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小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」

「ガード下学会」「横丁・小径学会」活動の報告および、予定などをお知らせします。

京成電鉄、消えたガード下第2弾。

西日暮里付近から京成三河島方面。

ガード下の残像とういか、残り香というか……。

ケタ下にのこる部屋の間仕切りはまるでモンドリアン!

「堂食米南」の看板はどんな料理店だった?

風化グラフィックがガード下につまる思い出を訴えかけているように思えてなりません。

“モノ”が残っていると、その“モノ”を通じて、さまざまな思いがよみがえってきそう!

まちは地層のように時代が幾重にも重なってできています。まるで、パソコンのグラフィックソフトのようですが、パソコンと違うところは、レイヤーにところどころほころびがあるところ。そこに、新たな時代が被さらない生命力と堅牢さを感じます。

とはいえ、これらの風化グラフィックも消え去るのかも……。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-京成ガード下のモンドリアン


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-京成ガード下「堂食米南」

今夜のNHKラジオ深夜便に出演します。登場時間は、明日朝、午前405分~45分頃まで。コーナーは[明日への言葉]。「ガード下の庶民の人生」というタイトルでの話です。



小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-JR総武線「浅草橋」の巨大なキャンティレバー



消えていった建築は、建築雑誌に載るような著名な建物だけではありません。普段、ボクたちが立ち寄る喫茶店やラーメン店、画廊など、建築雑誌とは無縁だった建築物も消えていっています。

今日、紹介するのはその一つ。京成線のガード下で都内最後の一軒として残っていた西日暮里のラーメン店です。

ラーメン店自体は創業40年、ということでしたので、千代田線が敷設され、JR山手線にも千代田線に連絡する西日暮里駅が誕生し、この付近が商業地化された際、京成のガード下に出店したものと考えられますが、隣は鉄橋。電車が通過するたび、グォーッという轟音とともに、振動が伝わり、ガタゴトガタゴト――と鉄橋の上を通過する騒音で客同士の話し声が消えるラーメン店でした。

これは、まさにガード下のイメージそのものですが、でも意外とこうした店はすくないもの。なぜかというと、鉄筋コンクリートで架けられた橋の隣だとこれほど騒音はしないものだからです。

このガード下らしいガード下のラーメン店も去年の秋、撤退し、京成のガード下は今、耐震補強が進められています。あのオジサン、補強後に帰ってこられるのかな……。



小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-京成西日暮里付近のガード下ラーメン店

昨日、帰り間際に電話があり、「NHKからだよ」とのこと。「ラジオ深夜便」の話かと思い、何かあった? なんぞと思いながらも受話器を耳にあてると、初めての声。「首都圏スペシャル」とのこと。こちらはテレビ? いずれにしても「ガード下」での話でした。今年は、「ガード下」ネタが多いです!

と、こんなことを思い出し、いまふと、来週のラジオ深夜便の放送日をHNKのホームページで確認したら、また1日ずれていました。

よく判っていない、ボクが悪いんですけど。

ある大学のオープン講座で小塚っ原から千住大橋を通り、北千住まで歩いたときの話。なぜかこの日は参加者が極少。“小塚っ原”や“千住大橋”という言葉から、イメージが広がらなかったようです。例えば、小塚っ原という地名から、どんなところだったのだろう、という疑問が膨らんだり、地図をみて、これなら吉原から歩いてすぐ。なら、投げ込みでらがあった筈、とか、千住大橋なら芭蕉の矢立初めの地、と同時に千住のやっちゃ場とその街並み、千住宿です。その旧日光街道沿いのすぐそばには森鴎外の病院――と、思いを馳せる知識欲が刺激される世界なんですが。
とはいえ、実際に集まって歩いてみると、楽しい遊歩。やっちゃ場の跡では、「ここは、青果店。ここは乾物。ここは水菓子屋さん!」など、各家の前に掲げられた木製の看板(職種と屋号が書き込まれています)をみながら、見知らぬ古き時代をみな楽しんでいました。
で、最終地点、北千住駅の駅前を通過する際(当日は江戸ネタで集まったんですが)、参加者は路地につぐ路地とクネクネの路地、ラビリンスに皆興奮!
路地の魅力の大きさとともに、路地は見通しのいいところより、折れ曲がった路地のほうがより魅力的なことも判りました。(色街では、後から来た人にどこの店に入ったか判らないように曲がり角の幅員を狭くしているところもあるくらいです)
今日の写真は、北千住駅前のラビリンスな路地と、通り抜け空間です。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北千住駅前の横丁群


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-北千住駅付近/みんなの通り抜けビル

浅草寺雷門前の雷門通り越しの路上に都電の停留所が未だに残っています。
この都電の路線名は蔵前線。浅草雷門から駒形二丁目を通り蔵前、浅草橋駅前、浅草橋へと続いていまし

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-チンチン電車/雷門停留所跡


た。ところが、自動車の交通量が増加した高度経済成長期の1967年、雷門―駒形二丁目間が「自動車交通の邪魔」、と邪険にされながら廃止。4年後の’71年にはなんと蔵前線の全線が廃止にされてしまいました。
とはいえ、道路中央部分にしっかりとコンクリート打ちを行い、物理的に自動車が進入できないように準専用軌道にしたセンターリザベーションは未だ健在。チンチン電車は廃止になったものの、破壊されずに当時の姿を留めています。
まさに、明治の面影を残すセンターリザベーション!

ガード下学会で訪ねたJR鶴見線「国道駅」は、とにかくショッキング!
まず、ホームから階段を経て改札口までほぼ真っ直ぐに出ますが、そのホームの高さが建物でいえば3階建てくらい(折れ階段になっていない分、さらに高さを意識させられます)。それを途中の小さな踊り場に立って、駅舎内を眺めると背の高いアーチ空間。この巨大なアーチ空間を僅かな明かりがほんのりと照らします。まるで映画の一シーンのよう。しかも、この踊り場からも改札口までかなりの距離。まるで、ギターを持った小林旭のようになった気分。降り立った先にはエースのジョーが待っていてくれる錯覚に陥る。国道駅では誰もが日活の大スター気分になれる!
この京浜工業地帯の入口にあたる国道駅は1971年に大きな二つのターニングポイントを迎え、現在に至っています。
一つは、漁業権の放棄。もう一つは駅舎の無人化。
漁業権の放棄というのは、この地は江戸時代からの漁師の町ですが、高度経済成長を支える京浜工業地帯、つまり海を埋め立てて工業地帯を広げるため、1971年、漁師にお金を払い漁業権を放棄してもらいました。国道駅前から生麦の魚河岸が300mほど続くのですが、以降衰退の一途を辿ってしまっています。
もう一方、駅舎の無人化は、さらなる生産性向上を目指すため、駅舎の合理化を図ったものです。世界から「エコノミックアニマル」と揶揄された頃、これも1971年のことです。
駅はまちの顔。その駅舎が無人化され、廃墟のような駅となってしまったのでした。
でも、この廃墟感、そして昭和レトロが魅力となり、映画等の撮影にもよく使われているそうです。

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-ゆったりとした時間が流れるJR鶴見線「国道駅」


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-アーチが素敵な「国道駅」駅舎内

もう何年ほどになるだろうか。仕事帰りのいっぱい、というのが座って飲む赤提灯から立ったままのむ立ち飲みに変わってしまった。

立ち飲みに変わった理由はただ一つ。「安いから」。当初は、「3回を1回にすれば今までの店に行けるじゃない!」と同僚に諭されたものだが、その同僚ももはや角打ち一辺倒である。

最初に立ち寄ったのは、何年前だろうか、上野の丸井?(かつての京成デパートの裏)。間口は2間ほど? 引き戸などの仕切りはなく、開けっ放しで、中を覗くと4050cmほどの丸いーブルがあちこちに置かれ、それを客が取り巻く。皆、立ち飲み、立ち喰いだ。

外から見ると、中は開放的。誰でも気やすく入れる雰囲気。実際、入ってみると、金と食べ物は物々交換だから、飲んだ末、金が足りなかったということもない。しかも、食べ物、飲み物ともに納得の料金と味。

以来、立ち飲みファンになったのだが、ガード下学会で、遊歩していても、立ち飲みが気になる。基本的にガード下学会は土曜日か日曜日、午後1時に駅前に集合し、日が暮れる4時頃から(今の季節はなかなか日が暮れませんが)一献傾けるので、3時間歩きっぱなし。誰しも座って飲みたい! というのが実情。そのため、ガード下学会で立ち飲みに入ることはないのだが、先日の赤羽では、駅前のアーケードの中で立ち飲みと化したおでん屋さんを発見。名称は丸健水産。酒は近所の酒屋や自動販売機から調達して、丸健水産でおでんを買い求め、店先で飲む、というシステムらしい。

写真は赤羽の丸健水産。ガード下学会でスタートした直後(なぜか、ガード下から離れています)なので、午後1時か2時頃の風景です。
小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-赤羽・丸健水産/おでん屋に酒を持ち込んで飲む

200910月、最後の雄姿を見ようと東日暮里の「同潤会三ノ輪アパート」を訪ねるものの、間一髪で解体工事が始まっていた、という苦い経験をしました。

写真はそのときのものです。
小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-同潤会三ノ輪アパート

近代建築の原稿を書いているとき、一番気になるのが建物の存在。雑誌なら取材して原稿を書き、すぐ出版、という流れなので、そんな不安感はあり得ませんが、書籍となると取材、原稿書きから出版までそれなりに月日がかかります。そこで生まれるのが「あの建物大丈夫かな?」という不安感。校正ゲラも出た段階で、大丈夫か、と現地に赴くと建物がなかった、ということはざら。もちろん、それなりの情報はあるのですが、出版されたとき、建物がなかったでは済まされません。

そこで、いっそのこと没になってしまった建物、つまり今では消え去った建物を紹介したらどうだろうか、そんなことを考えました。

まず、第一回目は銀座にあった「瀧山町ビル」。外装材にスクラッチタイルを使用しているところから、資料にあたらなくとも昭和初期の建物、と推測できるたてもので、実際、竣工は関東大震災後の昭和3年。ネオ・ルネサンス様式の建築物に当時流行のアールデコ調のテラコッタ装飾が飾られというほどデコではないのだけれども、縦に伸びるテラコッタ装飾が横に広がるビルの広がりを改めて力強く印象付けさせられます。昭和名建築の一つ。惜

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-失われた瀧山町ビル


しいビルをなくしました! 2010年、解体され、雑居ビルとしてのさまざまな想い出とともに消し去られてしまいました。