小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」 -33ページ目

小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」

「ガード下学会」「横丁・小径学会」活動の報告および、予定などをお知らせします。

単なる田舎じゃない! 柴又にも文化財があったゾー!

今年も東京都の文化財ウィークが始まります。ということで、小冊子を眺めていたら、「東京下町に築かれた前方後円墳――柴又八幡神社古墳――」なんぞというのが掲載されていました。たしか、八幡さまの奥、京成線と隣の保育園に近い側にこんもりとした裸の盛り土がありました。かつては、登ったり降りたり(子どもだからできました。大人になったら、そんな意味のないことなど繰り返しませんね)して遊んでいました。きっと、人の背丈ほどのそのこんもりとした山のことだと思います。

この話、高校生ぐらいになると〝古墳らしい〟という話を何となく聞いたような。大人になると、明らかに築山ではなく、土砂を捨てて、そのまま放置したところ、というような認識でしたが、なんと古墳でした。

いやはや、柴又にも文化財なんぞというものがありました。単なる田舎というだけ(帝釈さんだけは昔からあって、昭和の30年代までは賑やかで、庚申の日には人混みで歩けないほどでしたが……)じゃなかったんですよ~。

東京大空襲と勲章!
東京大空襲・戦災資料センターに行ってきました。
一般的に東京大空襲というと昭和20年の3月10日。でも、わが家では3月9日になると「今日は東京大空襲の日だ」と東京大空襲の話がはじまります。世間と一日ずれているんですが、戦災資料センターに行ってみると、3月9日が話題になっていました。
この一日の差は、9日の夜、ナパーム弾を絨毯爆撃されたため、住民の意識としては9日となりますが、公式記録としては、日付が変わった午前0時7分から爆撃が始まったため、新聞やテレビでは10日とされています。
で、この爆撃、「朝までずっと続いて……」と聞かされてきたんですが、これも公式記録では、0時7分から2時間半低空飛行で爆撃し、すぐに帰って行ったということでした。住民意識と記録との間に大きな開きがありますが、爆撃は終わってもそのあと、都内がずっと火の海になったからでしょう。これだけの火の海になるとポンプ車も機能しなかったそうです。これは、火が燃えるために空気中の酸素が使われ、地上から酸素がなくなってしまうから(元消防士の談)だそうです。
爆撃は、もっとも人口密度が高かった隅田川と荒川放水路(人が掘ったため、今の荒川は放水路と呼んでいました。戦災資料センターでもやはり放水路、と呼んでいました)の間。旧本所と深川地域が中心です。
ただ、わが家では、この東京大空襲、ほとんど話が広がりませんでした。東京大空襲の話が出ると、祖母が「いや~、ハルちゃん(ボクの母親の名)、9日よりも、震災の方が怖かったよ。大空襲なんて来るの判ってたんだから」と一蹴。話は関東大震災の話へと変えられてしまいました。
関東大震災となると、これはボクの母親が生まれる前の話。母親としては比較のしようがありません。
で、実際どちらが恐ろしいかというと、どちらもほぼ数時間で10万人の人々が亡くなっています。ただ、東京大空襲のほうが、範囲が狭かったため(震災は神奈川が震源地。それが東京にまで被害が広がった[火災による])、そこかしこに炭状の死体が転がり、火災による強風で、腕が飛んでなくなったり、足がなくなったり。土左衛門も揚げるとどこからともなくわき上がり川が見えなくなる――という過密な死体状況が続いたそうです。
わが家で言えば、祖母は本所の横川橋。現在は墨田区横川に町名変更されていますが、この地域、町人口の2/3の方たちは死亡したという記録が残っているそうです。
一方、母親は川の手前の神田の駅前のオジサンの家にいたそうです。もちろん、嫁入り前。3月10日は陸軍記念日なので、大きな空襲があるという噂があり、横山大観などは9日中に郊外の世田谷(その頃は郡部)に避難して九死に一生を得たくらい、逃げなきゃならなかったのになんとものんびりした話ですが、でも本所側よりも多少はよかったはず。ところが、被害がもっとも大きかった本所側に住んでいたのに戦災よりも震災の方が恐ろしかったという。震災は心の準備なしに不意に起きたからなのでしょう。
この震災と戦災の話、震災と戦災を経験した祖母は戦後復興をなしたとげた東京オリンピックの年に亡くなりました。この年、日本政府は、東京大空襲を計画し、指揮した米軍少将(最終的にルメイは大将にまでのぼりつめています)に勲一等旭日大綬章が授与していました。


東京大空襲・戦災資料センター

今日は、昼から砂町の「東京大空襲・戦災資料センター」に行ってきます。
これは、「ライオン看板」の原稿を書くため。
震災復興と戦災復興。震災復興はきちんとできたのに戦災復興は野放し状態で今日まできてしまった、というイメージをもたれている方も多くいらっしゃるかと思いますが、そのへんのことが探れればいいんですが。
                 *
今年の12月は、友人の13回忌。まあ、つい数年前亡くなった絵描きの貝原浩(周囲に〝画伯と呼べ〟と言っていました。みんなから愛され、没後は小室等さんが追悼コンサートを開いてくれました)がもうまる8年経つそうだから、50歳の誕生日を数日前に逝ってしまった友人が10年以上経つのは当たり前かも知れません。
おッ母さんから法事をやりたい旨、連絡を受け、周囲に連絡を取っていますが、なんとも厳しい! かつては、いつでも会え、心意気がひとつになれたんですけどね……。

どぶ川の上に鉄塔だって?!

昨日、我孫子の町を歩いていたら、こんなものに出会いました。

どぶ川(といっても、今の時代ですから、メタンガスがボコボコあふれ出る、といった昭和三十年代のものとは違い、きわめて綺麗な水が流れていました)、の上に鉄塔が建っていました。で、それを写真に撮ろうとすると、鉄塔の股の間、川の遙か先にも川の上に鉄塔が建っているのが見えました。うん? どぶ川沿いに延々と続く高圧電流の鉄塔。これなら、民家の邪魔にならない? とはいえ、まあ、なんとも不思議な光景に出会いました。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」

相変わらず、タテ位置の写真が縦にならず、横になってしまい、修正できません。首を横に曲げてご覧ください。

最後の早明戦


夕べ、マスコミクラブから〝現・国立競技場〟最後の早明戦への応援企画が送られてきました。「2020年 東京オリンピック」開催のため、メインスタジアムとなる国立競技場を建て替えるため、現在の国立競技場での早明戦は今回で最後、ということだそうです。


今まで、小生と何十年と見に行き続けた仲間は、節目となるイベントが大好き。学生時代には巨人の長島の引退試合までつきあわさせられました。ラグビーはどちらが勝とうが負けようが、互いに納得いく試合をしてくれればいいし、それによって、こちらも元気づけられるんですが、勝つと機嫌よくステップを踏みながら飲み屋に直行するんですが、それが負ける一転うなだれて、必ず「ボク帰る」と言い始め、それを説き伏せ飲み屋に行く、というのを40年近く繰り返しました。国家公務員になったんですが、まったく、学習をしない友だちです。それが、いまは、ただ、寝て、呼吸をしているだけ。植物人間状態に入ってからすでに一年になります。残った者のひとりも車椅子の生活。あとに残されたボクらだけでも見に行き、「ほら起きろよ! いつまで寝てんじゃねーぞ! 家族が心配してるじゃないか!」ってどやしつけてやりたいけど、今のボクには友だちをどやす強い精神力がありません。目の前にすると、優しくなっちゃいます。「おい最後の早明戦だぞ! 起きろよ!」、お前だけ、おいてっちゃうぞ!


次回の横丁・小径学会、「三ノ輪ラビリンス」に変更です!

次回の「横丁・小径学会」は、「神楽坂」を予定していましたが、その頃、ボクらの仲間が神楽坂のNPO法人が開催する講座に講師として招かれているとのことで、遊歩先を変更することにいたしました。

前回の遊歩の際、「折角、神楽坂のことを下調べしていたのに延期になってしまって残念でした」(参加者の方、本当によく下調べして参加してくださる方がいらっしゃり、敬服させられます)という声が挙がってしまいました。次回もまたまた延期?! という声が挙がるのは必至でしょうが、あちらは有料、こちらは無料。で、たとえ多少ずらしてみてもほぼ同時期に開催、となると営業妨害になってしまうので、ボクらの方が移動させました。

諸事情で変わってすみません!

次回の候補は「三ノ輪」ラビリンス。この三ノ輪の路地は感動ものです。江戸時代の武家地が明治維新を経て上知で土地を失ったあと、どのように再開発されたか、というのが三ノ輪の見どころ。チンチン電車も魅力。現地で知りたいのは、戦災に遭ったのかどうかです。

チェルノブイリから8000キロ?
毎日の通勤ルートで三ノ輪を通ります。そこで、最近気になる標識が出現(前からあった?)。気になるというのは、ロシア語で表記されて(しかも、ボクにでも瞬間読めるような単語)います。
書かれているのはロシアの地名で、「キエフ」。ボクにとっては〝森と湖の都〟キエフです。
ところが、もはやこの単語、〝死語〟。キエフは消え、「チェルノブイリ」というボキャブラリーに取って代わられました。
でも、森と湖のキエフは生きている、存在し続けている、そんな訴えが聞こえてくる気がしました。
なんて、ことを考えましたが、この標識どういう意味があるんだろう。歯医者さんの宣伝のようですが……。


小林一郎と歩く「ガード下」と「横丁」-三ノ輪のキエフ


*相変わらず、タテ位置の写真がヨコになりません。首を曲げてご覧ください。

振り袖火事・本郷丸山ルート

今日はこれから、世界二大大火に数えられる「振り袖火事(明暦の大火)」のなかでの初日の本郷丸山ルートの一部分を歩いてきます(仕事が詰まっているので、こっそり)。

鉄砲洲まではとても歩ける時間はないので、とにかく、行けるところまで行って、事務所にすぐ帰ってきます。(なんともいいわけがましい。これも、仕事なんですが……)

明日、「横丁・小径学会」四谷荒木町遊歩 を行います!

開催日:921日(土)

ナビゲーター:望月七郎

集合場所:東京メトロ丸の内線「四谷三丁目駅」改札口前4番出口付近

  時間:午後3

*参加費無料です。

ご興味のある方、横丁・小径学会のホームページ

http://yokochogakkai2012.jimdo.com/ )をごらんください。

今日の湿度は四十数パーセント 空に雲も出てきた

今朝、保存維持されているある新数寄屋造りを訪ねました。その際、ちょっと気になるこがあって、ボランティアさんに確認したところ(今日は団体さんが二組も来る、ということでボランティアの方もたくさん集まっていました)、一笑に付され、馬鹿にされただけで終わってしまいました。

まず、ひとつ、どんな方に対しても観覧者を見下(みくだ)してはいけませんね~。それと、わからないことは「わかりません」とこたえて欲しいですね~。