東京大空襲と勲章!
東京大空襲・戦災資料センターに行ってきました。
一般的に東京大空襲というと昭和20年の3月10日。でも、わが家では3月9日になると「今日は東京大空襲の日だ」と東京大空襲の話がはじまります。世間と一日ずれているんですが、戦災資料センターに行ってみると、3月9日が話題になっていました。
この一日の差は、9日の夜、ナパーム弾を絨毯爆撃されたため、住民の意識としては9日となりますが、公式記録としては、日付が変わった午前0時7分から爆撃が始まったため、新聞やテレビでは10日とされています。
で、この爆撃、「朝までずっと続いて……」と聞かされてきたんですが、これも公式記録では、0時7分から2時間半低空飛行で爆撃し、すぐに帰って行ったということでした。住民意識と記録との間に大きな開きがありますが、爆撃は終わってもそのあと、都内がずっと火の海になったからでしょう。これだけの火の海になるとポンプ車も機能しなかったそうです。これは、火が燃えるために空気中の酸素が使われ、地上から酸素がなくなってしまうから(元消防士の談)だそうです。
爆撃は、もっとも人口密度が高かった隅田川と荒川放水路(人が掘ったため、今の荒川は放水路と呼んでいました。戦災資料センターでもやはり放水路、と呼んでいました)の間。旧本所と深川地域が中心です。
ただ、わが家では、この東京大空襲、ほとんど話が広がりませんでした。東京大空襲の話が出ると、祖母が「いや~、ハルちゃん(ボクの母親の名)、9日よりも、震災の方が怖かったよ。大空襲なんて来るの判ってたんだから」と一蹴。話は関東大震災の話へと変えられてしまいました。
関東大震災となると、これはボクの母親が生まれる前の話。母親としては比較のしようがありません。
で、実際どちらが恐ろしいかというと、どちらもほぼ数時間で10万人の人々が亡くなっています。ただ、東京大空襲のほうが、範囲が狭かったため(震災は神奈川が震源地。それが東京にまで被害が広がった[火災による])、そこかしこに炭状の死体が転がり、火災による強風で、腕が飛んでなくなったり、足がなくなったり。土左衛門も揚げるとどこからともなくわき上がり川が見えなくなる――という過密な死体状況が続いたそうです。
わが家で言えば、祖母は本所の横川橋。現在は墨田区横川に町名変更されていますが、この地域、町人口の2/3の方たちは死亡したという記録が残っているそうです。
一方、母親は川の手前の神田の駅前のオジサンの家にいたそうです。もちろん、嫁入り前。3月10日は陸軍記念日なので、大きな空襲があるという噂があり、横山大観などは9日中に郊外の世田谷(その頃は郡部)に避難して九死に一生を得たくらい、逃げなきゃならなかったのになんとものんびりした話ですが、でも本所側よりも多少はよかったはず。ところが、被害がもっとも大きかった本所側に住んでいたのに戦災よりも震災の方が恐ろしかったという。震災は心の準備なしに不意に起きたからなのでしょう。
この震災と戦災の話、震災と戦災を経験した祖母は戦後復興をなしたとげた東京オリンピックの年に亡くなりました。この年、日本政府は、東京大空襲を計画し、指揮した米軍少将(最終的にルメイは大将にまでのぼりつめています)に勲一等旭日大綬章が授与していました。