神の創造された記念日は全てイエシュアとイエシュアの業が教えられている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書=神の言葉だけに戻ろう!と聖書を掲げながら、真剣に

訴える人々。聖書は誤りのない、完全な神の言葉と主張しながら、同時に神の言葉のこの箇所は終わり、あの箇所は意味ない、

異邦人には関係ないと、人間の基準判断、自分の意見を述べている。人間が神の言葉を、神に成り替わり勝手に仕分けて、判定する事をしているのに、神の前にズレ=それが罪である事に全く気がついていないのです。聖書=神の言葉を捨てる、イコール神が伝える罪の詳細を理解していない、できない状態になるからです。神が人に伝える罪の全貌、詳細はモーセの五書にだけ完全版として記されているのに、その詳細を知らないのなら、その神の永遠の基準、教えが終わったという人には、罪でも何でもありの世界が訪れます。牧師がLGBTQを賛成する罪も、神が伝える罪を罪とも考えなくなってしまったから。

その大元の原因は、神の言葉は廃れた!と言う人の思想を取り入れて、神の言葉の方を捨てているからです。666のヘブライ語の文字の意味は、「捨て去る」という意味であり、神の言葉を捨てる事でもあるのです。

反キリストの特徴は、神の言葉、教え、神に敵対するもの。

それがサタンというヘブライ語の言葉の意味、定義だからです。

どうしてそんな非聖書的、神の伝える言葉に全く反することを

言いながら、その矛盾に、聖書の記述に照らし合わせても気が付かないのでしょうか?

それは、元の聖書に書いてある意味を理解していないからで

あり、神が伝える本物のイスラエルの神の実像〜聖書が伝えている事とは異なる、聖書には書いてないのに、あたかも書いてあると思い込んでいるからです。

聖書に書いてない事を、信じていること、実践している事に、

聖書の記述、事実に基づき気がつきませんか?

 

聖書のどこに、神のモアデイムとは違う、聖日=主の日が書いてあるのでしょうか?

聖書を調べたら、はっきりと真実、事実が分かります。

日曜礼拝、イースター、クリスマス、ハロウインそれら伝統で祝われいてる祭りは1つも、神の呼び出している記念日であるなどと、聖書には書いてないでしょう?

いや、それらの人造記念日祭りの名前さえ、聖書には出てこない。

それは、神の創造された記念日でもない、聖書に登場する人は、誰一人として、その記念日、礼拝日、祭りを知らない、2世紀以降に西洋人が作った宗教が作り出した祭り、記念日だからです。それが宗教文化の実践として根付いて今に至るのです。

聖書には書いてない!聖書が完全に閉じられた後、人間が作った記念日だから、聖書には書いてないのです!

人の思想を書いた書物を、聖なる経典〜聖書としている場合には、神が伝える永遠普遍の真実が見えなくなります。

こんなシンプルなことさえも、分からなくなるほど、人の思想の洗脳とは根深く強いものなのです。進化論と全く同じです。

では聖書に書いてある、神が人に伝えている神の呼び出し日、

聖日を知る必要があるのです。

 

本物、生粋、正真正銘、神が創造されて永遠に祝われるわたしの記念日と神が紹介している、一年の締めくくりのモアデイム、

秋の聖会、祭り、アポイントメントの日は、「再臨と未来にイエシュアが統治される世界」が来る預言的モアデイムなのです。

 
第七の月の15日、満月になる日が仮庵の祭りのスタートです。
申命記31:12 レビ記23:40
仮庵とは、仮の庵、仮の住まい、テンポラリー、一時的、仮に
住まう小屋です。
そして、神の記念日のどれも100%全て、神が神の子らが、
楽しみ喜びを体験する中で、神がどんなに良いお方であるかを
私達が知るために!と神が言ってくれているものです。
異邦人が言うところの、律法だ〜厳しくて古い教えだ〜その声はエデンのあの動物の声、あの動物から出ているものであり、イスラエルの神の声=本物の羊飼いの声ではありません!
おかしいでしょう?王の王、創造主に招かれて、そんなこと言うのは、変!その意識、どうかしてませんか?
人間の世界でも、王に招かれたら光栄ではないですか?

人が作った記念日に喜んで参加しているのに、神が創造された

神が直接自分を呼び出してくれている記念日、祝宴を拒否、無視する。何かがずれていると、気が付くはずです。

 

申命記16:14 その祭の時には、あなたはむすこ、娘、しもべ、はしためおよび町の内におるレビびと、寄留の他国人、孤児、寡婦と共に喜び楽しまなければならない。

 

この箇所ですが、全ての人、他国人、孤児、寡婦、全て!

イスラエル〜イスラエルの神に繋がる全ての人、人種、その人の

職業や状況関係なく、全員イスラエルの神の大家族〜イスラエルです。

そして、この共に、喜び楽しまなければならないとあります。

ならなければ〜という言葉ではなく、あなたは、よろこぶという

未来形です。וְשָׂמַחְתָּ֖ ワシャマタ בְּחַגֶּ֑ךָ ブハゲハ〜あなたのハグに於いてとあります。

この喜びとは、この世の喜びではない、奥底にずっと消えない天の喜びです。

この世の旅路で、問題に直面しない、通らない事などない。

こうしている間にも、日常で、病気、体の痛み、苦痛、又は自分の生活が脅かされる落ち着かない状況、予期せぬ災害に遭う、

自分ではどうにもならない事があります。

でも、それは避けられないものであり、この地上の歩の中で、

周りの嵐、状況に左右されない、天の喜び、サメアが存在しているそれが書かれています。人がずっと継続して喜びを持っている

状態は、この世の喜びではないものだからです。

神が定めたアポイントメントの日は、神が神の子らを呼び出して

特別な喜びの聖会をする時なのです。神が呼び出した特別に取り分けた日に、神は必ず神が伝えた通りのサメア〜喜びを用意して待っていて下さいます。

 

16:15 主が選ばれる場所で七日の間、あなたの神、主のために祭を行わなければならない。あなたの神、主はすべての産物と、手のすべてのわざとにおいて、あなたを祝福されるから、あなたは大いに喜び楽しまなければならない。

16:16 あなたのうちの男子は皆あなたの神、主が選ばれる場所で、年に三度、すなわち種入れぬパンの祭と、七週の祭と、仮庵の祭に、主の前に出なければならない。ただし、から手で主の前に出てはならない。

16:17 あなたの神、主が賜わる祝福にしたがい、おのおの力に応じて、ささげ物をしなければならない。

 
今エルサレムには神殿がないので、神の前に捧げる贈り物を持って、この祭りを祝う事ができません。
でも、神殿がなくても同じです。全ての人が神殿のあるエルサレムに上れたのではないのです。そして、諸外国に捕囚の民となった時も同じようにイスラエルは、シャバット、祭りを祝う事
神から教えられ続けて今に至るのです。

 

仮庵の祭りは何をするのでしょう?この7日間は、毎日宴会です。私達は、諸外国に住んでいるので、イスラエルに住んでいる人のようには、いきません。でも、これから週末を迎えて多くの人は、2日間、土日休みで止まる事ができる状況です。

できる事を、できない理由であきらめない、やめない、外国に

住んでいても、このイスラエルの神のアポイントメントの祭りの時期を、私達異邦人もイスラエルの神=イエシュアに招かれている事実を忘れずに、神と共に喜び、楽しむという事をやってみるのです。

ちなみに、イスラエルでは、皆仮庵を作ります。庭がある人は

庭に作り、又はバルコニーに作ったりします。

この作業は本当に楽しいものです。今世界中にいる仲間から、

彼らの作った仮庵の写真が送られて来ています。

暖かい地域に住んでいる人は、外でテントで週末仮庵の祭りを

祝う。イスラエルでは、家の庭やバルコニーに作った仮庵に寝泊まりし、食事をしたりして楽しく過ごします。

子供達はワクワクしますよね。キャンプみたい〜!だから。

そして、毎日、昼も夜もそれぞれの親戚や友達の家で、宴会が

あるのです。楽しいでしょう。7日間、喜び、楽しむ。

まあ、日本のお正月のような最大の賑わい、喜び、祭りです。

そんな庭も、大きなバルコニーもなければ、家の一角にカーテンをつけたりできます。今やつっかえ棒なる便利なものがあります。子供がいたら子供用のテントなども置けます。

 

春も秋も、それぞれのハグ〜都上りの祭り、①過越、②シャヴオート、③仮庵は、収穫祭です。

それは預言的な祭りでもあります。過越〜イエシュアの子羊の

血のあがない、新しい命、聖霊があたえられた。

種無しパンの7日間の真ん中、春の初穂の日は、「大麦」の初穂を捧げるのです。

そして、シャヴオート、内側が新しくされ聖霊を既に与えられている人達に、婚姻契約が与えられた、その祭りがシャヴオートです。シャヴオートでは、「小麦」の初穂が、新しいパン種=イエシュアの要素を入れられた人として、神の前に、最上の小麦の初穂で作られた種ありパンが捧げられるのです。

 

そして、「仮庵」の祭りは、1年の終わり、農作業の最終の収穫の、全ての収穫物が集められる盛大な収穫祭なのです。

この作物の収穫だけを見ても、これが、人の人生、そしてこの世の歴史の旅路が表されていると分かります。

作物、収穫は、御霊の実で表されるのと同じ、贖われた人と、

贖われた人の成長を表しています。

最後の収穫〜仮庵の収穫は、全部の作物の収穫が集められるのです。今の世の終わりも同じです。最後に全て神の子らが集められる。

子羊の婚姻の宴、そして全ての収穫〜神の子らが集められる!

毒麦が全部は除去されて、本物の麦だけが収穫されるという言葉でも表されています。

そして、エデンの園を飛び出した後から、既にイエシュアが共におられる、地上でイエシュアの中に住っていることを、この仮庵スコート(複数)で表しているのです。

 

創世記33:17
ヤコブは立ってスコテに行き、自分のために家を建て、また家畜のために小屋を造った。これによってその所の名はスコテと呼ばれている。
この出来事の前にあった事件は、何でしたか?32章で、ヤコブが自分の人生で、一番解決しなければいけない事と、向き合わされた、神〜イエシュアが登場したのです。
自分が誰か、分からないままでいたヤコブ。
自分が神に祝福されていると分からない。
そして、家族全員、使用人、家畜全てを、川の向こうへ送って、一人で、ヤボクに夜留まった事がありました。
神と直接対決した事が書かれています。
この時ヤコブは、はっきりイエシュアを通して、新しくされた人を体験したのだと思います。
又は、より深く神ご自身を、自分が誰かを知った体験でもありえるでしょう。
ヤボクとは、注ぎ出す、無効にする、空になるという意味がある
名前です。そして、ヤコブがこの時、もものつがいを打たれたとあるのは、今迄の歩み方を一切砕かれ断たれた象徴でもあると思います。
新しいあゆみ、それは足を引きずりながら歩く歩き方、赤ちゃんのようによちよち歩きになった。でも、それは新しくされた人として、新しい歩き方、生き方を、神の前にする旅路に入れられた
のでしょう。1つ1つ注意深く、考えながら、神の言葉に照らし合わせて歩む訓練。これは、私達一人一人も同じ経験、レッスンを通らされているのです。
そしてその新しくされたヤコブが、初めて言った場所が、スコテ
仮庵という場所です。イエシュアに住まう事を教えている、
この世で、朽ちる体=仮庵に住まいながら、主は私達の中に住まわれている事実を教えています。
そして、ヤコブが永遠の敵となってしまっていた、兄エサウに
20年の時を経て再び出会った時、何をしましたか?
 
創世記33:3 みずから彼らの前に進み、七たび身を地にかがめて、兄に近づいた。
 
この7という数字、修復を表し、完全になっている事を表しています。そして、身をかがめるとは、相手に100%自分の身を
Surrender,相手に命を預けてますという意思表示をしています。
これは、神の前に身をかがめるという事と同じ行為でもあります。相手に対して、自分は100%忠誠を誓っている、自分の身を完全に委ねている、信頼も全て相手に表明している状態です。
以前のヤコブのように、兄を騙して、長男の相続の権利、祝福をずるい方法、騙しで横取りするようなヤコブではないこと、
このヤコブの見せた態度で、エサウは、以前のヤコブとは違う
変化したヤコブであることが、分かったでしょう。
 

 

 

続く