マリー・アマシュケリ監督、ルイーズ・モーロワ=パンザニ、イルサ・モレノ・ゼーゴ、アルノー・ルボチーニ(父・アルノー)、アブナラ・ゴメス・ヴァレーラ(ナンダ)、フレディ・ゴメス・タヴァレス(セザール)、ドミンゴス・ボルゼス・アルメイダ(ヨアキン)ほか出演の『クレオの夏休み』。2023年作品。

 

父親(アルノー・ルボチーニ)とパリで暮らす6歳のクレオ(ルイーズ・モーロワ=パンザニ)は、いつもそばにいてくれるナニー(乳母)のグロリア(イルサ・モレノ・ゼーゴ)が世界中の誰よりも大好き。お互いに本当の母娘のように想いあっていた2人だったが、ある日、グロリアは遠く離れた故郷へ帰ることに。突然の別れに戸惑うクレオを、グロリアは自身の子供たちと住むアフリカの家へ招待する。そして夏休み、クレオは再会できる喜びを胸に、ひとり海を渡り彼女のもとへ旅立つ…。(公式サイトより引用)

 

内容について書いていますので、これからご覧になるかたは鑑賞後にお読みください。

 

予告篇を観て、女の子のひと夏の美しい想い出を綴った映画だと思っていましたが、ちょっとせつなくなる後味の作品でした。

 

監督のマリー・アマシュケリさんは、2014年に共同監督した長篇初監督作品『Party Girl』が2014年カンヌ国際映画祭の「ある視点」部門でカメラ・ドール(新人監督へ贈られる賞)を受賞、そして本作品が単独での長篇映画初監督作品。またプロデューサーのベネディクト・クーヴルールさんは、これまでにセリーヌ・シアマ監督の映画を手掛けた人のようで。

 

映画はスタンダードサイズで、キャメラはほとんどが接写。主人公のクレオをはじめ、登場人物たちの顔を間近で映す。引きの画は、空港や海辺、グロリアの娘・ナンダ(アブナラ・ゴメス・ヴァレーラ)の出産のお祝いの場面など、たまにちょっと挟まれるだけで、それがドキュメンタリータッチのようでもあり、またクレオの視線に近い表現になっている。

 

 

 

 

 

 

時折、まだ赤ん坊だった頃のクレオの様子や、海に飛び込んだ彼女の様子、そしてクレオが見た夢などが絵画のようなアニメーションによって描かれている。

 

 

 

 

アニメといえば、同じフランスの作品で『リンダはチキンがたべたい!』があったし、今年は子役、それもほぼ女の子たちの演技に圧倒される作品が多いんですが、この映画もそうで、主演のルイーズ・モーロワ=パンザニちゃんは撮影時にはわずか5歳半(2024年現在は8歳)で、公園で遊んでいるのをスカウトされたのだとか。

 

ちょっとポール・ジアマッティ似のユーモラスなお顔で、演技はそれまで未経験ながらプロデューサーの目に留まったのもうなずける見事な表現力でした。

 

特に顔、さらには目の繊細な表情は「演技」に見えないほど。ナニーのグロリアを恋しがったり、なき母親のことを想って泣く場面では、それこそまるでドキュメンタリーを観ていると錯覚しそうになるほど。

 

 

 

 

僕はこの監督さんはてっきりドキュメンタリー畑出身のかたなのだと思っていたのだけれど、公式サイトにも特にそのような説明はなかった。

 

グロリア役のイルサ・モレノ・ゼーゴさんもどうやら本職の俳優ではなくて、監督が本作品のリサーチ中にナニーの人たちと会ううちに出会った人なのだそうで、彼女がアフリカの島国カーボベルデの出身だったために、映画の中で描かれるグロリアの故郷もそこになったとのこと。

 

つまり、劇中で彼女たちが話していた言葉はポルトガル語で(亀は“タルタルーガ”)、彼らがキリスト教を信奉しているのはそこが以前はポルトガルの植民地だったからなんですね。

 

その辺の詳しいことは映画の中では説明されないし、僕は劇場パンフレットは買っていないので、鑑賞後に公式サイトの解説で知ったんですが。

 

グロリアがフランスでナニーをしていた理由はよくわからなかったけれど、故郷に娘や息子がいる状態で離ればなれで働いていたわけだから、出稼ぎということなんでしょう。

 

彼女は故郷にホテルを建てようとしていたから、その資金を貯めるためだったのかな。

 

グロリアの実家にやってきたクレオに彼女が見せる家族との記念写真は、きっとイルサ・モレノ・ゼーゴさんご本人の私物なんでしょうね。

 

アニメーションによる回想シーンで、クレオはまだ赤ちゃんの時に母親を癌で失くしていて、それからグロリアにまるで娘のように育てられてきたことがわかる。

 

 

 

ドキュメンタリーと錯覚する、と書いたように、ほんとにクレオという少女がグロリアというナニーとずっと一緒に暮らしてきたように見えるし、グロリアの娘や息子も本物の家族のように見える。ほんとに演出がお見事だったな、と。

 

この映画は、幼い女の子がナニーの故郷を訪れて楽しい夏休みを過ごす話かと思いきや、自分にとって大切な存在が自分だけじゃなくて他の誰かにとっても大切だということを知るというお話で、誰にでも訪れる「別れ」を他の人たちよりも早く経験する少女の物語でした。

 

母親が亡くなったために帰郷したグロリアは、子どもたちの世話(赤ちゃんを出産したばかりの長女のナンダも母の助けが大いに必要な様子だし、息子のセザールもまだ少年だからやはりほっとくわけにはいかないだろう)をするためもあって赤ちゃんの頃からお世話してきたクレオとお別れすることになる。

 

クレオは自分のためにグロリアが唄ってくれていた子守唄を、生まれたばかりの彼女の孫にも唄っているのを聴いて嫉妬する。

 

そのうえ、「悪魔」に赤ちゃんを殺してくれるように祈りさえする。グロリアを独り占めするために。

 

幼い子どもが赤ちゃんの死を願うというのが個人的に結構ショッキングだったんですが、これは身内の「死」を経験したり、そこから「命」というものをあらためて学ぶ少女の目を通して、小さな命がどれほど非力でか弱い存在なのかを言葉で説明するのではなくて実際の人の姿によって描いたものなんだな。

 

 

 

 

泣き続ける赤ちゃんに苛立って思わず乱暴してしまいそうになってグロリアに咎められ、走り去ってセザール(フレディ・ゴメス・タヴァレス)ら年上の男の子たちがいつも飛び込んで遊んでいる崖の上から自分も海に飛び込んでしまうクレオ。

 

彼女の命もまた、何かの拍子に失われてしまうかもしれない危うさの中でかろうじて保たれている。

 

セザールはセザールで、何年も母親と離れて暮らしてきたことでクレオに反感を持っていたり、母親に反抗的な態度を見せたりと、そのあたりの子どもの心情もリアルでした。

 

この映画は、(おそらく)マリー・アマシュケリ監督のナニーだった女性に捧げられています。

 

乳母の想い出を描いた映画というと、アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA/ローマ』を思い出しますが(あちらは“家政婦”だったけど仕事は乳母に近かったし、たまたまだけど、その女性の名前はクレオでした)、乳母や家政婦と、彼女たちに世話してもらう家族の子どもたち、という関係は、どうしてもかつての植民地支配の歴史と重なるものがあって、それが「格差」という形で今も残っている。

 

 

グロリア自身はフランスに移民してきた人でもなければクレオの父アルノーとの間に何か身分差のようなものがあるわけでもないけれど、彼女の故郷(それはつまり演じているイルサ・モレノ・ゼーゴさんの故郷、ということでもあるが)カーボベルデはポルトガルをはじめとする西欧諸国のかつての植民地支配の影響下にあるのは間違いないのだから、単に優しかったナニーとの美しい想い出、というだけではない、現実の問題が横たわっている。

 

だって、逆のパターンはないでしょう、フランス人がカーボベルデで現地の人のナニーを務めるなんてことは。

 

「別れ」を描いた物語には無条件で心が揺さぶられるんですが、たとえ別れることになっても大切な人は大切な人のままだし、互いに生きていれば、もしかしたらまた再会できる日が来るかもしれない。

 

別れを惜しんで流せる涙は、それ自体がとても尊いものだ。

 

残酷だったり、戦争や災害、事件などあまりにつらい別れはできれば避けたいけれど、でも大切な人との「別れ」そのものは誰にでもある。早いか遅いかだけの違いで。

 

その寂しさや悲しみを忘れられなくて突然たまらなくなる瞬間もある。

 

それでも、この世界は生きるに値すると感じたい。

 

今、パリではオリンピックをやってますが、華やかなスポーツの祭典の陰で、小さな命が懸命に生きている──どんな命もその誕生を祝福されて、その人生が尊重される社会であってほしい、と思いました。

 

 

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