(奈良市)
奈良前期に聖武天皇(45代、42代・文武天皇の長男)と光明皇后(父は藤原不比等、母は橘三千代)が、生後1年未満で病死した皇太子を供養するため、若草山麓に金鐘寺(こんしゅじ)を創建するとともに、光明皇后が春日山麓に福寿寺を創建し、この2寺が起源です。
奈良中期には聖武天皇から全国各地に国分寺・国分尼寺建立の詔(みことのり、天皇の命令)があり、大和(現・奈良県)では金鐘寺と福寿寺を統合して国分寺とし、金光明寺(こんこうみょうじ)と改名されました。
一方、大仏造立の詔もあり、当時は聖武天皇が恭仁京(現・京都府木津川市)に遷都しており(藤原広嗣の乱後から)、天皇は紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市)にいて、大仏造立(盧舎那仏/るしゃなぶつ)も宮殿(離宮)近辺の甲賀寺で着工しました。
しかし、恭仁京遷都の4年後には難波京へ遷都し、その翌年には周囲の反発もあって平城京に再度遷都すると、現在地で再度大仏造立を着工すると、金光明寺を総国分寺としての東大寺に改変することにしました。
聖武天皇は、この大事業を推進するには庶民の支持が必要だったので、当時朝廷から弾圧されていましたが、行基(ぎょうき)を最高責任者にして大仏・大仏殿を完成させ、インドからの渡来僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が主導して大仏開眼を法要し、良弁(ろうべん)が初代住職(別当)となりました。
大仏開眼の翌年には、正式に授戒(出家信者が指導僧になったり、在家信者になる儀式)できるよう、唐の高僧・鑑真を来日させ、大仏殿の西側に戒壇院を設立、下野(しもつけ、現・栃木県)の薬師寺や筑前(現・福岡県)の観世音寺とともに、日本でも中国公認の仏僧が輩出できるようになりました。
奈良期には六宗兼学(華厳宗・法相宗・倶舎/くしゃ宗・三論宗・成実/じょうじゅつ宗・律宗)の仏寺でしたが、平安期には八宗兼学(+真言宗・天台宗)の仏寺として繁栄し、なかでも華厳教学が重視されました。
ところが、平安末期に平清盛は、奈良仏教が保持していた特権を無視し、大和全域の支配権を取り上げると、それに東大寺・興福寺等が反発、清盛はそれに対抗して平重衡(しげひら、清盛の五男)に命令し、東大寺や興福寺を攻撃させ、伽藍のほとんどが兵火で焼失しました(南都焼討)。
後白河法皇(77代)は被害を把握するため、使者を派遣すると、重源(ちょうげん、法然の弟子)が東大寺再建を進言、それに賛同し、宋留学の経験と技術的・財政的な困難に立ち向かう野心があり、法然(浄土宗の開祖)の推薦もあって、重源を復興の最高責任者(大勧進/かんじん職)に任命しました。
大仏と大仏殿は、源平の合戦を開始した翌年に焼失し、すぐ再建に着手しており、合戦が終了した同年の焼失5年後には大仏開眼が法要、その10年後の鎌倉初期には大仏殿落慶が法要されました。
重源の没後の鎌倉前期には、重源と一緒に宋留学から帰国した天台宗の僧・栄西(臨済宗の開祖)、鎌倉中期には、栄西の弟子・行勇(ぎょうゆう)が大勧進職に就任し、復興事業を継承しました。
栄西は京都・法勝寺(ほっしょうじ)の九重塔の再建に多忙で、あまり成果はなく(鐘楼程度)、行勇は講堂(戦国中期に焼失)・東塔(室町前期に焼失)等を再建しています。
そして、戦国後期には東大寺周辺での市街戦(三好・松永の戦い)の兵火に巻き込まれ、主要伽藍が焼失し、大仏殿の仮堂が建立されましたが、江戸初期には暴風で仮堂が倒壊、大仏が露天にさらされるようになりました。
江戸中期には三論宗の僧・公慶(こうけい)の尽力と、5代将軍・徳川綱吉やその生母・桂昌院(けいしょういん、3代将軍・家光の側室)等の寄進で、ようやく大仏が修理され、大仏殿が再建されました。
聖武天皇が全国各地に国分寺・国分尼寺の建立を命令したのは、四天王等の仏教の守護神(諸天善神/しょてんぜんしん)を信仰すれば、国家鎮護をもたらすという経典、「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」に由来します。
また、聖武天皇が大仏造立を命令したのは、その3年前に河内(現・ 大阪府柏原市 )の知識寺で、庶民の信仰・寄進で造立された盧舎那仏像を参詣しており、これに感動したからで、聖武天皇は金鐘寺の住職だった良弁に、学僧達とともに華厳教学を3年間研究させています。
良弁は、まず義淵(ぎえん、44代・元正天皇と聖武天皇の側近)の弟子となって法相教学・唯識思想を修得し、つぎに慈訓(じくん、新羅留学僧・審祥/しんしょうの弟子)の弟子となって華厳教学を修得、そののち聖武天皇に引き立てられて金鐘寺の住職となっていました。
華厳宗は、「華厳経」を根本経典とする学派で、中国・唐の時代に杜順(とじゅん)が創始したとされていますが、実際は杜順の弟子・智儼(ちごん)が華厳経の注釈と唯識を融合し、智儼の弟子・法蔵(ほうぞう)が大成しました。
華厳経では、世界は個々の要素が相互に関係し、無限に重なり合って全体が構成されており(重々無尽の縁起)、全体の中に部分があるということは、部分の中に全体があるといえ(一即一切/いっそくいっさい・一切即一/いっさいそくいち)、その世界を統制するのは毘(び)盧舎那仏とされています。
でも実際は、人の世界(事法界)と仏の世界(理法界)が区別され、それらを修行で共存しようとしますが、共存は不徹底で、華厳宗では人と仏の境目がない世界(事々無礙法界)に回帰しようとしています。
天台宗(中国・隋の時代の事実上の創始者・智顗/ちぎ)からは、華厳経は釈迦が悟りを開いて最初に説いたので難解な教えとされていますが、華厳宗からは、天台教学は修行で人と仏の世界を共存しようとしていますが、仏と人は区別されたままなので、不徹底だと批判されました(理事無礙法界)。
さらに、天台宗では、修行で煩悩(欲望)を除き、仏になれる素(もと、仏性/ぶっしょう)だけを残すという考え方(性具説)ですが、華厳宗では、人は誰でもすでに仏になっており、修行で心中にある清浄な仏性を呼び覚ますという考え方(性起説)です。
つまり、天台は人の立場から仏への見方(法相宗の唯識思想も同様)、華厳は仏の立場から人への見方だといわれています。
日本には、まず唐僧・道璿(どうせん、大安寺に在籍し、大仏開眼供養の導師)が奈良前期に渡来し、大安寺で戒律・禅とともに華厳教学を教え広め、つぎに良弁の招待で、新羅留学僧・審祥(しんしょう、法蔵の門下、大安寺に在籍)が奈良中期に金鐘寺で3年間講義しています。
講義開始の翌年には聖武天皇から国分寺・国分尼寺建立の詔、その2年後には紫香楽宮で大仏造立の詔があり、総国分寺としての東大寺では華厳教学が反映され、陽光のようにすべてを照らし輝かせる盧舎那仏を中心仏とすることにつながりました。
そののち、鎌倉前期には明恵(みょうえ、高山寺住職)が華厳経学と密教を融合し、鎌倉後期には凝然(ぎょうねん、東大寺学僧)が天台教学・真言密教・浄土教・戒律も習得したうえで、華厳教学を確立しています。
一方、全国各地で飢饉・疫病等が頻発し、反乱(藤原広嗣/ひろつぐの乱)が発生する等、社会不安が拡大していたので、国家鎮護をもたらすために大仏造立を発意し、孝謙天皇(46代、聖武天皇と光明皇后の娘、のちの48代・称徳天皇)の時代に完成しましたが、結局天武天皇系の皇位継承は、奈良後期の称徳天皇(40代・天武天皇の玄孫/やしゃご)の死去で断絶します。
奈良末期には桓武天皇(50代、49代・光仁天皇の長男、38代・天智天皇のヒ孫)が即位し、ここから天智天皇系の皇位継承が復活するとともに、天武天皇系とつながりがあり、政治介入していた南都仏教の影響力を低下させるため、長岡京・平安京へと遷都しました。
平安初期の桓武天皇からは、新興仏教の天台教学の最澄や真言密教の空海を庇護するようになり、最澄には延暦寺でも授戒できるように公認(南都仏教は反発)、空海には平安京内の東寺を密教道場にすることを許可し、この時期から皇室・貴族の間では加持祈祷が仏僧の役割となりました。
特に東大寺では、平安初期に空海が14代目住職(別当)に就任し、密教道場(のちの真言院)が建立されたのをきっかけに真言宗が普及しています。
この他にも、平安前期に三論宗+真言宗の東南院、法相宗の知足院(ちそくいん)、平安中期に華厳宗の尊勝院(そんしょういん)等の道場が建立されており、境内に子院が形成されるようになりました。
それとともに、奈良末期から南都仏教の予算が削減されたので、高僧達は各々で皇室・貴族等と結び付くようになり、加持祈祷・荘園寄進等で子院は繁栄する一方、本院の主要伽藍が荒廃、平安後期から荘園経営による利益を財源に、国家庇護のみから脱却し、自力で修繕できる組織に改変しています。
仏寺は、学問・研究や修行・祈祷に専念する学侶(がくりょ)、学問・修行と寺務・商売を両立する衆徒(しゅと、堂衆/どうしゅ)、寺務のみに専念する行人(ぎょうにん)で構成されていましたが、荘園が発達すると、東大寺境内での活動が宗教に商売が加味されるようになりました。
そして、しだいに高い身分出身の学侶達は、寺内を運営(政治・文化・経済・軍事)するようになり、低い身分出身の衆徒・行人達は、その運営に反発すると内紛、両者協力して寺外に改善を要求すると強訴(ごうそ)、両者協力して寺外と対立・抗争すると僧兵となります。
東大寺でも僧兵が活発で、平氏と敵対して法華堂・二月堂・転害門・正倉院以外は焼失、大仏・大仏殿再建は、荘園での利益だけではまかないきれないので、重源は大勢の人々に寄付を呼び掛けるため、6台の宣伝用一輪車を準備し、それらを全国各地に行脚させ、資金・資材・労力等を調達しました。
もちろん、庶民にそのような余裕はないので、大口の寄付を皇室・貴族・武士等から広く集めることがほとんどで、宋渡来・帰化の技術者(大仏鋳造・大仏殿建造)と、飢饉・戦乱等で現実から落伍した人々を労働者として活用しますが、庶民も巻き込んだ再建への支持・支援は大口の寄付につながります。
重源は、13歳で真言密教と修験道の道場・醍醐寺に出家し、そののち法然を師事して浄土教を研究するとともに霊山各地を修行、48歳で宋留学から栄西とともに帰国(宋留学は計3度といわれています)、紀伊(現・和歌山県)高野山の念仏道場(旧・専修往生院)を拠点とし、61歳で東大寺大勧進職となりました。
大勧進職に就任できたのは、重源が出家した醍醐寺は村上源氏(62代・村上天皇の孫・源師房/もろふさが始祖)と強固な関係にあり(子院の住職は村上源氏出身が大半)、当時の政界では村上源氏の影響力があったので重源に決定したと推測されています。
すると、重源は、自分を極楽浄土にいる阿弥陀仏の化身とし、「南無阿弥陀仏」と改名、大仏・大仏殿再建の協力者には、法華経の中の一文字を阿弥陀仏の頭につけて、「○阿弥陀仏」という名号を付与することで、死後極楽浄土に往生できると宣伝しました。
重源自身も、大仏・大仏殿再建と浄土教布教を一体化した善行で、死後極楽浄土に往生しようとし、86歳で死去するまで復興に取り組んでいます。
ちなみに、法然は、43歳で専修念仏(ひたすら念仏するだけで死後極楽浄土に往生できる)に特化しはじめ、重源は当時55歳で、法然の思想とは多少距離があり、最初は大勧進職を法然に依頼されたそうですが、ひたすら念仏のみを主張する自分と偶像再建は矛盾するので辞退し、重源を推薦しています。
そののちも、70歳の重源に依頼され、58歳の法然は、浄土教の経典を再建中の東大寺で講義しており、立場は違いますが、浄土教を普及させたいのは同じなので、両者協力して布教活動していました。
さらに、重源は、東大寺(旧・浄土堂、現・俊乗堂)、伊賀(現・三重県、新大仏寺)、播磨(現・兵庫県、浄土寺)、周防(すおう、現・山口県、阿弥陀寺)、備中(現・岡山県西部)、摂津渡辺津(現・大阪府中部、港)、紀伊高野山(新=真別所、重源の本拠地)に別所を設置し、復興事業の拠点としました。
別所7ヶ所では、大湯屋と阿弥陀如来を安置した浄土堂が建立され、大仏・大仏殿再建の協力者・支援者に入浴と、浄土信仰の念仏道場を提供するとともに、阿弥陀仏が死者を極楽浄土に往生させて救済する場面を再現した宗教劇(来迎会/らいごうえ、源信が起源)を開催し、活動を強化しました。
しかし、それだけでは不足なので、ちょうどその時期に源平の合戦が源氏の勝利で終了し、源頼朝が後白河法皇から守護(諸国の治安維持・役人役所管理)・地頭(荘園・公領の治安維持と年貢徴収代行)の任命権を獲得したので、重源は頼朝に好材の巨木が豊富な周防の支配権を要望しました。
頼朝は朝廷に提案し、頼朝が接近した九条兼実(かねざね、摂関家・九条家の始祖)の尽力で、大仏殿再建のために東大寺の周防支配が承認され、その税収を工費、山林の巨木を資材にあてることができ、そこではまた、頼朝と兼実の主導で、興福寺再建のために、大和の支配権が興福寺に承認されています。
再建終盤の鎌倉初期には、備前(現・岡山県南東部)の支配権も追加され、そこでは良質な粘土が産出されるので、膨大に使用される屋根瓦の大半を調達しました。
頼朝は、平氏から政権を奪取後、権威も保持したいので再建を支援、兼実は、平氏と距離をとっていたので、頼朝の支持・協力で朝廷の最高実力者となって再建に尽力しましたが、晩年には天皇の外戚になれず、頼朝の支持・協力もなくなり失脚、法然に帰依して出家し、専修念仏に救いを求めています。
こうして、これ以降の仏寺の創建・再建事業は、無縁な立場にある有能な仏僧が主導し、公家・武家等の有力者達が支援する方式が定着しました。
(つづく)