カン・ジェギュ監督、イム・シワン(ソ・ユンボク)、ハ・ジョンウ、ペ・ソンウ、キム・サンホ(ペク・ナムヒョン)、パク・ウンビン(オクリム)ほか出演の『ボストン1947』。2023年作品。

 

1936年、ベルリンオリンピックのマラソン競技において、日本は世界新記録を樹立、金メダルと銅メダルを獲得し、国民は歓喜に沸いた。しかし、その2個のメダルには秘められた想いがあった。日本代表としてメダルを獲得したソン・ギジョン(ハ・ジョンウ)とナム・スンニョン(ペ・ソンウ)が、日本名の孫基禎と南昇竜として表彰式に立ったのだ。第2次世界大戦の終結と共に、彼らの祖国は日本から解放されたが、メダルの記録は日本のままだった。1947年、ボストンマラソン。その二人がチームを組み、才能あふれる若きマラソン選手を歴史あるボストンマラソンに出場させる。<祖国の記録>を取り戻すために—。(公式サイトより引用)

 

『シュリ』(1999)『ブラザーフッド』(2004) のカン・ジェギュ監督の最新作。

 

『シュリ』は2000年の劇場公開時に観ましたが、今度4Kデジタルリマスター版でリヴァイヴァル公開されますね。

 

 

 

そちらはちょっと観にいく余裕があるかどうかわかりませんが、予告篇観ると出演者の皆さんがほんと若い。僕が韓国映画に触れた最初期の作品だから懐かしいです。

 

そのカン・ジェギュ監督の映画は僕は長らく観ていませんでしたが(『ブラザーフッド』もタイトルは覚えているのに観たのかどうかどうしても思い出せない)、この最新作は予告篇を観てもわかる通り、かつて祖国が日本に支配されていたためにオリンピックに日本の選手として出場せざるを得ず、当時の世界新記録を出したにもかかわらずその栄光が日章旗や「君が代」とともに日本の記録として残されて屈辱を味わった朝鮮人のマラソン選手と、戦後、解放された祖国で彼の教え子がボストンマラソンに参加することになった史実をもとにした映画で、予告を観たのがちょうどパリオリンピックの真っ最中だったこともあって、これは観たいな、と思っていました。

 

これまで再三申し上げているように、僕自身はスポーツにまったく興味がない人間で(でも、一応、中学時代は陸上部に所属していた)、だから現在開催中でもう間もなく終わるパラリンピックの試合の模様を観ることもないし、メダルを何個獲ったみたいな話にも興味がないんですが、今述べたように侵略によって自らのアイデンティティや民族の誇りを奪われた人々がそれを取り戻す話として関心を持った。

 

今年の9月1日にも、小池百合子東京都知事は1923年の関東大震災後に虐殺された朝鮮人犠牲者たちを追悼する式典に去年に続いて8年連続で追悼文を送りませんでした。都知事は虐殺の事実について「諸説ある」などと言って笑っていた。こういう人を都知事として再選させた都民の人々に僕はとてもがっかりしているし、日本が朝鮮半島を侵略した事実も、震災後の虐殺の存在自体も否定したり、いまだに隣国の人々を差別する人間が野放しにされている現状にも失望しています。『福田村事件』で描かれたように、自分の本当の名前を奪われた人々がいたということ、奪ったのは僕たちが住むこの国だった、という事実。それを忘れてはいけない。

 

 

 

1936年のベルリンオリンピックはナチスがプロパガンダに利用して自国ドイツの威信をかけて大々的に開催したもので、『不屈の男 アンブロークン』でも少しだけ描かれていたし、レニ・リーフェンシュタール監督による記録映画『民族の祭典』も何年か前に観ました。

 

あの時にソン・ギジョン(孫基禎 손기정)さんやナム・スンニョン(南昇竜 남승룡)さんもマラソン競技に参加していたわけですね。そしてお見事、1位と2位に輝いた。お孫さんの話では、ソンさんはヒトラーとも握手したのだそうで。

 

しかし、そこで世界記録を出して金メダルを獲得したものの、自分の名前が日本語読みの「そん・きてい」とされてその記録も日本のものとして残されることに到底納得いかず、朝鮮民族としてのアイデンティティを強調する行為を理由に選手を続けることができなくなった。

 

だからこそ、日本の降伏後に独立した祖国で若き才能ある者を指導して国際的な大会で「KOREA」の人間として1位を勝ち取ることは悲願だったのでしょう。

 

僕個人としては、自分の国の国旗や国歌に思い入れがないし、そういうものの下に集って別の集団と競い合う、ということに危うさと気持ち悪さを感じるので(国旗掲揚時に胸に手を当てるしぐさも嫌い)オリンピックだとか国際的な大会みたいなものにどうしても抵抗があるんですが、それは僕が民族的な差別を受けたり日本人であることを理由に不利益を被った経験がないからで、恵まれた立場でもあるんですよね。国籍や社会的な立場に守られてきたわけだから(関東大震災のあとに朝鮮人と疑われて日本人も殺されたように、そのような“立場”といったものはいざという時にはあてにならないのだが)。

 

ガザの人々にとってパレスチナの旗が大きな意味を持っているように、自分のルーツだったり思想や信仰などを理由に差別され暴力に晒されてきた人々には「仲間」「同志」との団結は自らを守るために必要なことで、だから日本によって支配されてきた人々、差別されてきた人々にとって自らの国の旗や国歌は心の拠り所、自分たちの誇りを保ち続けるものとして存在したんですね。

 

朝鮮半島は、日本の支配から解かれたあとは「難民国」としてアメリカの軍政下にあった。そして、この映画で描かれた1947年のボストンマラソンの3年後の1950年には朝鮮戦争が勃発する。今度は国が真っ二つに分かれての戦争。

 

だから朝鮮の人々には、故郷がどこの属国でも保護国でもない、真に独立した国となるために掲げられるもの、その象徴として太極旗はあったのでしょう。

 

ちなみに、劇中で監督のソン・ギジョンや選手のソ・ユンボク(徐潤福 서윤복)らの訴えによって朝鮮のランナーのユニフォームの国旗が星条旗から太極旗に変更される場面はフィクションのようで、実際には太極旗と星条旗が並べて描かれていた(表彰式では太極旗のみのシャツを着ていた)そうです。この史実の映画内での改変については韓国国内でも批判があったとのこと。こうであったらよかった、という映画の作り手の願い、と好意的に取りたいが、そこのところはなかなか微妙ではありますね。

 

 

 

ユニフォームの日の丸を月桂樹で隠した、というくだりも、微妙に史実と異なるような…(新聞の写真の中の日の丸を消した、ということらしいが)

 

現実のアメリカは映画の中で描かれたほど物分かりはよくなかったようで。

 

祖国の国旗にこだわるのか、それとも出場を諦めるのか。

 

まさにこれは「アイデンティティ」についての物語で、「走ること」と「朝鮮人であること」が重ねられている。どちらもが私なんだ、と。奪われてよいものではない。

 

ボストンに向かう途中で経由したハワイでも、同胞たちが彼らを応援してくれる。

 

ボストンで一行を出迎えたペク氏(この人物が実在する人なのかどうかも、僕は劇場パンフを買ってないので確認できませんが)は、まるで守銭奴のようにカネのことばかり話題にするが、それは「朝鮮人」としてアメリカで差別されてきたからで、金持ちになれば尊重されることを身をもって経験してきたから。

 

 

 

何度自分のことを「朝鮮人」だと説明しても、アメリカ人から繰り返し「中国人?日本人?」とからかわれたり、記者たちからも「朝鮮というのは中国の一部か、それとも日本の一部なのか」と質問されたり、ボストンマラソン当日の実況中継でも「初めて聞く国」と言われたりする。まさに自分自身の存在を否定されるような、辱めを受けている状態。

 

ウクライナの人々が自国がロシア化されることを拒むのと同じこと。故郷の歴史や文化、言葉…大切なものを見下されて奪われたり無視される苦しみ。

 

逆に、ロシアの選手が国として出場することが認められずに、個人として参加する例もある。

 

スポーツ選手がスポーツができなくなったら、それは両足を切断されたようなもの、といったギジョンの台詞があるけれど、ただし両足が義足のマラソンランナーやアスリートは現実にいますから、これはあくまでも「ものの喩え」ですけどね。

 

ソン・ギジョンさんたち一行や彼らを応援する朝鮮半島の人々は、アメリカの「愛国者の日」に開催されるボストンマラソンで1位になることが、祖国の独立や自分たちの存在を証明することのように考えていたのでしょう。

 

スポーツというのはどうしても政治的な要素が入り込んでしまうものだし(そもそもが戦争の代わりなのだから)、そうするとナショナリズムと結びついていたずらに人々の間にいさかいを生むきっかけにもなりかねないけれど、一方では人々の間に交流が生まれて友情が育まれたりもするように、平和を作り出すものでもある。

 

ソン・ギジョンさんはスポーツを通しての平和の実現を説かれていたそうだし、だから同胞の団結や民族的な誇りの喚起ももちろん大切ではあるけれど、そこからやがて国の壁を越えて個人個人が互いを称え合い尊重し合えることを願いたいですよね。スポーツとは本来は国威発揚のためではなくて、そういうことのためにあると思う。

 

さて、映画についてですが、僕が住むこの国も大いに関係がある史実について知れたことは本当によかったし、観終わったあとは満足感もあったんですが、実のところ鑑賞中は若干の違和感もあって、それは劇中使われている音楽がシンセサイザーやドラム、女性のコーラスなどで盛り上げる今風、というか正直ちょっと古さを感じさせるものだったり、VFXのクオリティが「ALWAYS 三丁目の夕日」を思わせるものだったり、まるで10~20年ぐらい前の映画かTVのスペシャルドラマっぽい作りだったこと。

 

エキストラも大勢で大作感があったし、せっかくなら1947年という時代色や民族性をもっと感じさせる曲にした方がよかったんじゃないかと思うんですが、ハリウッド映画ライクだった『シュリ』の監督の作品、ということでは、なるほど納得なところもある。

 

幅広い年齢層やいろんな国の人たちに観てもらうため、ということもあったのかな。

 

でも、ボストンマラソン当日の模様はなかなかのリアリティでしたね。

 

 

 

 

余計なことですが、ナム・スンニョン役のペ・ソンウさんがどうしても僕には減量したピエール瀧に見えてしょうがなくて^_^; 彼は『ベテラン』にも出てましたが(って、よく覚えてないが…)。

 

 

 

毎度のように韓国の俳優さんを日本人に例えるのは僕の癖なので気にしないでいただきたいんですが、ユンボクに「笑顔が怖いですね」と言われた時のあの顔の表情とかクリソツ過ぎてw

 

そのユンボク役のイム・シワンさんは松村北斗さんに似てるなー、って。

 

 

 

 

…いや、別にどちらかを「まがい物」呼ばわりしたいわけじゃなくて、誰かに似てると覚えやすいからそうやって無意識のうちに似てる人を探しちゃうだけなんですが。

 

逆に向こうの人たちは日本の俳優のことを、自分たちの国の誰々に似てる、と言ってるんだろうし。

 

イム・シワンさんは去年観た『非常宣言』では旅客機の中でテロを起こす若者を演じていました。今回のユンボクは“陽”の部分を強調した人物でしたが、鬱屈を溜め込んだ青年の役がハマってますね。

 

マラソンについてギジョンがユンボクに語る「最後まで走らせる力は怒りじゃなくて謙虚さだ」という台詞はスポーツの本質を突いているんじゃないかと思うんですが、それを言ってるギジョンが映画の中では一番短気というのが(笑)

 

そのギジョンを演じるハ・ジョンウさんは長身でがっしりとした体躯。低い声。いつ見てもうっとりする(^o^)

 

ユンボク役のイム・シワンさんが今風の「イケメン」なら、ハ・ジョンウさんは「男前」なんだよなぁ。監督という役に説得力がある(マラソン選手にしてはハ・ジョンウさんもペ・ソンウさんもガタイが良過ぎる気はするが)。

 

 

 

TVのスペシャルドラマみたい、とか言っちゃいましたが、それでもクライマックスのあの疾走シーンからの勝利には涙腺が緩みました。

 

なんだかんだ言ってても、あの手の映画的な盛り上がりには弱い^_^;

 

ラストスパートをかけるユンボクの脳裏に在りし日の母と少年時代の彼の想い出が蘇る。「走ること」は大切な母とともに彼の一部だった。多くの同胞たちの期待と民族の誇りを背負いつつも、彼個人の中にある大切なものを守り抜くための闘いでもあった。自分が生きてきた場所、ともに生きた人たちを肯定するための。

 

 

 

 

この映画の舞台となった時代はちょうど今観ている朝ドラ「虎に翼」のそれとも重なっていて(あのドラマにも朝鮮出身の女性が登場する)、だから歴史を振り返る大切さを痛感するし、スポーツをナショナリズムに利用することが個人のアイデンティティを踏みにじる結果に繋がる、という大事な教訓として僕は観ました。

 

加害の歴史を忘れると、同じ過ちを再び繰り返すことになる。それは絶対にダメだ。被害者が加害者を「赦す」ことと、加害者が「歴史をなかったことにする」ことは違う。僕たちはそれを心に留めておかなければ。

 

史実をドラマ化することにはどこかに危うさも伴うけれど、歴史を知るきっかけとなってくれる場合もあるから、やっぱりこういう作品も必要だよな、と思います。

 

 

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