今日初めて知った言葉があって、とても興味深かったので紹介。
みなさんは、「高コンテクスト文化」「低コンテクスト文化」という2つの言葉をご存じでしょうか?
ハイコンテクスト文化、ローコンテクスト文化とも言われます。
コンテクストとは、英語で「文脈」のこと。
高コンテクスト文化とは、いわゆる「空気を読む」というアレです。
つまり、言葉になっていなくても、その裏にある意味を理解しなさいよ、というヤツです。
一方で、低コンテクスト文化は、言葉として表現された内容だけが、その言葉の意味の通りに相手に伝わる文化のことです。
具体的に、お仕事の例で考えてみると、
上司:〇〇さん、報告書のここ、間違ってるよ。
部下:あっ!申し訳ありません、すぐに修正します。
これは、高コンテクスト文化における、高コンテクストな指示。
上司:〇〇さん、報告書のここ、間違ってるから、明日のお昼までに修正して再提出お願いします。
部下:あっ!申し訳ありません、修正します。
こっちが低コンテクスト文化における、低コンテクストな指示。
トラブルが起こるのは、低コンテクスト文化の中での高コンテクストな指示。
上司:〇〇さん、報告書のここ、間違ってるよ。
部下:申し訳ありません。(指示がないので直さない)
結構、あるあるじゃないですか?
これはどちらがいいとか、そういう次元の話ではなく、単純に文化的・社会的基盤を共有する度合いによって変わってくるものです。
例えば、日本は島国で、特に歴史的に侵略されていないので、多様化してきたと言われている現代でさえも、まだまだ「常識」「共通認識」と言った部分が多く見られます。
「だいたい、みんなそういう風に考えるでしょ?」
「普通は~」
とか言っちゃう人は、まさにそれ。
(私も時々言っちゃうw)
自分がこうだと思ったものを、相手もそうだと思うと思っている。
逆に、カナダなどの移民が多い国においては、背景基盤の異なる人たちの中でコミュニケーションを取るためには、どうしても低コンテクストにならざるを得ないのだと思われます。
面白いのは、アメリカの文化人類学者のエドワード・T・ホールさんが、世界中の文化のコミュニケーションの型を、高コンテクスト文化と低コンテクスト文化に分類したらしく、結果として、
日本語が、最も高コンテクストな文化
ドイツ語が、最も低コンテクストな文化
と、両極端な例として挙げられているらしいこと。
昔はね(っていう表現も高コンテクストなんだろうけど)、というか、少なくとも私たちの世代の親が子供の頃あたりは、まだまだ大人が子供に色んなことを押し付けてきた時代だったと思うんですよね。
男はこうあるべきだ
オンナはこうあるべきだ
~すべきって。
時代は刻々と変わっています。
正直、もはや60年前の日本は今の日本と全く違うと思うのです。
この多様化の時代に、共通の社会的・文化的背景なんて、薄まっていくに決まってる。(し、自分の子供の頃と比べても、実際にかなり薄まっていると感じています。)
それにも関わらず、まだ高コンテクスト文化を保ち続けていること自体がナンセンスだと思うんですよね。
日本人の共通認識や、背景基盤が少しずつ変わってきているし、人によってもそのあたりは全く異なるので、そんないろんな人達の集まりの中で、コミュニケーションを取ろうと思ったら、どう考えても低コンテクストのコミュニケーション側に倒していかないと、コミュニケーションなんて取れないに決まってます。
でも、昔を引きずって、適応できない大人たちが、自分たちの価値観を若い世代に押し付ける構図になっているんだろうな、と思ってしまう。
これ、逆も然りで、今の世代の価値観を、昔の価値観の大人に押し付ける人がいることも事実。
相互に自分の文化(前提とか共通認識とか)を頑なに変えない、変えられないと、コミュニケーションがうまく成り立たないのは当たり前ですよね。
変われない人がいるのも、仕方のないことだと思うので、自分が変わるしかないんです。
他人は変えられませんから。
高コンテクスト文化を持っている人に対しては、高コンテクストな表現で、低コンテクスト文化よりの人に対しては、低コンテクストな表現で、上手く自分がコントロールできるようになるのが、一番ラクだと思うんですよね。
自分が変わるだけで、かなり生きやすくなります。
このあたりはテクニックなので、いくらでも磨ける。
(コミュニケーションは後天的なモノ、というのが私の持論。)
今自分の置かれている環境は、高コンテクスト文化なのか、低コンテクスト文化なのかを考えてみるというところから、コミュニケーションの方法を考えると、ずいぶんと生きやすくなるはず。
是非試してみてほしいな。
ネコ吸いたい。