テレンス・マリック監督、アウグスト・ディール、ヴァレリー・パフナー、ユルゲン・プロホノフ、マティアス・スーナールツ、アレクサンダー・フェーリング、ウルリッヒ・マテス、マルティン・ヴトケ、ミカエル・ニクヴィスト、ブルーノ・ガンツほか出演の『名もなき生涯』。2019年作品。

 

ナチス・ドイツに併合された1930年代のオーストリアの小さな村に家族と住むフランツ・イエーガーシュテッターは、キリスト教の信仰と反ヒトラーの信念に基づき兵役を拒否して逮捕される。そのことが村に知れ渡ると家族は差別され、やがてフランツはベルリンへ送られて裁判にかけられる。

 

実話を基にした物語。

 

映画館で予告篇を観て、興味を惹かれました。

 

最初はテレンス・マリック監督の作品だとは知らなかった。

 

テレンス・マリックの映画は、僕は日本では1999年に公開された『シン・レッド・ライン』を劇場で観ていますが、日本兵役で光石研が出演していたことと、ウディ・ハレルソンだったか誰かが手榴弾で尻を大怪我するかなんかしてたこと、エンドクレジットのバックに流れる美しい民族音楽が記憶に残ったぐらいで、観る前は『プライベート・ライアン』のような戦争映画を想像していたものだから、なんだかピンとこなかったことを覚えている。

 

で、あの映画も長かったけれど、今回も上映時間が173分と3時間近いことを鑑賞当日(※この映画は3月に観ました)に知って「しまった」と思ったけど、あとの祭り。

 

「映像が美しい」「現在の世界の状況が表現されている」と高く評価しているかたがたもいる一方で、「さすがに長過ぎるのではないか」「戦争に反対して弾圧されたり、拷問、処刑された人々は他にも数多くいる」という指摘もあって、正直僕も映画の長さにはかなり消耗したし、キリスト教徒の視点で描かれた「反戦・不戦」に疑問を感じたりもしました。

 

確かに内容はまさしく「今」の世界を写し取っていると思う。さらに新型コロナウイルス感染症による混乱と不安が溢れて、集団や組織、国のあり方などが問われている現在だからこそ、ここで描かれていることはよりいっそう切実さを帯びてくる。

 

フランツは戦争や人殺しは神の教えに背く行為として「国民の義務」とされている兵役を拒否するが、そんな彼は「臆病者」「非国民」と罵られる。

 

今、僕が住むこの国で新型コロナ禍中で自警団を気取る者たちが政府の「自粛」の要請に従わないとして店や個人を脅迫したり、こんな状況の中で国民の救済そっちのけで不穏な動きを見せる政府を批判した著名人たちにやはりカラんでくる者たちは、フランツを“非国民”呼ばわりした者たちとまったく同じメンタリティに支配されている。

 

「国民の義務」というのは、ただ黙って政府に従うことではないはずだが、それがいつの間にか混同されている。時の政府がなぜか「国」そのものと見做されて、批判や抵抗は許されない、という考えがまかり通る。

 

しかし、ヒトラーと彼が率いるナチスを国民が熱烈に支持し、その命令に従い続けた結果、ドイツはどうなっただろうか。そして同様に天皇を神と崇めてその天子様のために死ね、と教え込まれてひたすら従順であり続けた日本の国民はどうなったか。

 

私たちはあの忌まわしい過去から学ばなければならないはずだが、残念ながら教訓は活かされていないようだ。

 

今度、5月20日(水)の13:00からNHKのBSプレミアムでチャールズ・チャップリン監督・主演の『独裁者』(1940)が放映されるので、ぜひ多くのかたたちにご覧になっていただきたいんですが、あの映画では他国を侵略しユダヤ人を迫害するヒトラーとナチスを批判しています。

 

作品が撮られた1940年にはまだアメリカは第二次世界大戦に参戦しておらず(翌41年に日本軍の真珠湾攻撃をきっかけに参戦)、アメリカ国内でもナチスを支持する人々がいて、そのためチャップリンはそのような者たちから批判を浴びたそうですが、彼が正しかったことは歴史が証明しています。

 

何が正しくて何が間違っているのか、それを判断するのは国民である僕たち一人ひとりだ。

 

多数派の波に飲まれて自分で善悪や物事の判断ができなくなるのはとても危険なこと。

 

フランツがそうだったように、戦前戦中の日本でも政府を批判したり戦争に反対した人々が捕らえられて命を奪われた。暴力で人の口を塞ごうとする者たちはいつの時代にも現われる。そのような者たちに加担することは、けっして消えない罪と傷を残すことになる。

 

そんなことを考えさせられはするものの、一方でこの映画を観ながらずっと腑に落ちなかったのは、これがあくまでも「クリスチャン=キリスト教徒」の視点、価値観によって描かれたものだから。

 

罪のない者を殺したくないから兵役を拒否する、というのはわかる。ヒトラーの邪悪な思想を断固として受け入れなかったフランツの意志は尊い。だが、そのことで家族が巻き込まれるのがわかっていながら、それを押し通すことは果たして賢明な判断だろうか。他のやり方もあったのではないか。

 

どうしても自分の意志を通したければ、妻と別れて彼女に別の家庭を持たせて自分一人だけでヒトラーへの不服従を貫けばいい。

 

 

 

 

あるいは他にも、家族に被害をもたらさずに済む確実な方法がある。

 

黙って兵役に就いて、戦場で敵の前に無防備なまま身を晒せばいい。そうすれば望み通り人を殺さずに済む。

 

カトリックは自殺を禁じているからそれはできない、というのなら、やはりフランツの行動は彼本人の信念のためで、他の誰のためでもない。彼は自分の意志=信仰を守ること、を家族よりも優先したのだ。

 

叩け、さらば開かれん。求めよ、さらば与えられん。の精神で。

 

フランツは、ナチスに支配され、多くの人々がうつむき“神”から目を背ける中で、門を叩き続けた。

 

相談した神父はフランツの迷いを、まわりに影響を及ぼす考えとして懸念を示し、司教はフランツをナチスのスパイと疑って「上に立つ権威には従え」と答える。

 

ヴァティカンの教皇はナチスに対して積極的な批判を行なわなかった。圧倒的な暴力の前には宗教的権威も力はない。

 

日本でも軍部が実権を握っていた当時は、キリスト教の教会は軍と天皇制に無抵抗のまま協力した。ドイツと同じく、国民全体が巨大な“カルト”と化していた。

 

「国」に協力しない者は“非国民”であり、許してはならない。矯正できなければ排除される。

 

そのような社会でフランツのような行動を取ることがいかに難しかったか。

 

リリーのすべて』のマティアス・スーナールツが演じる男は、フランツに「君は私よりも賢いのか?」と尋ねる。

 

顔のないヒトラーたち』で主人公を演じたアレクサンダー・フェーリングは今回はフランツの弁護士役で、フランツに「あなたがどんなに意志を貫いても、何も変わらない」「考えを変えなければ私のキャリアに傷がつく」と言う。

 

ヒトラー ~最期の12日間~』で総統閣下役だったブルーノ・ガンツも出演(彼はこれが遺作となった。ご冥福をお祈りいたします。19.2.16)。また、2017年に亡くなった「ミレニアム」シリーズなどのミカエル・ニクヴィストの姿も

 

同じ囚人の一人は、神の存在を否定して、敵の攻撃の騒ぎに乗じて逃亡するようフランツをそそのかす。

 

それらはさながら、神に背くようキリストを誘惑したサタンの囁きのようだ。

 

劇中でわかりやす過ぎるほどフランツはキリストと重ねられている。

 

遠藤周作の小説をマーティン・スコセッシが映画化した『沈黙 -サイレンス-』を思い出す。

 

試される者、苦難を強いられる者は自らをキリストに見立てて、あるいは神を背負って堪えようとする。キリスト教徒はそこに使命感や美しさも見出すんだろう。

 

 

 

存在しないものを存在すると信じて崇め、死んでその「存在しないもの」のところへ行こうとするのは人の自由だ。好きにしたらいい。ただし自分以外の人たちを巻き込まずに。

 

僕はフランツのことを「愚か」だとは思わない。人を殺さない、という意志は正しい。その考えを貫くことも。そのことにおいて、僕はフランツ・イエーガーシュテッター氏を尊敬する。

 

だが、戦争や人殺しに反対して殺された人々はフランツ以外にも大勢いる。だったらそういう人々全員がフランツと同様に「福人(聖人に次ぐ地位)」とされるべきだ。大切なのは“神”への忠誠心ではなく、“人間”そのもののはずだから。

 

「歴史に残らないような行為が世の中の善を作っていく。名もなき生涯を送り、今は訪れる人もない墓に眠る人々のお陰で、物事がさほど悪くはならないのだ」

──ジョージ・エリオット

 

たとえ、叩き続けた門の向こうに何もなくても、名もなき生涯を送って誰も訪ねる者もいない墓の住人となっても、信じるものがあったということは、誰のためでもない、その人自身にとっては幸福なことなのだろう。家族やまわりの人々は振り回されるが。

 

“信仰”とは“狂気”の別名でもあるのだと思う。あるいは“呪い”と言い換えてもいい。どう呼ぶかの違いだけだ。神とサタンの違いもその程度のものなのではないか。

 

ヒトラーや天皇に忠誠を誓うのと“神”に誓うのとでは、何が違うのか。

 

目に見える自称“神”と、見えないそれとでは一体何が違うというのだろう。

 

見えない“神”もまた、これまで「信仰」の名の下に多くの人々に犠牲を強いたわけだが。

 

人が生きるのも、人が人を殺してはならないのも、それは“神”のためではない。私は私。そして、あなたはあなた。誰のものでもない。それは傲慢な態度ではない。“神”などではなく、人の尊厳こそがもっとも守られるべきものだ。

 

新型コロナ禍の中で、今「人」の大切さを痛感しています。すべての基準は「人」であり、それは隣の人も遠くにいる人も、等しくかけがえのない存在として扱われることを意味する。「国を守る」というのは敵味方に分かれて憎しみあったり殺しあうことではない。フランツがナチスとヒトラーを拒んだように、人命を粗末に扱ったり憎しみを煽る者たちに加担しないことだ。

 

僕はこれまで何かのために命を懸けたことなどないですが、この映画を観てあらためて“神”と名の付くものや“神”を名乗る者を信じたり、崇めたり、そのために命を捨てたりすることなど断じてすまい、と思いました。“自由意志”に基づいて。僕が信じるのは、いかなる時も正気を保ち続けて「人」を大切にする“人間”だ。

 

そのことを強く意識させてくれる映画でした。

 

 

 

 

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