(つづき)
■近世
○京都・天正の地割(1590年)
平安期までの平安京は、宅地の四周を築地塀で取り囲み、南庭を東・西・北の殿舎群が取り巻き、貴族が生活する寝殿造が主流でしたが、鎌倉期から貴族が衰退し、庶民の経済活動がさかんになると、道路に閉鎖的な寝殿造+築地塀の構成が、道路に開放的な町屋+桟敷の構成へとしだいに変化しました。
宅地割も、商売用に道路に面して、できるだけ多くを詰め込もうと、間口が狭く、奥行が広い短冊型(ウナギの寝床)になり、それを正方形街区の四方の道路で展開すると、道路に対面する宅地ごとで町が形成されましたが(四面町)、正方形街区の中央部は、宅地に不適なので、空地(会所地)となっていました。
そこで、安土桃山期に天下統一した豊臣秀吉は、戦乱で荒廃した平安京の正方形街区の一部(押小路~5条大路間の5列)で、40丈(約120m)四方の街区の中間に、南北方向の道路を縦貫させ、南北方向に縦長の長方形街区に2分割し、無駄だった会所地をなくしました。
▽京都・船場の宅地割
○大坂・船場周辺(1598年)
安土桃山期に豊臣秀吉は、大坂城の城下町を造成する際、西方の大阪湾と東方の城郭の中間に位置する船場周辺を、京間40間(京間1間=6.5尺、1尺=0.303mなので、約78.8m)四方の正方形街区の町割とし、東西方向の道路が主軸となるので、街区の背割(排水溝付)も、それと平行に設定しました。
これは、平安京の天正地割での経験から、宅地割の奥行は、最大でも京間20間あれば充分だと判断したのでしょう。
宅地割は、南北方向の短冊型になり、すべての宅地が東西道路に面し(二面町)、道路幅も、東西道路(通/とおり)が京間4.3間(約8.5m)、南北道路(筋/すじ)が京間3.3間(約6.5m)となっています。
○江戸・日本橋周辺(1590年)
安土桃山期に豊臣秀吉から関東への移動を言い渡された徳川家康は、江戸城の城下町を造成する際、西方の城郭と東方の隅田川・東京湾の中間に位置する日本橋・京橋・神田を、京間60間(約118.2m)四方の正方形街区の町割としました。
家康は、江戸を京都のような権威ある都市にするため、京都の大工を統括した中井正清に担当させ、平安京の町割が、内法40丈=400尺(当時は1尺=約0.3mなので、約120m)だったので、それを京間に換算したほぼ同等の寸法とし、東海道・中山道・奥州+日光街道が主軸となります。
道路幅は、日本橋通り(東海道・中山道)・本町通り(奥州+日光街道)が京間9間(約17.7m)、一般道路が京間3~6間(約5.9~11.8m)です。
宅地割は、まず、正方形街区の街道方向の道路と平行に3等分し、その道路に面する2列は、短冊型に細分化、つぎに、他方向の道路に面する1列は、その道路と平行に3等分し、短冊型に細分化、中央の残りは、京間20間(約39.4m)四方の会所地になり、宅地の奥行は、京間20間となります。
▽江戸の宅地割
○駿府(1607年)
江戸初期に征夷大将軍を三男・徳川秀忠に譲り渡した徳川家康は、今川氏への人質と江戸城前の2度生活した駿府に隠居しましたが、実際には実権を掌握したままで(大御所政治)、西国政策は、駿府城の家康、東国政策は、江戸城の秀忠と、当初の江戸幕府は、二元体制だったようです。
駿府は、江戸~上方(京・大坂)間の、ほぼ1:2の地点に位置し、駿府城は、北方に山(竜爪山、玄武)・南方に池か海(安倍川、朱雀)・東方に川(巴川、青龍)・西方に道(東海道、白虎)と、風水に最適な土地です(四神相応)。
室町期・戦国期には今川氏の居館があり、戦乱時には京都から、多数の公家・文化人が避難・庇護したので、京風の文化がさかえ、大御所政治の時代には、「江戸八百八町」に対抗し、「駿府九十六箇町」といわれ、人口は上方・江戸に次ぐ多さでした。
駿府城下の町人地は、城郭の南側に配置され、ほぼ富士山方向への道路と、それと直交する道路による、京間50間(約98.5m)四方の正方形街区の町割とし、中央には会所地を想定、江戸・日本橋周辺の正方形街区(約120m四方)から若干縮小されており、江戸城と同様、中井正清が担当しています。
○名古屋(1610年)
江戸初期に徳川家康は、尾張藩の居城として名古屋城を新規に築城、わずか10歳の九男・徳川義直を初代藩主とし(尾張徳川家)、洪水や液状化に脆弱な清洲城から、家臣・町人・寺社等のほとんどを移転させました(清洲越/ごし)。
名古屋は、江戸~上方(京・大坂)間の、ほぼ2:1の地点に位置し、名古屋城は、南北に細長の熱田台地の北端に立地し、台地南端には熱田神宮、その南方直下には熱田港があったので、南北方向の道路が主軸となります。
名古屋城下の町人地は、城郭の南側に配置され、駿府と同様、京間50間(約98.5m)四方の正方形街区の町割とし、おおむね東西11列・南北8列あり(西端の1列が、100m道路の久屋大通り)、江戸城・駿府城と同様、中井正清が担当しています。。
ちなみに、かつては、道路の芯々で60間(約109,1m)四方といわれてきましたが、現在では京間50間が有力とされています。
宅地割は、まず、正方形街区の南北・東西方向の道路側とも、京間50間を15間(約29.5m)・20間(約39.4m)・15間に縦・横3分で計9分し、南北道路に面する6つのうち、4隅は、奥行が京間15間で短冊型に細分化、残り2つは、奥行が京間20間で、短冊型に細分化します。
つぎに、東西道路に面する2つは、奥行が京間15間で、短冊型に細分化し、会所地の京間東西10間(約19.7m)・南北20間が残ります。
道路幅は、本町通りが京間5間(約9.8m)、一般道路が京間4間(約7.9m)説と、3間(約5.5m)説があるようです。
▽駿府・名古屋の宅地割
■近代
○札幌(1869年)
1869年に新政府は、蝦夷地から北海道に改称し、北方開発を目的とした開拓使(現・北海道庁)を設置、その拠点として、北海道全域を統括する札幌本府の建設をきっかけに、碁盤目状の町割を計画・形成し、1880年に札幌駅が開業しました。
1866年に開削された用水路・大友堀(創成川)が、すでに南北方向を縦断していたので、その西側のみ、大友堀と直交するように、火防線として大通り(現・大通り公園)を設置し、まず、大友堀・大通りを基軸に、60間(1間=1.818mなので、約109.1m)四方の正方形街区の町割としました。
つぎに、北西側(大通り以北・大友堀以西)は、官用地としたので、正方形街区のままとした一方、南側は、民用地としたので、長方形街区とし、ほぼ南西側(大通り以南・大友堀以西)は、正方形を東西道路で2分割した横長、ほぼ南東側(大通り以南・大友堀以東)は、南北道路で2分割した縦長としました。
横長・縦長の長方形街区は、分割した道路幅を6間(約10.9m)としたので、27間(約49.1m)×60間となり、宅地割は、間口5間(約9.1m)程度×奥行27間が基準区画です(135坪)。
道路幅は、大通りが59間(約107.3m)、一般道路が15間(約27.3m)か11間(約20.0m)ですが、両側に3尺(約0.9m)ずつ下水堀を確保したので、実質はそれぞれ58間(約105.4m)、14間(約25.5m)か10間(約18.2m)となります。
○旭川(1889年)
1889年から北海道庁(前・開拓使)が碁盤目状の町割を計画・形成し、その際に天皇の離宮(現・上川神社)を誘致しようとしましたが失敗、1898年に旭川駅が開業し、1901年までに帝国陸軍第7師団札幌から移転してきました。
60間(約109.1m)四方の正方形街区の町割で、街区四周の道路幅は、12間(約21.8m)で、街区の中間には、東西方向に6間(約10.9m)幅の道路を横貫して長方形街区としています。
○帯広(1892年)
1883年に民間会社が、1万町歩(約1万ha)の未開地を、政府から無償で払い下げられ、開拓したのがはじまりで、1892年から北海道庁が碁盤目状の町割を計画・形成し、1895年に十勝監獄(現・緑ヶ丘公園)が設置されると、受刑者が整備することで市街地が拡大、1905年に帯広駅が開業しました。
石狩街道(十勝国道、現・国道38号)とそれに直交する広尾街道(大通り、国道236号)を基軸に、60間(約109.1m)四方の正方形街区の町割で、街区四周の道路幅は、12間(約21.8m)で、西南大通りと大通りが交差する大通り公園からは、対角線上の四方に、火防線として道路が延伸しています。
正方形街区の中間には、南北方向に6間(約10.9m)幅の道路を縦貫して長方形街区とし(札幌を踏襲)、宅地割は、間口6間×奥行27間の短冊状に細分化するのが基準区画です(162坪)。
○北海道の殖民区画
北海道の開拓事業は、平時は百姓、戦時は兵士になるため(屯田兵制)、1874年から士族が志願で移住し、そののち平民にも規制緩和され、帝国陸軍第7師団が創設される等、徴兵制で兵士が調達できるようになったので、1904年に屯田兵制は廃止されました。
屯田兵村は、札幌郡の琴似村(ことにむら)がはじまりで、この村では、中央に十字で幅10間(約18.2m)の道路を交差させ、50×30間の長方形街区の町割を5×2=10等分し、宅地割は10×15間で(150坪/戸)、耕地は村外にあり、家屋と農地が分離していました。
一方、屯田兵制が進行すると、規模が拡大し、上川郡では、300間(約545.4m)四方の区画を組み合わせることで、屯田兵村を構成しました。
300間四方の中央に十字で道路を交差させ、4区画それぞれで30×150間(4500坪/戸=1.5町歩=約1.5ha)で短冊状に5等分し、それが1戸分になり、道路面を宅地、その背後を耕地とし、家屋と農地が一体化しました。
1896年には区画が規格化され、まず土地を900間(約1636.2m)四方(大区画)に区分し、つぎにそれを300間(約545.4m)四方(中区画)に9等分して四周に道路を敷設、さらに100間(約181.1m)×150間(約272.7m)で6等分し(小区画、5町歩=約5ha)、それを1戸分として割り当てました。
これは、アメリカやカナダの原野開拓の際に使用した、殖民区画制度・タウンシップ制を手本にし、アメリカでは、1マイル(約1600m)四方に区分され、それを4等分した0.5マイル(約800m)四方が、最低面積でした(ホームステッド法・1862年で無償払い下げに)。
ここで注目すべきは、300間(約545.4m)四方の区画が、古代の条里制での1里(約532.8m)四方と近似していることで、正方形街区の一辺の、50間でも60間でも、割り切れる寸法です。
▽札幌・琴似村
▽上川郡・西当麻村
▽植民区画の規格
○東京・月島周辺(1892年)
石川島・佃島の延長上の埋立地で、1887年に着工され、1892年に完了、石川島には造船所があったため、当初は工場や倉庫が立地し、しだいに労働者住宅が大量に必要になると、路地と間口2間×奥行3.5間程度の2~4軒の長屋群が形成されました。
日本橋周辺と同様、60間(約109.1m)四方の正方形街区とし、道路幅は、四周が6間(約10.9m)、街区の中間を横貫する東西方向の道路が3間(約5.5m)、路地が1~1.5間(約1.8~2.7m)で、宅地割は、奥行4.5間程度です。
▽月島の宅地割
■考察
現在も存続している正方形街区は、古代のものは、平安京(60間角)しかなく、それも天正の地割を踏襲し、南北道路で長方形街区に2分しているのが多数あり、藤原京・平城京・長岡京は、寺社の境内以外、遷都後に荒廃・農地化が進行したので、道路でさえ消え去っています。
近世のものは、奥行が比較的浅い船場周辺(40間角)が、ほぼそのままで残っており、日本橋周辺(60間角)は、大火・震災・戦災の区画整理で改変、駿府(50間角)は、大半が東西道路で長方形街区に2分され、名古屋(50間角)は、ほぼそのままで、会所地は、タワーパーキング等に利用されています。
近代のものは、札幌の官用地が正方形街区でしたが、その一部が長方形街区に2分され、この正方形街区と2分した長方形街区の組み合わせが、中心から周辺へと増殖しており、旭川・帯広等でも同様です。
一般に、正方形街区の長所は、計画・造成しやすいこと、方向性が同等なこと、短所は、地形に対応しにくいこと、奥行が浅いと、道路の割合が多くなること、奥行が深いと、中央が使いにくくなること、等があげられ、正方形街区よりも、長方形街区のほうが便利なので、多用されます。
土地だけでなく、建物も、長方形平面がほとんどですが、宝形屋根の仏堂・1間四方の社殿・4畳半の茶室等、正方形平面の建物は、極稀にあり、それらはひとつの秩序(世界・宇宙)を構築しようとしています。
日本には、独自の柱割・畳割の寸法体系があり、江戸間は、柱の芯々、京間は畳の内法が寸法の基準になりますが、これは、平城京までは道路の芯々、長岡京からは街区の内法で、寸法を決定していたのと類似しています。
また、江戸間では、柱と柱の間の距離の1間(6尺=約1.818m)とその半分の0.5間(3尺=約0.909m)、京間では、畳の形状の6.3尺(約1.910m)×3.15尺(約0.955m)を基準に設計しており、これは正方形街区と、それを2分した長方形街区と類似しています。
つまり、建物と同様、土地でも、秩序を構築しようとしましたが、そのような人間の意志による作為は、一時的で、やがて、その周辺は、長方形街区が主流になり、地形・水系・植生に合わせて、道路を曲げることもあり、人工物が自然物(自然の摂理)によって変形させられていきました。
振り返ってみると、藤原京・長岡京では、それを予期し、あえて外形を矩形で完結させず、あらかじめ人工物の中に、自然物(藤原京は大和三山、長岡京は淀川)を取り込んでいたとも読み取れます。
(おわり)