アンジェリーナ・ジョリー監督、ジャック・オコンネルドーナル・グリーソンMIYAVIフィン・ウィットロックジョン・マガロジェイ・コートニーアレックス・ラッセルC・J・ヴァレロイヴィンチェンツォ・アマートギャレット・ヘドランド出演の『不屈の男 アンブロークン』。2014年作品。PG12

原作はローラ・ヒレンブランドによる、アメリカの陸上競技選手ルイス・ザンペリーニの伝記。



太平洋戦争中の1943年、B-24爆撃機で味方の捜索中に太平洋に不時着した“ルイ”・ザンペリーニ(ジャック・オコンネル)は、生き残った仲間たちとともに47日間漂流する。やがて海上で日本軍によって捕らえられた彼らには、さらに苛酷な日々が待っていた。


アンジェリーナ・ジョリーの2本目の監督作品。

2014年末にアメリカで公開される前にその存在を知った一部の日本人たちからおもにインターネットで「反日映画」のレッテルを貼られて、監督まで「反日分子」呼ばわりされてバッシングされていたのも記憶に新しい。

その頃から映画のことは知っていて映画評論家の町山智浩さんの作品紹介も聴いてたので、ずっと気になっていました。

観る前からこんだけアンチが湧いてるんじゃ日本での劇場公開は難しいかも、と思っていたところ、今年に公開されることになって胸を撫で下ろしました。公開実現のために尽力されたかたがたの努力に惜しみない拍手を送りたいと思います。

「反日反日」言ってた人たちは、もちろんこの映画をきちんと観たんだろうな?

ちなみに日本語字幕は大御所、戸田奈津子。町山さんが「誤訳の女王」として盛大に“ディスリスペクト”しているかたですがw

今回も“なっち”名物「かもだが」は健在(^o^)

僕は戸田さんが字幕を担当した映画を観て育った世代なので、彼女のことをあまり責め立てるのも気が引けるんですが。でもまぁ、明らかな誤訳迷訳は困るけど。

原作は日本では映画の公開に合わせて今年の2月6日に発売されたようで、つまりそれまでは英語の原書でしか読めなかったんですね。原作に散々文句言ってた人たちは英語で読んだんですかね。

僕は原作本は読んでいないので、映画についてだけ述べます。

基本、映画と戸田さんの字幕、劇場パンフレットと町山さんの解説から得た情報をもとに書いています。

まず最初にハッキリ断言しておくと、この映画は「反日映画」などではない

観もせずにこの映画をディスってた奴らは、アンジェリーナ・ジョリーさんとこの映画の関係者に日本名物“土下座”で謝りなさいね。

問題になったという原作の「人肉食」云々の記述に相当するような言及や描写は映画には一切出てこない。

このあたりの事情については町山さんの解説をよく聴いて(読んで)ください。






主人公と敵対し彼を捕虜収容所で虐待するのが日本人だから、同じ日本人としてはもちろん観ていていい気持ちはしない。

しかしこれは実在の人物が現実に体験した“事実”なので、それを描いたからといって「反日行為だ」などとは言えないでしょう。

そもそも「反日映画」ってなんだよ、って話だけど、めんどくさいんで省略。

これはアメリカが正しくて日本は悪いとかいう映画ではない。

もしもこの映画が「反日映画」とやらなんだったら、同じように日本軍の捕虜収容所を描いた『戦場にかける橋』や『戦場のメリークリスマス』だって「反日映画」ということになってしまう。

『戦場にかける橋』(1957) 監督:デヴィッド・リーン
出演:ウィリアム・ホールデン ジャック・ホーキンス アレック・ギネス 早川雪洲




やはり町山さん関連の論争があった『セッション』の感想でもちょこっと書いたけど、作品を観てもいないのにとやかく言ったり、ましてや「反日」だのなんだのと勝手に決めつけて映画やその作り手を誹謗中傷するような行為は論争以前の問題で、映画を自分たちが信じる偏りまくったイデオロギーに利用するだけの連中には「映画」について語ってもらいたくないし絡みたくもない。

映画に近寄ってこないでほしい。


さて、観終わって率直に思うのは、普通にイイ映画だった、ということ。

僕はちょっとクリント・イーストウッドの映画を連想したんですよね。

ご存知のようにイーストウッドは太平洋戦争中のアメリカ軍と日本軍との戦いを描いた『硫黄島からの手紙』を撮っているということもあるし、アンジェリーナ・ジョリーはかつてイーストウッドの『チェンジリング』に主演しているので、撮影現場でいろいろと学ぶところもあったのかもしれない。

『硫黄島からの手紙』では日本軍、というかそこで戦っていた日本兵たちを等身大の人間として描いていたように、この『アンブロークン』でも当時の日本人をいたずらに凶悪な存在としては描いていない。

ただ、あくまでも捕虜であるルイの視点で描かれているから、ほとんどの日本兵たちはその他大勢の点描に留まっているんですが。

それでもところどころで収容所の日本兵たちは戦況や自分たちの家族について語りあったりしていて、最後にルイが幼い頃の渡辺とその父親の写った写真を見つける場面などでも、相手が感情のある生きた人間であることを観客に常に意識させるようにしている。

確かに捕虜を虐待する非人道的な行為は描かれるけど、この映画を最初から最後までちゃんと観たら、ことさら旧日本軍の戦争責任を追及したり現在の日本人を糾弾することが作品の目的などではないのがわかるはずだ。

この映画を観て、日本人による虐待行為(といっても、その描写はかなり抑えられている)が描かれているから「反日」、などと言い張る者がいるとすれば、その人は単純に読解力がないんだと思う。

これは苦難に見舞われた人間のサヴァイヴァルを描いた物語であり、けっして最後まで諦めず“壊れず”人間としてのプライドを失わずに、最後に「許し」によって自らの怒りと復讐心に打ち勝った一人の男の記録でもある。

だが「許し」までの道のりは長く、映画で描かれるのはその前半、彼が終戦によって収容所から解放され祖国に帰るところまで。

そこから90年代末に長野オリンピックの開催されている日本を訪れて仇敵の子孫である日本の人々と笑顔で走るまでには、長い年月を要したのだろう。

惨い仕打ちによって心に受けた傷が癒え、彼が敵を「許す」ことができるようになるまでいかに困難を極めたか。

この映画はそれを観客に想像させるために作られたといってもいいだろう。

それではこれ以降はストーリーについて書いていくので、まだ映画をご覧になっていないかたはご注意ください。



ルイス・ザンペリーニ、通称ルイはイタリアからの移民の子で、彼自身は生まれも育ちもアメリカであるにもかかわらず、いつもまわりの子どもたちから差別的なことを言われて苛められていた。

「イタ公!」と罵られて殴られても立ち上がってやり返していたが、問題児として目をつけられ両親にとっての頭痛の種でもあった。

そんな彼が兄のピートによって陸上競技のランナーとしての才能を見出されて、やがてオリンピック選手にまで成長する。

ここでルイが子どもの頃から差別されてきたということが、彼がやがて敵国となる日本の人々に対してことさら強い人種的な差別意識を持たなかったことにも繋がっているのかもしれない。

彼はまだ日本との戦争が始まる前には、ピートに「オリンピックで東京に行くのが楽しみだ」と語っていた。

また、ベルリンオリンピックの会場では日本人選手の一人と軽く笑顔で視線を交わしたりもする。

実際に当時のザンペリーニさんが日本人選手と交流があったのかどうかは知らないし、もしかしたら映画のための創作かもしれないが、日本人を一方的な悪役として描かないように映画の作り手が慎重に配慮しているのがわかる。

この映画は太平洋戦争を描きながらも、日本軍の残虐性を強調するような描写は極力抑えられている。

ルイを目の仇のように虐待しまくる渡辺伍長(のちに軍曹に昇進)を演じているのは日本人ミュージシャンのMIYAVIだが、だいたいほんとに監督のアンジェリーナ・ジョリーに日本や日本人に対して悪意があって僕たちを貶めたいのなら、敵役をMIYAVIさんのような美形ミュージシャンに演じさせたりしないと思う。見た目だってかつての「国辱映画」のように眼鏡出っ歯みたいな醜悪な人物に描くでしょう。




【インタビュー】MIYAVI、アンジー監督作『アンブロークン』で迎えた“試練”


中性的な顔つきのMIYAVI演じる渡辺の人物造形は、目をつけたアメリカ兵を理不尽極まりない暴力で苛め抜いたりその暴力が性的な捌け口であるかのようにも感じられるところなど、明らかに大島渚監督の『戦場のメリークリスマス』で坂本龍一が演じたヨノイ大尉の影響を受けている(映画の最後に映る実際の渡邊の外見は美形でもなんでもないただのおっさん)。

史実とは別の形での映画史的なオマージュがあるのだ(監督のアンジーがどれほど『戦メリ』を意識していたのかは不明だが)。

『戦場のメリークリスマス』(1983) 出演:デヴィッド・ボウイ トム・コンティ ビートたけし ジョニー大倉



こういうところからも、この映画がたとえばマイケル・ベイが、マコ岩松演じる山本五十六と日本海軍の面々が着物姿の子どもが凧揚げするそばでのどかに会議している場面などに代表される、考証もへったくれもなく日本人への無知と差別意識丸出し(「このツリ目野郎!」という台詞など)で作った『パール・ハーバー』のような“国辱映画”とはまったく違う種類の映画であることは明白。

この映画のシナリオには最近では『ブリッジ・オブ・スパイ』も執筆したジョエル&イーサンのコーエン兄弟が関わっている。ハリウッドのプロ中のプロだ。

戦争映画らしくVFXにも力が入っていて、爆撃機のハッチが故障して閉まらなくなったところに敵機のゼロ戦が攻撃してくるという、これまでになかなか目にしたことがないヴィジュアルイメージを堪能できる。

とはいえ、主人公たちの敵は日本軍である。彼らの爆撃によって日本人たちが殺されている。

「下はクリスマスだ」とガムを噛んで笑いながら爆弾を次々と投下するアメリカ兵たちは一見軽薄そのものだが、一瞬先には死んでいるかもしれない戦闘中にはそうやって冗談を交わすことで正気を保ち続けようとしている彼らのギリギリの精神状態がうかがえる。

さっきまで元気だった戦友は、今では敵の機銃掃射を受けて息絶えている。

戦争とは「不条理」そのもの。ついこの間までは憧れの地でさえあったはずの「東京」は、今では主人公を苦しめる忌むべき地となっている。

そしてのちに捕虜となったルイたちは、別の収容所に移送される途中で自分たちの味方であるアメリカ軍の空襲によって破壊され多くの民間人たちの遺体が寝かされている東京の町を目撃することになる。


アンジェリーナ・ジョリーは、人が人に対して行なう暴力、というものに強い関心を寄せているクリエイターなんだと思う。

僕は未見ですが、彼女の映画監督第1作目の『最愛の大地』はボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争を背景にした物語なんだそうで、つまり現実の世界の「暴力」の最たるものが戦争だという認識で、だからそれらを題材にしている。

この『アンブロークン』もそういった理由から選ばれたんでしょう。

彼女の姿勢は一貫している。

「反日」だのなんだのといった、心底しょーもない性根で彼女は映画を撮っているのではないのだ。

アンジーが2014年に主演したディズニー映画『マレフィセント』(監督ではないが製作総指揮を兼任)は、やれ「原典の『眠れる森の美女』を冒涜している」だの、「アンジーの“俺様映画”」だのと批判もされてますが、あれもまた、自分を傷つけた者への復讐に燃えていたヒロインが憎しみの連鎖を断ち切り「許し」によって世界に平和をもたらす映画だった。

『マレフィセント』での「暴力」とそれによって生まれた「復讐心」、そののちの「許し」という流れが、やはりディズニーの実写映画『シンデレラ』のラストに繋がっていたように、この『アンブロークン』もまた「許し」に至るまでの過程を描いた物語だ。

ルイの母親は問題ばかり起こしている次男のことを心配して神に祈る。

教会の神父は、少年時代のルイたちに「この世の“光と闇”はどちらも神が作られたのだ」と説く。「苦難」もまた生きていくうえで必要なのだ、と。

光と同等に、闇もまた人間の一部である。

この「闇」を象徴するのが、のちにルイが出会うことになる渡辺であることは言うまでもない。

嵐の中で瀕死のルイは、「どうか助けてください。もしもこの祈りを聞き入れてくださったら、今後の人生をあなたのために捧げます」と神に誓う。

嵐が過ぎ去っても、彼の苦難は続く。

生き残った彼とフィルは日本軍に捕らえられ、収容所へ送られる。

これは光と闇の戦いの物語であり、自分を打ち据え尊厳を踏みにじり陵辱する者に、怒りを超えた真の忍耐力と「まなざし」でもって勝利を収める男の姿を捉えたものだ。

ルイの勝利は、渡辺がルイに「私の目を見ろ」と言って彼を殴り、また「私を見るな」と言って彼を殴る行為への最終的な返答だ。悪を為す者は真実を見抜く「まなざし」を恐れる。

自分の貧しく空虚で弱い心を見透かされているように感じるから。

日常生活のDVに通じる渡辺の常軌を逸したあの暴力は、人を傷つけることでおのれの偽りの強さを誇示する弱い人間の心性と行動パターンを見事に表現している。

渡辺の暴力に堪えかねたルイは、収容所仲間のフィッツジェラルドの前で思わず「あいつを殺してやる」と呟くが、フィッツジェラルドはそれに答える。「それでは勝てない。生き抜くんだ。それが俺たちの復讐だ」と。

私たちを苦しめる者への勝利は、メゲずに最後まで生き抜くこと。自分を打ち据える者に対して最後まで毅然とひたすら堪え抜くこと。

それは『42 ~世界を変えた男~』の大リーガー、ジャッキー・ロビンソンのように「やり返さない勇気」でもある。

これはちょうど旧約聖書の「ヨブ記」で、信心深かったヨブが散々ヒドい目に遭わされ神に見捨てられたと感じ、信仰を捨てそうになりながらもついに苦難に堪え抜く物語に似ている。

またこれは、新約聖書でサタンがイエス・キリストに荒れ野で試みた誘惑とも重なる。

渡辺はルイの耳元で「もしかしたら私たちは“友だち”になれたかもしれない」と呟く。「だが残念ながらお前は日本の敵だ」と。

また、アメリカの有名アスリートであったルイには、日本軍によるアメリカ軍へのプロパガンダ放送に協力すれば収容所を出て贅沢な生活ができる、という誘惑が待っていた。

東京の放送局でルイは「東京ローズ」とおぼしき日系アメリカ人らしき女性とすれ違う。

ルイス・ザンペリーニ氏が実際に東京で日本軍による対連合国軍プロパガンダ放送の女性DJ「東京ローズ」(複数の女性だったとされる)とすれ違っていたのかどうかは知りませんが、脚本家は当時の資料をかなり綿密に調査したんだな、と思いました。

東京ローズとして唯一本人が名乗りを上げたアイバ・戸栗・ダキノについては、僕は以前NHKで彼女のドキュメンタリー番組を観たんですが、アメリカで生まれアメリカ人として育った彼女が両親の祖国・日本で戦争によってアメリカへの帰国が叶わなくなりやがて戦争協力を強いられた悲劇がルイの苦難と重なって、映画を観ながらグッとくるものがあった。

劇中でルイを放送関係者に紹介したのも渡辺だ。

要するに、この映画での渡辺はルイの“影”なのだ。そんな渡辺はルイとどこまでも対照的な存在として描かれている。

しかしそれがゆえに、渡辺は病的なまでに一捕虜に過ぎないルイに固執する。

「お前たちは捕虜だ。だからそのように待遇する」と、劇中ルイの眼前で渡辺は同じ台詞を二度繰り返す。

昇進によって渡辺はルイのいた大森収容所をあとにするが、捕虜たちが直江津に移されるとそこにまた渡辺がいてルイがフラッと気絶しかける場面は、まるで意地の悪いジョークのように見えた。

ルイはオリンピック選手だった。選ばれた特別な存在だ。人々から賞賛される栄光、それは渡辺が欲してやまなかったものだ。

良家の子息として生まれ、自らエリートの道を歩んでいくと信じていた渡辺は軍隊で将校になれず、その怒りを捕虜たちを虐待することで晴らそうとしていた。

貧しいイタリア系の家で生まれ育ったルイが努力と天賦の才によって得たものを、渡辺はけっして手に入れることができない。

だからそこに渡辺は屈辱を覚えてルイを折檻する。

彼のようなサディストに特徴的なのは、その加虐行為が執拗かつ長期に渡ること。

暴力を行使する者は、決まって繰り返し繰り返しそれを行なう。まるで中毒患者のように。

中毒患者はその欠乏感から自分が依存するモノ(人)をひたすら求め続ける。

麻薬と同様、暴力もまた中毒をもたらす。癖になるのだ。

そして「暴力」は伝播する。

映画では描かれなかったが、戦争を生き延びて戦後祖国に帰り結婚もしたルイは、渡辺への復讐心に苛まれ、妻にも暴力を振るい家庭の崩壊直前までいった。

アメリカン・スナイパー』でも描かれた、肉体的精神的な極度のストレスによって蓄積された怒りと破壊衝動。その結果、愛すべき人にさえも振るわれてしまう暴力。

ルイス・ザンペリーニはスーパーヒーローでも聖人でもなく生身の人間であったために、収容所で日常的に受けた拷問によって心に深い傷を負い、長らく苦しみ続けたのだ。

ここには戦争犯罪から家庭での配偶者や児童への虐待、ストーキングや学校でのイジメまで、ありとあらゆる世の中の「暴力」についての真実がある。

先ほどたまたまタイトルが出た映画『セッション』の鬼教師が生徒たちにやっていたパワハラ、モラハラと渡辺の暴力は同根のものだ。

渡辺のような人間は社会や学校の中にいくらでもいる。

そして、そんな彼の愚かさや弱さはすべての人間が持っているものだ。

Wikipediaで渡辺のモデルである渡邊睦裕の項を読むと、収容所で実際にあった彼にまつわるさまざまなエピソードを映画では直接ルイに絡めて脚本化していることがわかる。

映画では、渡辺は木製の梁をルイに長時間頭上に持たせ続けて「梁を落としたら射殺しろ」と部下に命じているが、実際にはそんなことは飢えて極度に体力が落ちた捕虜には不可能だろうし、事実とも異なるようだ(持ち上げていられたのは37分間だったそうです)。

映画の中で、ルイはその虐待に堪え抜く。

その姿を見た渡辺は恐れおののき、「私を見るな!」と取り乱して部下や捕虜たちの前で醜態を晒す。

これは「光」が「闇」に勝利した瞬間を表現していたのだと思う。

キリストの受難を描いたメル・ギブソン監督の『パッション』のクライマックスを思いだした。

現実には、残念ながらルイが目に見える形で渡辺に勝利したことはなかったのだ。現実の世界で、あなたや私に苦しみを与えた張本人がけっして罰せられないように。

それでも、ルイは戦後もPTSD(心的外傷後ストレス障害)に苦しめられながらも、長い月日を経てかつて自分たちを苦しめた日本兵たちと再会し彼らを許した。

ルイは渡辺との再会も望んだが、彼は現われず、2003年に死ぬまで捕虜たちへの謝罪の言葉を述べることはなかった。

悪は必ずしも裁かれない。人を苦しめ、時に死に追いやった者たちがその報いを受けず反省することもなく生き続け、逆に苦しめられた人々がその後破滅的な人生の中に消えていくこともままある現実に言い様のない怒りが湧いてくるが、せめて私たちにできることは、怒りと復讐心に飲み込まれてしまうのではなく、ルイス・ザンペリーニの生涯がそうであったように最後まで人間としての真のプライドを失わないことなのだろう。

兄ピートはオリンピックのためにベルリンに向かうルイに「一瞬の苦しみに堪えて、一生の栄光を得るんだ」とアドヴァイスする。

ルイはまさしくそれを手にしたのだ。


ルイ役のジャック・オコンネルは僕は多分初めて観る俳優さんだけど、堂々たる演技でした。

彼をはじめ、フィル役のドーナル・グリーソンやマック役のフィン・ウィットロックなど、最初の鍛えられた筋骨隆々の肉体と後半の栄養不足でやせ細った身体の状態があまりに違うので(後半では頬もこけてるし)、どうやって撮ったのか不思議。




特殊メイクの効果もあるんだろうしもしかしたらVFXも使ってるのかもしれませんが、撮影期間中にあれだけ減量したのならスゴい気合いですね。

フィル・ウィットロックとジョン・マガロは、先日観た『マネー・ショート』でも若造の投資家二人組で仲良く一緒に出ていた。

ジョン・マガロの方は『キャロル』にも出てたし(僕は観てないけど、『ザ・ブリザード』にも出てるそうで)出演作が立て続けに公開されてますが(『アンブロークン』は2014年の作品なので同時期に並んだのは偶然だが)、ちょっとひと頃のシャイア・ラブーフを思わせるような躍進ぶりですね。

ルイの兄ピート役のアレックス・ラッセルは『クロニクル』の仲良し超能力三人組の一人だった人だし、フィッツジェラルド役のギャレット・ヘドランドは『トロン:レガシー』で主人公を演じてた人、捕虜になる前にB-24の不時着で死んでしまうカップ役のジェイ・コートニーは『ターミネーター:新起動/ジェニシス』でゴリマッチョなカイル・リースを演じてた人。

ドーナル・グリーソンも『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』では悪役だったりさまざまな映画に引っ張りだこだし、現在活躍中の若手たちが総出演してるんですよね。

それだけ力が入ってる作品ということ。

冒頭で少年時代のルイを演じるC・J・ヴァレロイも良くて、できれば彼のエピソードをもっと観たかった。




映画が冗長になるのを避けたのかもしれないけれど、少年時代から青年期に至るまでにルイがいかに「走ること」に魅せられていったかをじっくり描き込むことで、それへの強い想いによって彼がのちの収容所での苛酷な試練にも堪えおおせたことにさらに説得力が増したんじゃないかと思うので。

ルイにとって「走ること」は、信仰にも匹敵する生きる希望だったはずだから。

2014年、ルイス・ザンペリーニ氏は戦友たちの待つ場所に旅立った。

憎むべき敵を許し、その国の人々とともに走った彼は兄の言っていた“一生の栄光”を勝ち取った。彼の生き様こそが、僕たちが憎しみを乗り越えて生きていくための大きなヒントになってくれるだろう。






追記:

その後、続篇の制作が決定。監督はアンジーではなく、渡辺役も別の俳優になるとのこと。

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