ジュリオ・リッチャレッリ監督、アレクサンダー・フェーリング、アンドレ・シマンスキ、フリーデリーケ・ベヒト、ヨハネス・クリシュ、ヨハン・フォン・ビューロー、ハンシ・ヨクマン、ロベルト・フンガー=ビューラー、ゲルト・フォス出演のドイツ映画『顔のないヒトラーたち』。2014年作品。PG12。
1958年のフランクフルト。検事のヨハン・ラドマン(アレクサンダー・フェーリング)はジャーナリストのトーマス・グニルカ(アンドレ・シマンスキ)の情報からアウシュヴィッツのナチスの元親衛隊の一人が学校の教師をしていることを知る。やがて検事総長フリッツ・バウアー(ゲルト・フォス)からドイツの政府機関にナチス党員がいまだに存在することを告げられたヨハンは、アウシュヴィッツから生還した被害者たちの証言を記録するとともに戦時中に残された膨大な文書から加害者たちを割り出す気の遠くなる作業を開始する。それはやがてドイツ人がドイツ人の戦争犯罪人を裁くフランクフルト・アウシュヴィッツ裁判へと結実していく。
平日にもかかわらず小さな映画館の客席はいっぱいで、人々の関心の深さがうかがえました。
今年は第二次世界大戦終結からちょうど70年だったり「安保法制」等でこれまで以上に多くの人々が「戦争」というものを意識している表われだと思います。
同じ劇場で一昨年観た『ハンナ・アーレント』と同時代が舞台で、同じくナチスの戦争犯罪をテーマにした作品。あの映画に登場したアドルフ・アイヒマンの名前も出てくる。
また、『ハンナ・アーレント』で若き日のアーレント役だったフリーデリーケ・ベヒトが、今回は主人公ヨハンの恋人マレーネを演じている。
“ヒトラー”といえば、現在『ヒトラー暗殺、13分の誤算』も公開中ですが、僕は未見です。
思えば『ヒトラー暗殺~』と同じ監督が撮り『ベルリン・天使の詩』で有名なブルーノ・ガンツがアドルフ・ヒトラーを演じた(ブチギレる総統のMAD映像で遊ばれまくってる)『ヒトラー ~最期の12日間~』からもう10年以上経つんですね。
あの映画以降、ナチスやヒトラーについて描いたドイツ映画が日本でも何本も一般公開されるようになって目にする機会も増えました。
僕はアウシュヴィッツやナチス関連の映画をそんなに多く観ているわけではないし、あの時代の歴史に詳しいわけでもなくせいぜい学校の授業で習った程度の知識しかないので、あくまでもそういう人間が観て考えたことを書きます。
歴史的事実に基づく話なのでネタバレも何もないですが、一応ストーリーに触れますのでご了承ください。
まず、この映画は史実に基づく“フィクション”として描かれています。
主人公で検事のヨハン・ラドマンは実在せず、この映画のために創作された架空の登場人物。
実際に調査に携わった3人の検事を合成したキャラクターだそうですが。
劇場パンフレットの解説によれば、この映画の中に登場する人物の中で実在するのは検事総長のフリッツ・バウアーとジャーナリストのトーマス・グニルカとのこと。
他の登場人物については説明がないのでわかりません。
ヨハンが架空の人物であるのなら、少なくともその恋人となるマレーネもまた実在しないのではないかと。
このように、なんの予備知識もなくこれを「史実」だと思って観るとあとでフィクションだと知ってどうもモヤモヤが残る。
フィクションの中に架空の人物と実在の人物が混在する作品はたくさんあるから、そういう手法そのものは別に珍しくもなければ「だからダメ」ということもないのだけれど、「フランクフルト・アウシュヴィッツ裁判」という、これは紛れもなく現実に行われた裁判を巡る物語なだけに、それに多大な貢献をした人物を現実には存在しなかったキャラクターとして描いていることにずっと違和感があった。
だとすればマレーネの交通違反のエピソードもヨハンと彼女との恋もすべて「作り物」だということになって、そういういかにもなハリウッド映画的作劇がこのテーマにそぐわない気がした。
作り手はこの映画をお堅い映画ではなく、特に若者にもとっつきやすいように“エンターテインメント”として描きたかったようだが、そもそもその姿勢に僕は疑問を感じる。
せめて実在した3人の検事たちの視点で描けなかったものだろうか。
3人の人物を1人に集約したことで「物語」としてわかりやすくはなったのだろう。
実際はもっと地味な作業の積み重ねだったのだろうから。
ヨハンとマレーネのようなごく普通の善良な男女と彼らの父親たちやヨハンの上司であるフリードベルク検事正たち戦争の世代が対比されているのは理解できる。ヨハンの父親たちもまた普通の人々だった。
そんな多くの人々がナチスの一員だった。
そのことを観客に実感させるための措置だったことはわかるのだが、しかし、たとえばヨハンがヨーゼフ・メンゲレの悪夢を見る場面で両手や目鼻を縫いつけられるホラー映画めいた描写など、僕は何かとても不真面目なものを感じてしまったのだった。
加害者側による自己批判を伴う作品であればなおさらそこはもっと慎重に、冷静に描くべきだったのではないだろうか。
あいにく僕はクロード・ランズマン監督によるホロコーストについての映画『ショア』は未見なんですが、ランズマン監督が批判したというスピルバーグの『シンドラーのリスト』(この映画の作り手は迫害された側だが)のように感傷に流れ過ぎるとホロコーストの真の恐ろしさを見失う気がする。
『シンドラーのリスト』がとても見応えのある映画だったように、この『顔のないヒトラーたち』という映画にも、歴史的事実を人々に知らしめる、ということにおいてその存在意義はあると思いますが。
僕たち戦争を知らない現在の多くの人々がこのようなテーマに触れる入り口にはなってくれるでしょう。
映画の中で語られるSS(親衛隊)による残虐行為(リンゴを取りにいかせて射殺したり、無抵抗な子どもを壁に叩きつけて殺したことなど)について、僕たち観客はただその話を聴くだけで辛い気持ちになる。
そこには恐ろしさを盛り上げる劇的な音楽など必要ない。
むしろ、音楽など存在しない世界で惨殺されていった人々のことを想像して戦慄をおぼえ、生き残った人々の痛みを感じることしかできない。
『ハンナ・アーレント』(この映画もまた被害者側からの視点で描かれているが)では極力劇的な音楽は控えて、そのほとんどは台詞でのやりとりのみの非常に地味な作りに徹していた。
そこに僕は作り手の誠実さを感じたのです。
『ハンナ・アーレント』と『顔のないヒトラーたち』は映画の作り方が異なるが、同じことが語られている。
つまりアウシュヴィッツでユダヤ人虐殺にかかわった者たちもナチスの党員たちも、その多くは「普通の人々」だった、ということだ。
真面目に仕事をして家族を愛する普通の人々が、あのような虐殺を行ない、またそれを容認した。
ナチスの真の恐ろしさはそこにある。
1930年生まれのヨハンは終戦時は少年だったために自らが戦場で敵と殺しあうことはなかったのだろうが、正義感から始めたナチスの戦争犯罪人を追いつめる仕事に従事するうちに、自分の父親や恋人の父親もまたナチス党員だったことを知る。
今は亡き父は、もしかしたらあの戦争犯罪人たちと同じことをしていたのかもしれない。
アウシュヴィッツはポーランドにあり、戦時中に多くのドイツ国民はそこで何が行なわれていたのか知らなかった。
しかし、だから彼らに罪はないのかといえば、ナチスの存在を許してその行ないに加担・協力したのは紛れもない彼ら一般市民だった。
ユダヤ人を迫害し、彼らを強制収容所に送る手助けをしていたのは「普通のドイツ人」たちだった。
その後も連合国による「ニュルンベルク裁判」後は自国の犯した戦争犯罪について深く省みられることもなく、ヨハンたち若い人間は親たちのしたことを知らないままだった。
よくドイツと日本は第二次世界大戦の同じ枢軸国で敗戦国ということもあって比較されることが多いけど、ずっと不思議だったのが、なぜドイツはあれほどの戦争犯罪を行なっていながら現在では国としてユダヤ人から虐殺について公の場で責められることがないのか、ということでした。
ドイツによって侵略されたフランスなどの近隣諸国からも、歴史認識や戦争責任についてちょうど日本が朝鮮半島や中国大陸の人々から今なお追及されているような形でのバッシングを受けているような様子はない。
それは謝罪や賠償が完全に終わっているから、ということなのか。
その理由の一端がこの映画でわかった気がする。
1960年代の時点で、ドイツは自国の戦争犯罪人を自らの手で裁いていた。
日本では先の戦争で戦犯とされた者たちは神社で祀られている。その違い。
ドイツ人は、自分の親を時に「犯罪者」として断罪したのだ。
そこには当然ながら反発もあったことがこの映画の中でも描かれている。
みんなあの戦争のことについては忘れたいのだ、なぜ掘り返すのか、と。
その激しい葛藤を経ての現在なのだということ。
加害者は自分の罪を忘れたがり、そして実際に忘れ去るが、被害者はそうではない。
その怒りと無念の想いは子々孫々まで受け継がれる。
僕たちが今直面している問題は、ちょうどこの映画でドイツ人たちが自分たちに都合の悪いことはとっとと忘れてしまおうとしていたように、前の世代が自らの罪に対する精算をうやむやにしてきたツケなのだ。
よく「旧日本軍とナチス・ドイツは別物だし事情も異なるから同じように考えるのは間違い」と主張する人々がいるが、そうだろうか。
しかし加害者の事情など被害者にとっては関係ない。
自分や先祖が酷い仕打ちを受けた人々にとって、罪を犯した者たちが反省もせず挙げ句の果てには戦前戦中の自国の行為を正当化したり美化することが許せるはずがない。
ドイツは一度、ある時点で自国の身内を断罪し、現在と過去を分断したのだ。あの時代のあの行為は過ちだった、私たちは間違っていた、と。
それを認めることは勇気のいることだし、とても辛いことだ。
僕の父親や祖父たちが直接戦場で残虐行為を働いたわけでもないのに、なぜ責められなければならないのか。どうして反省しなければならないのか。
その答えがこの映画で描かれている。
愛する生まれ故郷が残したけっして消えることのない大罪。
非常時だったからしかたなかったんだ、では済まされない。
政府が、政治家が、軍人が、権力者たちが暴走しそうになっている時に沈黙を続けて彼らに追従するのは共犯者になるのと同じなのだ。
“ドイツ”を象徴するような存在であるヨハンの決断とは、尊敬していた「父」、すなわち愛する我が国の恥を晒して罰することだった。
僕たちにそれができるだろうか。二度と同じ過ちを繰り返さないために。
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