもよいですが、子は、親に従えとなっており、極限では、臣下・親が有利なので、その反対の主君・子に、礼が必要とされるのが、共通しています。
・為人臣之礼、不顕諫。三諫而不聴、則逃之。子之事親也、三諫而不聴、則号泣而随之。
[人臣(じんしん)たるの礼、顕(あらわ)に諫(いさ)めず。三たび諫めて聴(き)かざれば、すなわちこれを逃(さ)る。子の親に事(つか)うるや、三たび諫めて聴かざれば、すなわち号泣してこれに随(したが)う。]
《(臣下が主君に仕えた時には、)臣下の礼は、露骨に(主君へ)忠告しない。(主君の過ちを、)3度諫めて聞き入れなければ、つまりこれ(主君のもと)を去る。子が親に仕えた時には、(親の過ちを、)3度諫めて聞き入れなければ、つまり号泣してこれ(親)にしたがう。》
また、中国の儒教では、君臣間での忠よりも、親子間での孝のほうを、重視すべきとされ、忠孝分離ですが、官人の場合には、主君への忠による出世が、孝(先祖崇拝・親孝行・子孫繁栄の3つで孝)につながるので、忠孝一致が成り立ちます。
ここまでみると、4条では、下の者や百姓にも、礼が要求されているので、下の者を政権内の官人のみに限定すれば、忠孝一致でまだ許容できますが、中国の儒教で小人の百姓に、礼は要求されないので、これは、日本独自の儒教と解釈できます。
日本で忠孝一致は、そののち、戦乱が終息し、身分・地位等がほぼ固定化した近世の武士や、一君万民になった近代の臣民(国民)に要求されましたが、その萌芽が、憲法17条にあったとみることもできます。
さらに、『論語』では、礼を用いる時には、和を貴くし、和を用いる時には、礼で節制せよ(1-12)や、君子は和しても同調せず、小人は同調しても和しない(13-325)とあるので、礼と和の両立も、君子だけが対象で、中国の儒教で小人の庶民に、和は要求されていません。
そのうえ、民は政治にしたがわせることができるが、政治をわからせることはできない(8-193)や、天下に道があれば、庶民は政治を議論しない(16-422)とあるので、中国の儒教で小人の庶民に、議論も要求されていません。
それに、民を政治で導き、刑罰で治めれば、民は刑政を逃れると恥かしくないが、民を徳で導き、礼で治めれば、民は恥かしくて正しくなる(2-19)とあるので、中国の儒教で小人の庶民は、自分を卑下し、徳のある君子が政権を主導するのが妥当で、政権にしたがうという論法になります。
したがって、中国の儒教では、君子は政権、小人は庶民と、明確に区分されていますが、憲法17条では、みんな賢愚を併せ持つ凡人と、区分が曖昧なので、下の者にも、上の者と同様、礼・和+議論や、他の徳目も要求される傾向にあるのでしょう。
○仏教
仏教では、認識において、万物・万事は、個々に実体がなく(無自性)、相互関係性(因縁)で成り立ち、それらが生滅を繰り返し、人間の善悪等の結果は、因縁で決定するとされているので(因果)、実践において、自分の煩悩(欲望・執着)を除去することで、無自性になり、悟りを得ようとします。
よって、10条では、怒りを捨てよ、14条では、嫉妬するな、15条では、怨まずとあり、自分の煩悩(私利私欲)を除去することに、仏教教義が利用され、15条では、私に背いて公に向かえ、12条では、地方官人は公私二重に徴税するなと、私益を嫌悪し、公益が要請されています。
しかし、仏教教義だけを利用すれば、君臣・君民や親子の上下関係も、しょせんは実体がないものだと批判できてしまいます。
なので、2条では、仏法僧の三宝に帰依すれば、枉(まが)れるを直(ただ)せると、儒教道徳が持ち込まれ、『論語』では、真っ直ぐな人(君子)を推挙して、曲がった人(小人)の上位に置けば、曲がった人を真っ直ぐにさせられる(2-35、12-300)とあります。
このように、憲法17条では、仏教教義が公私関係を、儒教道徳が上下関係を、正当化するものとして、取り入れられたことがわかります。
◎時代背景
史料・文献を読み解く際には、近現代の価値観(善悪等)だけで検討するのではなく、当時の社会環境・自然環境等も考慮することが大切です。
たとえば、前方後円墳の埋葬形式が、古墳前・中期(3~5世紀)には、日本特有の竪穴式が主流でしたが、古墳後期(6世紀)には、中国・朝鮮通有の横穴式が主流に変化するほど、先進文物の影響が拡大しており、そのような中で、憲法17条も、儒教・仏教が影響したとみるべきです。
○儒教
『日本書紀』によると、大和政権は、6世紀前半に(513・516・554年)、百済との外交で、五経博士(儒教経典の学者)を、次のように、度々来日させていたので、憲法17条での儒教道徳的な規範は、この影響とみられます。
・513(継体7)年6月:百済が、五経博士のダンヨウニ(段楊爾)を貢献
・516(継体10)年9月:百済が、五経博士のアヤノコウアンモ(漢高安茂)を貢献し、博士のダンヨウニ(段楊爾)との交代を要請
・516年以後・554年以前:五経博士の1回以上の交代あり
・554(欽明15)年2月:百済が、五経博士のオウリュウキ(王柳貴)を、固徳(16等級の9品官)のメチョウアン(馬丁安)に交代
ですが、儒教道徳は、官人にあまり浸透しなかったのが現実で、たとえば、『日本書紀』には、次のような記述があります。
・604(推古12)年4月3日:聖徳太子が、憲法17条を作成
・636(舒明8)年7月1日:大派王(おおまたのおおきみ、敏達/30代の息子)が、大臣の蘇我蝦夷に、多数の公卿・大勢の官人は、朝廷への参上をすでにおこたっているので、今後は卯(う)の刻(午前6時前後)のはじめに入庁、巳(み)の刻(午前10時前後)ののちに退庁し、鐘で時刻を知らせるよう語ったが、大臣はしたがわず
・647(大化3)年:天皇が小郡(おごおり)宮で礼法を定め、その制度では、官位を保有する者は、必ず寅の刻(午前4時前後)に、南門外に左右列し、日の出に庭で再拝・入庁、午(うま)の刻(正午)に退庁で、もし遅刻する者がいれば、入庁禁止
・678(天武7)年10月26日:公事で使いに出る日に、本当の病気・父母の喪中ではなく、軽小な理由で辞退すれば、位階を昇進する定例としない
そののちの律令制下でも、官人の無断欠席・不正休暇が横行し、特に、出世できる、位階が5位以上の貴族よりも、出世できない、6位以下の官人のほうが、顕著だったようですが、朝廷は、それに寛容な対応でした。
○仏教
日本への仏教公伝は、史実では、538年が有力ですが、『日本書紀』によると、552(欽明13)年で、そこから崇仏派の蘇我氏と、排仏派の物部氏の対立が、次のように、度々記述されています。
・552(欽明13)年10月:百済の清明王が、釈迦仏像1体・幡蓋(はたきぬがさ)+経論若干を献上、欽明天皇(29代)は自分が祭祀するか群臣に相談し、大臣の蘇我稲目は賛成、大連の物部尾輿・連の中臣鎌子は反対したので、稲目が私的に譲り受けて祭祀、疫病が流行すると、尾輿・鎌子は、天皇に廃棄を進言・実行
・584(敏達13)年:大臣の蘇我馬子が、9月にもたらした弥勒仏像1体・仏像1体を譲り受けて祭祀
・585(敏達14)年3月15日:馬子が、大野丘の北に塔を建立・法会
・585年3月1日:再度疫病が流行したので、大連の物部守屋・大夫の中臣勝海は、敏達天皇(30代)に廃棄を進言、30日に実行
・585年6月:馬子が重病なので、天皇が仏教祭祀を許可
・587(用明2)年4月2日:病気の用明天皇(31代)が三宝に帰依したいと群臣に相談し、大臣の蘇我馬子は賛成、大連の物部守屋・大夫の中臣勝海は反対
・587年7月=丁未の乱:蘇我馬子らが、物部守屋らを滅亡
・594(推古2)年2月1日:推古天皇(33代)が、皇太子(聖徳太子)・大臣(蘇我馬子)に、三宝興隆の詔
なお、神事を公職としていた物部氏も、河内の本拠地に私寺(渋川廃寺、現・大阪府八尾市)を建立していた史実があるので、現在は、仏教を国家祭祀することに反対していたとされ、蘇我氏と物部氏の主導権抗争を、崇仏・排仏論争として表現したともいわれています。
そして、最終的には、丁未(ていび)の乱(587年)で、蘇我氏が物部氏を滅亡させ、母が蘇我氏の、用明・崇峻・推古の3天皇(31~33代)が、兄弟妹と継承しています。
そこまでをみるため、実在性が確実視される皇統断絶後の歴代天皇の父母は、次のようになります。
‐26代・継体(24年間):父は彦主人王(ひこうしのおおきみ、15代・応神の玄孫)、母は振媛(ふるひめ、11代・垂仁の7世孫)
‐27代・安閑(4年間):父は継体、母は尾張の連目子媛(めのこひめ、草香/くさかの娘)
‐28代・宣化(4年間):同上
・29代・欽明(32年間):父は継体、母は皇后・手白香(たしらか)皇女(24代・仁賢の娘)
・30代・敏達(15年間):父は欽明、母は皇后・石姫(いしひめ)皇女(宣化の娘)
‐31代・用明(2年間):父は欽明、母は蘇我堅塩媛(きたしひめ、稲目の娘)
‐32代・崇峻(5年間):父は欽明、母は蘇我小姉君(おあねのきみ、稲目の娘)
‐33代・推古(女帝、36年間):敏達の皇后、父は欽明、母は蘇我堅塩媛(稲目の娘)
・:父母がともに皇族
‐:母が蘇我氏
以上より、欽明・敏達の2天皇(29・30代)の父子は、父母ともに皇族なので、血統が濃いですが、そののちしばらくは、母が蘇我氏で、血統が薄まったので、皇位継承の正統性の弱点を補強するために取り入れたのが、仏教興隆だったのではないでしょうか。
そのように指摘する根拠は、こののちも、母が非皇族の天皇になれば、次のように、新規の力を導入していったからで、血統の希薄化で、「何(誰)であるか」の外面の形式(存在価値)が若干弱体化しそうなので、「何をするか」の内面の思想(利用価値)を強化したとみることもできます。
・用明・推古の2天皇(31・33代)同母兄妹:母が蘇我氏本家 → 仏教興隆
・持統・元明の2天皇(41・43代)異母姉妹:母が蘇我氏分家 → 記紀神話
・聖武・孝謙(称徳)の2天皇(45・46=48代)父娘:母が藤原氏 → 鎮護仏教
・桓武天皇(50代):母が渡来系氏族 → 讖緯(しんい)説、郊祀祭天の儀、唐風制度の導入
○古墳
仏教が興隆した(『日本書紀』624/推古32年9月3日によると、寺46ヶ所、僧816人・尼569人・計1385人)のとは対照的に、古墳の規模は、しだいに縮小しており、皇統断絶後の歴代天皇の古墳は、次の示す通りです。
‐26代・継体:今城塚古墳(大阪府高槻市)三島野古墳群、6世紀前半・前方後円墳・全長190m
‐27代・安閑:高屋築山古墳(大阪府羽曳野市)古市古墳群、6世紀初め・前方後円墳・全長122m
‐28代・宣化:鳥屋ミサンザイ古墳(奈良県橿原市)、6世紀前半・前方後円墳・全長130m
・29代・欽明:見瀬丸山古墳(橿原市)、6世紀後半・前方後円墳・全長318m
・30代・敏達:太子西山古墳(大阪府太子町)磯長谷古墳群、6世紀前半・前方後円墳・全長113m
‐31代・用明:春日向山古墳(太子町)磯長谷古墳群、7世紀前半・方墳・65×60m
‐32代・崇峻:赤坂天王山古墳(奈良県桜井市)、6世紀後半・方墳・50×47m
‐33代・推古(女帝):[改葬後]山田高塚古墳(太子町)磯長谷古墳群、7世紀前半・方墳・59×55m、[改葬前]植山古墳(橿原市)、6世紀終り~7世紀前半・方墳・40×27m
ここからわかるのは、母が蘇我氏(非皇族)の用明・崇峻・推古の3天皇の古墳が、それ以前の天皇の採用していた、全長100m以上の前方後円墳から、一辺50m前後の方墳へと、転換したことです(それ以降は再度、父母とも皇族の天皇になり、八角墳に改変されています)。
外面の形式において、古墳の規模が縮小し、仏寺建立・仏像造立へと転換したのは、小国(地域内)を結束する時代から、大国(地域間)を結束する時代へと、移行させようとしたためで、内面の思想においても、仏教の僧尼や、儒教・仏教等に影響された憲法17条等が、取り入れられたとみられます。
余談ですが、以前には、血筋・家柄を根拠に結び付いていたのが、以後には、それに対抗し、それ以外の根拠(新規の力)で結び付こうとした事例として、近代にも、血筋・家柄による財閥に対抗した、渋沢栄一による合本(資本)主義の株式会社があります。
財閥は、一家・一族の資本なので、私益の追求が目的となるのも当然で、内部(共同体)で閉じた発想だった一方、合本主義の株式会社は、出資者の資本ですが、算盤(そろばん)勘定による、共益の追求だけでなく、『論語』を手本に、公益の追求も目的とし、外部(社会)に開いた発想を提示しました。
この古代と近代の事例を重ね合わせれば、次のようにまとめられます。
※古代
・外面=形式:血統・家柄 ~ 父母とも皇族の天皇
・内面=思想:仏教、憲法17条(儒教が大半)等による新規の力 ~ 母が非皇族の天皇
※近代
・外面=形式:血統・家柄 ~ 財閥
・内面=思想:『論語と算盤』 ~ 渋沢栄一による合本主義の株式会社
平安仏教(天台宗・真言宗)は、理論重視の奈良仏教(三論宗・成実宗、法相宗・倶舎宗、華厳宗、律宗)の異議申し立てとして、実践重視になりましたが、奈良仏教が、理論重視だったのは、憲法17条と同様、大国に結束するための、内面の思想強化だったともいえるのではないでしょうか。
奈良仏教で内面の思想が強化されたのは、大国を集権社会にしようとしたため、発達させたともいえる一方、平安仏教や鎌倉仏教が、実践重視なのは、天武系から天智系へ転換し、大国の結束がしだいに緩和する中で、仏道修行等により、外面の形式を強化するためだったようにもみえます。
仏道修行等では、煩悩を除去し、悟りを得ようとしますが、悟りを得たい煩悩を除去することは、内面に思想がない境地(無・空)で、外面の形式だけになることを意味します。
そうして、道元は座禅で、法然・親鸞は念仏で、一遍は踊り念仏で、形式化しており、これは、分権社会だったので、発達したともいえるのではないでしょうか。
(おわり)