仮庵の祭りが始まる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

今日10月6日、月曜日の日没から7日間の仮庵の祭り、

そして、最後の第8日目の日の祝いまで8日間、

イスラエルの神が創造されたアポイントメントの日、モアデイム、これは3つの都上りの祭り最後の祭りです。

一年を締めくくる、最後の祭り。

仮庵も収穫祭です。3つの祭りは、全て収穫祭。

仮庵の祭りは、1年の全ての収穫が集められ、神の前に捧げられる。これは、イエシュアが来られて、神の子ら全ての人が集められることを、表しているものです。

 

トラーに記されたこと、そして、神のモアデイムを知り、祝うと

イエシュアが語られた意味、神が教えていることが、4Dとして

深く深く見えてきます。

 

1)過越の祭り 子羊の血の代価で購い出され

神のものとされた

2)シャヴオート 神のものとされた人が、神の家の家訓=婚姻契約をを与えられた。これは、婚約期間と同じです。

私たちは主に最終的に出逢うまでの間、見えない主を見るが如くにこの世の旅路を歩くからです。

それが、春から秋までの祭りの季節で表されています。

この時期は、雨が一滴もイスラエルでは降りません。

神に支えられ、養われ、荒野=神の声を聞いて生きる人生の

レッスン、訓練の旅路。

3)仮庵 花婿が迎えに来る。イエシュアが言われた通り、

天の家に部屋をたくさん用意して、迎えに来る!と言われたでしょう。再臨です!それが、仮庵で表されているのです。

仮の家に住う。この肉体も仮の小屋。朽ちない体がやがて与えられる。朽ちない体、固定的神殿で表されています。

そして、仮庵の中にイエシュアが住った。仮庵である私たち、

そしてイエシュアご自身も仮庵なのです。

永遠にイエシュアが統治される世界が来る。1000年王国と言うならば、そのリハーサルを今地上でずっとするように、神の子らは、神に教えられているのです。

 

残念ながら、異邦人の世界に伝わったのは、純粋な神のオリジナルの教え、言葉、生粋の福音ではありませんでした。

 

神の教えを堂々と否定し、捨てよ!と言う勅令を出したのは

ローマ帝国皇帝です。コンスタンチヌスがやらかした仕業は

永遠に神の前にNO を突きつけられるものなのです。

 

救いの岩、イエシュアに繋がる。偽物の岩=砂、人間の教え

ローマ帝国が作った混ぜ物、異物です。

 

だから、異邦人は、神の教え、トラー、婚姻契約を生きることを知らないから、生きていない、神の創造された記念日を祝うことを知らないやらないのです。

それは、古く廃れた律法の悪い教え、悪い無用破棄された記念日だ!と教えられているからです。

しかも、考えたら分かる通り、聖書を読めば、そこに書いてあるのは、全ての人が、神のモアデイム、レビ記23章に記された

シャバット、新月、祭りしか祝った記録しかないのです。

 

コンスタンチヌスが作った、教え=神の教えは廃れた!とか、

コンスタンチヌスが作った異教神まみれの記念日は、聖書には

書いてないでしょう。

 

それらは偽情報なのです。進化論と同じカラクリで、偽情報が流され、それも、時のローマ帝国の勅令、権威者、支配者、政治が

神の教え、トラー、婚姻契約を生きることを、強制的に、完全に禁じたのです。

そして、自分たちに合う、新興宗教を代わりに編み出した!と言うのが本当の事実であり、そんなことを人間がしてはならない

語ったのです。その宗教を作った本当の理由は、ローマ帝国の

拡大と、完全なる支配の為です。

 

イエシュアは永遠の中に存在し、イエシュアはエデンの園の最初から居て、教えられているのです。

同じ福音、太古から語られた同じ福音、同じ神の教え=トラーしか聖書には書いてないのです。

 

仮庵は修復です。再臨であり、この世界が、神のオリジナルの

意図通りに修復されることです。

秋の祭りは、悔い改め、戻る、そして修復なのです。

全ての人が、本来の姿、生き方に戻る!イスラエルの神に戻る

そして、全ての人が1つとなる。

それは、外国人でも、顔も文化も違っても、同じイエシュア

イスラエルの神という共通の父の元に戻るからです。

1つです。

世界が目指すのは、偽物、神の教えに反した生き方を推奨し

人を1つにまとめる、グローバリズムですが、その1つのまとめ方は、聖書に完全に反しています。

 

未来は、全ての人が、頭脳に神のトラー、婚姻契約が刻まれて

神の意図通りの生き方をする!と預言されています。

イエシュアが再臨されたら、エルサレムに、イスラエルに敵対した国も、神のモアデイムのために、上ってくると預言されています。

このような箇所を、クリスチャンの教師は、寓話、比喩と勝手な

読み込みをしていますが、神が伝える未来預言の事実を認めていないだけです。

再臨を信じているならば、聖書に記されている事が事実です。

イエシュアが戻られたら、全ての人は偽物の教えから解放され、偽物の宗教、混ぜ物の宗教は神の宮には存在しなくなり、皆が神の言われたことを理解し、神のデザイン通りの麗しい生き方に戻る!それが、7で表されている全てであり、元の所有者、神の元に皆が戻る!と言うことを教えているものなのです。

 

イスラエルで祝えなくても、諸外国にいても、この時は、

神と、人と、家族と、仲間との喜び溢れる季節であり、修復の

季節です。

仲違いしていた人と、和解するチャンスの時でもあります。

 

マタイを読んでも気がつかないでしょう。

イエシュア、弟子達はガリラヤ湖に住んでいたのです。

都上りの時、春2回、過越、シャヴオート、秋、仮庵の祭り

その時にガリラヤ湖から、エルサレムに弟子達と旅したのです。だから、イエシュアと弟子が移動していたら、それは都上りの

祭りの時だと分かるのです。

祭り、イコール、祭壇にコルバンを捧げるのです。

それで下のように言っているのです。

 

マタイ5:23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、

兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、

そこで思い出したなら、

5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。

 

一週間ですよ。ガリラヤ湖から、エルサレム への徒歩の旅。

エルサレムに来たのに、又引き返して、そして、その兄弟と和解しなさい!と言っているのです。それほど重要!

それ無くして、神の前に出て、神との正しい関係など持てない

コルバンを捧げても、その意味が消えてしまう、それ程、和解が

重要である!と語っているのです。

 

神の前の礼拝、祈り、会話は、全てコルバンを通してであることを、聖書から知ってください。

コルバンは、傷のない動物、初穂の収穫物です。

その意味は、それが自分であると言うこと、イエシュアの血の

購いは永遠の中に完結済みです。

神により新しくされた人の事実を、先ずコルバンを通して、神と共に見る。だから、内臓も全部、祭壇の前に出して、完全に燃やすのです。

燃やす。火は、神が受け取り食べている!と言うことを表しているのです。祭壇にある火は、ミシュカンが稼働した、

レビ記16章にある、神ご自身が下した火なのです。人間の手で起こした火ではありません。

そして、新しくされている事実から、腹の中にあるもの全部神の前に差し出して、正しい裁判官に、色々と訴えるのです。

これが、祈りです。そして、裁判官が、伝える正しいことを、

一緒に聞いて、自分のずれたことを、裁判官である神が言われる通りに軌道修正する、それが礼拝の本質であり、祈りはこのように神の前にコルバンを通して、自分が変えられるプロセスのことをテフィラ、祈りとヘブライ語では書いてあるのです。

 

トラーを学ばない場合、空想で、自分の宗教体験や、ローマ教が教えた教えを通して考えてしまいますが、それはズレています。

なぜなら、聖書はヘブライの世界、ヘブライ思索で書かれており

神の家、ミシュカン、神殿で行われたこと、それはトラーに記されていますが、それを通して、神が様々なことを教えているからです。

私は、祈りとは、ごね押しのように教えられました。

執拗に祈れば、祈り勝ちができる!と。

それは、神の御心通りのことを、自分が神と同じ考えにぴったり合えばそうなるのです。

だから、山も動く!神のみ心ならば!と言う意味です。

 

祈りという言葉、聖書で語られている意味が、西洋宗教で教えることとは、本質が違うことは、トラーを学べば見えてくるのです。

聖書の最初の部分が、神の言葉の完全版です。そこに全てが

書かれています。マタイ以降は、本で言えば、後書きです。

だから、後書きには、神の教えの全てが書かれていないのです。後書きを、更に、人間の思想で神の教えは廃れた!という、

偽情報を通して読んでいれば、結局空想話のような解説ばかりが、編み出されてしまうのです。

イエシュアの購いの血で新しくされた、それは事実です。

でも、それは2000年前に始まったことではない、永遠の中に

既に完了!完結しているのです。エデンの園から同じ!

それが、シャバット、創造の6日で、全ての業が完了した!ということで、最初から教えられているのです。

後から、神が色々な代替え策、救助作、時代ごとに違う教えや方法を編み出したのではない。

黙示録にある通り、この世の礎が創造される前から屠られている

子羊!と書いてあるでしょう。

そして、神の子らも、この世の礎が造られる前から、選び取られていた!と書いてある。そして、神の性質、神の言葉、神の業は

永遠から永遠に変わらない!

その事実を繋げれば、最初から最後まで、神の性質、神の教え、救いの方法は、何も変わらないのです。

神は、人を時代ごとに、違う関わりをしているのではない。

なぜ?同じ、変わらない性質の神だからです。

聖書を曲げる、神の言葉を捨てる思想を土台にしているから

聖書に書いてあることが見えないままになるのです。

 

しかも、偽情報=神の教えが廃れた!という砂を土台にしているので、聖書を利用して、様々な思想、解釈が語られ続けているのです。

仮庵の祭りを、未来、全世界、全ての人が祝う!と教えられているのに今、今日、どれほどのクリスチャンがそれを知って、

イエシュアの再臨のリハーサル、婚姻の宴でもある、この祭りを祝う準備をしているのでしょう?

 

世界中で、今そのことに気がついたクリスチャンが、軌道修正し、神の教え、言葉を、神が言われた通り、聖書が語ることを

聖書が語る通りに生きることに戻る!ということを、しているのです。

イエシュアが再臨されるのが、近い!それが分かっているならば、どうして、イエシュアが言われた通り、油=婚姻契約に

しっかり根付いて、生きて再臨を準備する、神の教え、聖書に戻り生きる!という招きに戻らないのでしょうか?

眠った5人、トラーを捨てて、眠るとは、違うことを生きていることです。

その人達は、花婿が来て、初めて気が付き慌てふためく!

人に油を、分けてください!という頓珍漢なことを、願いでると書いてある意味を理解する人には、その意味がビンビン響いて

きます。

眠っている。神の教えに対して眠っている。

人間が作った宗教の教えには、目覚めて、その教えに熱心に聞き入るけれど、神の教えは廃れた!と主張する全ては、完全に

偽情報である!という事実に先ず気が付く必要があります。

 

神が伝える真理の中では、あれもあり、これもあり、それもありと深い発見につながり発展していきますが、嘘の教えの中では

嘘と真実はつながらない、接点がないので、広がっていきません。宗教の教えが広がるだけです。

だから、様々なムーブメントが出ては、廃れ、又別のムーブメントが出ては、廃れ、偽預言者が偽の教えをする、偽の教えに

振り回されるということの繰り返しがあるのですが、

神の言葉に根付いて生きる人は、落ち着いて生活できます。

落ち着くとは、何も問題がない!ということではなく、神の保護

支配、助けの中で、荒波でも吹き飛ばされないで、生きられる。

 

終わりの時代に、秘密裏の軽挙で消える!これは、逃避思考を

教える、聖書とは真逆な思想です。

患難の時代に、何と言われましたか?

 

黙示録3:10 忍耐についてのわたしの言葉=トラーをあなたが

守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、
全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。

 

イエシュアが到来される!そして、最初に祝われるのが、仮庵の祭りです。子羊の婚姻の宴。

人間が作った混ぜ物宗教、神の教え、神の聖日を根こそぎ捨てたものではなく、神が本当に呼び出している本物の聖日、神の

創造されたモアデイムに、あなたの招かれていること!

その招きの招待状を、コンスタンチヌスが剥奪した!という

事実に気がついてください。

神は、神の言葉に応答し、神の言われたことを受けとり、

それを生きる人を、必ず祝福し、特別な出会いを、この特別な

集まり、祭りでしてくださいます。

以前に載せた仮庵の祭りの祝い方に関しての記事です。

 

仮庵の祭りを迎える

イエシュアの中に住まう未来の預言的祭り 仮庵

 

神の創造された記念日は全てイエシュアとイエシュアの業が教えられている

 

イエシュアは神の記念日をめぐり福音を語られている

 

イエシュアの教えは命のサイクル モアデイムを通して教えられている

 

 

イエシュアの修復の業

 

 

 

 Chag Sukkout Sameach!