関ヶ原の戦いは、武士たちが「封建制度」の世の中を守るために家康を担いだ戦いだった。てのは? | えいいちのはなしANNEX

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このブログの見方。写真と文章が全然関係ないページと、ものすごく関係あるページとがあります。娘の活動状況を見たいかたは写真だけ見ていただければ充分ですが、ついでに父の薀蓄ぽい文章を読んでくれれば嬉しいです。

たとえば大河ドラマ「真田丸」では、武田家の滅亡後に真田の里に逃げ帰った昌幸(草刈正雄)が、小県郡の他の領主たち(寺島進や西村雅彦といったクセ者揃い)と集まって、さてこれからどうするか、北条につくか上杉につくか、と相談してました。彼らはそれぞれ独立した領主であり、滅んだ武田に忠義を貫く動機はまったくありません。
これが正味の「武士の価値観」というものです。


従来の大河ドラマでは、信長や秀吉という「天下統一する側」から歴史を見ることが多かったですが、軍師官兵衛、真田丸、直虎と、「統一で巻き込まれていく側」を主人公にしたドラマみていると、なんか、だいぶ価値観が違うぞ、というのが分かります。
これがつまり「封建制度」というもので、織田信長や豊臣秀吉の作った組織が例外的で、従来の「戦国大名」というのは、こうした封建的なやりかたで国を治めていました。
大名は、家来になった地侍の土地所有権を保証してやり、自治権を認める、そのかわりに軍役、つまり「いざというときは自前で兵隊を率いて駆けつけて戦争する」という義務を負うわけです。これが「御恩と奉公」です。
ある意味、ギブアンドテイクな関係です。


武士というのは本来、農場経営者です。ですから、土地と農民が命より大事、というのが「武士の基本マインド」です。
自分の土地は自分だけのものだ、先祖伝来のたったひとつの土地と、そこに住む農民を命懸けで守る、これを「一所懸命 」といいます。だから、戦えば強いんです。
真田の領主は、真田の里を守ることが人生の目的の全てです。武田家の家臣になるのも、武田を守っていくさをするのも、結局は真田の里を守るための手段にすぎません。

ところが、織田信長 は、これとはいささか異なるシステムを作り上げました。いわゆる「兵農分離」です。
これは「農民が農閑期に兵隊になる古いシステムから、兵隊が給料とりの専門職になる新しいシステムに替えた」と一般に理解されていますが、それは大なり小なりどこでもやっていた、とも言われますし、本質ではありません。
要するに「武士と土地の精神的な関係を希薄にする」という思想革命を信長はやった、ということなんです。
新しい土地を征服すると、そこの元領主を追い払い、自分の家来を送り込んで統治させる。そこが治まったら、また新しい遠くの土地に「加増」して転封する。
信長の家来にとって「出世」というのは「新しい大きな土地を任されること」であり、領地は「石高」という数字がすべて。先祖伝来の土地から離れたくない、などという我儘は許されません。
領国統治はすべて信長の大方針に沿っておこなわねばならず、「他所に転勤」と命ぜられれば、手塩にかけた土地を手放して即刻異動しなければなりません。つまり自治権というのはハナからないわけです。


「信長協奏曲」の織田家は、みんな仲良くサークル活動みたいな組織ですが、現実の織田軍団は、「土地に根付きたい」という武士の本能は無視され、次から次へと追い立てられる、かなりストレスフルな組織です(本能寺の変が起きた理由も、根本はこういうところからきています)。
でも、天下統一、という大目標を最速で実現するためには、どうしても、こういう中央集権的な強権体制でなければなりません。
その意味で、武田と織田、どちらが天下を統一できるか、といえば、織田に決まっているわけです。武田の古いシステムで、織田に対抗しようとした時点で、滅亡は運命だった、といえます。

秀吉も、この信長システムを引継ぎ、秦の始皇帝 のように、中央集権制を推し進めます。具体的には、戦争で手柄があった者の旧領を召し上げ、征服地に移します。「石高が増えるのだからありがたく思え」というのは、土地を「数字」でしか見てないわけで、これは武士のマインドではなく、根っから商人の発想です。
黒田官兵衛 は先祖伝来の播磨の領地をを取り上げられて豊前に移され、上杉景勝は越後を取り上げられ会津に移され、徳川家康は東海を取り上げられ関東に移され、織田信雄は尾張から東海に移れと言われて「ふざけるな」と言ったら追放されました。
秀吉にしてみれば「石高を増やしてやると言ってるのに、不満を言うヤツは理解できん」ということですが、こうしたやり方は「一所懸命」のマインドが染み付いている日本中の武士たちに、どんどんストレスを溜めていたんです。


極めつけが「朝鮮、唐を征服すれば、みんな百万石の大領主になれるぞ」という朝鮮出兵です。
日本の十万石のかわりに大陸の百万石をやるぞ、だからガンガン働け働け」という秀吉の掛け声に、熱に浮かされて海を渡った大名たちも、終わってみれば「そんなに苦労して海外に領地なんか貰ったって、今の日本の領土を代わりに取り上げられるんだったら、御免だよ」という気分になっていた。
ですから、秀吉の死を機に、もっと「地に足のついた」、落ち着いた社会を作ってくれる新しいリーダーが必要とされたのです。
豊臣政権は、家康に潰されたのではなく、自らの失政で潰れたのです。
だから、家康がいようといまいと、カリスマ秀吉が死んだ時点で、豊臣政権は事実上終わりです。


秀吉の失政とは、「日本統一により大量の兵士の余剰人員が出来た、という社会矛盾を、海外進出(ありていにいえば侵略)という方法でムリに外に掃き出そうとしたこと。今後は国内の農業生産力を充実させて国力を養うべきなのに、安易な海外進出、商業的利益の獲得に走ったこと、です。
いままでの成功体験に縛られている秀吉には、これしか選択肢が考えられなかったのは仕方のないところです。しかし、秀吉の「上滑りな政策」に嫌気が差していた多くの武士たちは、秀吉の死とともに「いままでの政治をいったん全否定して、新しいシステムを作ってくれる新しいリーダー」を求めていたのです。
そこにいたのが「豊臣政権の党内野党」みたいな存在だった徳川家康だったわけで、武士本来の土地重視、農業重視の日本を復活させてくれるのは家康であろう、家康しかいない、という空気が醸成されていたのです。

これを「人望」というなら、まさにそうです。時代の期待を背負ってたのは、明らかに家康のほうだったんです。

しかし、その空気をまるで読めなかったのが、秀吉様命で生きてきた、三成です。彼は秀吉流の政治を継続することしか頭にありません。
そんな三成に国を任せたら、どうなるか。こいつが勝ったら「また海外出兵」とか言いかねません。だって、秀吉流とは「皆でどんどん大きくなる」ことがドグマなんですから、日本に土地がなきゃ海外に行くしかないでしょ。
あの「大失敗政策」の実行責任者でありながら、その反省をまったくしない。しようというマインドがない。秀吉命の三成にはそれが持ちようがない。なぜなら彼も、先祖伝来の土地を必死に守った経験のない、「一所懸命」の武士の心を持ってない官僚だからです。
かたや家康は、三河の小領主から出発して、「一所懸命 」という武士の根本マインドを分かっている人物です。人望がどっちに集まるかは、明らかです。
つまり家康 は「一所懸命を尊重する世の中」、古きよき封建制度を復活させてくれるに違いない人物、として期待されたんです。
江戸幕府の「幕藩体制」というのは、大名たちの自治権を最大限に尊重する、封建制度の完成形といえるものです。
「天下統一」という事業のためには、中央集権制が必要だった。それは明治維新と同じです。しかし、まだこの時代には、武士のマインドを根本的に刷新することは到底できなかった。従って豊臣政権は、封建制と中央集権制を折衷したような、不恰好なシステムにならざるを得なかった。
でも、それは「大目標のために武士がたちがみんなして我慢していた」というストレスの溜まる組織であることでも確かなんです。信長、秀吉というカリスマがいなくなれば、その時点で崩壊するような、不自然な体制だった、といえます。


関が原の戦いが起こった根本的な「動機」は、ここです。日本中の大名が「秀吉流の政治は終わって欲しい」と思っていた。ガラガラポンが必要とされたんです。
信長・秀吉が作った、天下統一のために構築された非常時的で不自然なシステムを終わらせて、本来の武士の世の中に戻そうとする戦いが、関ヶ原です。

 

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