イエシュアは神の記念日をめぐり福音を語られている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

「仮庵」は色々なところに,   出てきます。

エジプトにイスラエルが430年居留した後、どうしましたか?

エジプト脱出したすぐ後に、来た場所が、「スコテ」〜仮庵という名の場所です。

出エジプト〜奴隷〜偽の神々、偽の主人の奴隷=救われる人全ての姿です。そして、子羊の血で贖われた人=エジプト脱出した人は、もれなく新しくされ、聖霊を受けた。その人はイエシュアの中に住まう、イエシュアもその人の中に住まいこの世の旅路を

行く。これが「仮庵」スコテで表されています。

福音は最初から同じです。最初から永遠から神は人の中に住まう

瞬時に許しも、瞬時に聖霊も与えられる。どの時代も同じなのです。

 

出エジプト12:37 さて、イスラエルの人々はラメセスを出立してスコテに向かった。女と子供を除いて徒歩の男子は約六十万人であった。
レビ記23:42 あなたがたは七日の間、仮庵に住み、イスラエルで生れた者はみな仮庵に住まなければならない。

 23:43 これはわたしがイスラエルの人々をエジプトの国から導き出したとき、彼らを仮庵に住まわせた事を、あなたがたの代々の子孫に知らせるためである。わたしはあなたがたの神、主である』」。

イエシュアを通して、イスラエルの神のものとされた人は、

もれなく全てイスラエルです。同じ経験をしているのです。

エジプト=奴隷=罪が神との間を隔てて、命に繋がれない死んだままの自分が、子羊の血の贖い=イエシュアの完了の業で、

新しくされた、命を得た〜聖霊を内側に得て生き返った人達だからです。その人たちは、全て同じ天の相続人!アヴラハムの子孫と書いてある通りだからです。ガラテヤ3:27

 

聖書は、最初<創世記>から最後<黙示録>迄、一貫して同じ福音、同じ神の言葉、同じ救い、同じテーマが記されています。

エデンから出て、エデンに戻る。そして、イエシュアもレビ記23章を祝ったのです。それは、イエシュアご自身を表し教えている神の

創造された記念日だからです。

そして、神が創造された記念日に、イエシュアは特別な業をされているのです。預言的祭りでもあるからです。聖書に記されている神の言葉の事実だけを繋げたら、真実、真相が見えてきます。

 

ヨハネ7:37 

祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、

「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

 

この箇所ですが、「祭りの終わり大事な日」と、私は長年なん度もこれを読んできましたが、何の背景の出来事で、何の祭りで、その祭りがどんな意味のもので、一体この宣言の意味は何なのか?当時の人にどのようなインパクトで受け取られたのか、全然分からないまま読んでいました。

イエシュアが祝ったシャバットや新月、春の過越からの4つの記念日、種無しパン、初穂、シャヴオート。そして、秋の角笛を

吹く日ヨムテルア、ヨムキプル、そして仮庵の祭り。

どれ一つとして、意味をよく知らない、祝わないそんな信仰生活だったおかげで、聖書に書いてある意味も分からず、実体験も伴わず、

単に字面だけを読んでいた事は、後になって分かった事です。

 

祭りの大事な日とはいつですか?秋の一連の聖日、神のモアデイム、「仮庵の祭り」の第7日目の次の日、第8日シムニアツレットという単独の祝い日、その日は曜日に関わらずシャバットです。

去年の10月7日の丁度シャバット=土曜日が、シムニアツレットでした。

この祭りの大事な日とは、第8日目〜シムニアツレットでの出来事を指して、ここに書いてあるのです。

 

日本の祭りもそうですが、祭りの最初と最後は盛り上がるでしょう。神輿担いで、その神輿が神社に入るなど、盛大にやります。

これは、第二神殿がエルサレムに当時ありました。そして、都上りの祭りは、神殿で行われたのです。そして、シロアムの池から、祭司達が水を汲んで、それを神殿の祭壇まで運ぶ儀式がありました。水を汲んだ後、皆が行列で神殿まで、喜び歌い踊りながら、その水の桶を運ぶのにゾロゾロと付いて行き、神殿まで行ったのです。

その最大の儀式が祭りの最後、シムニアツレットの日に盛大に

行われたのです。イスラエルの全地域から、そして近隣、諸国からも仮庵の祭りに集まって来た大勢の人で、熱気と歓喜に溢れる再々の

儀式。イベント。

そして、祭りの最大の日の様子を想像してみてください。

ユダヤ人なら、トラーを知る人ならば、祭りの時にメシアが何かを

される、得に秋の祭りはメシアの到来を準備する祭りですから、人々は毎年神の祭りでメシアの到来を待望していたのです。

そして、この時のイエシュアの宣言がこれでした。

大勢の人の中に立って、いきなり宣言をするメシアイエシュア!その場面を想像を駆使して考えてみるのです。

 

ヨハネ7:37 -38

祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、

「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
 
イエシュアご自身は、水ではありませんが、水という物質で、
神=メシア=イエシュアの性質を表し、教えています。
人間の体が、水無で生きられない、体の約60%が水でできている、物理的デザインでも分かります。
命のパン=イエシュア=神の言葉と教えている事も同じです。
これを聞いた人達、ユダヤ人が主ですが、この宣言は、メシア
であると、イエシュアが宣言した事と同等の、イエシュアの発言宣言だったのです。ショッキングな宣言でしょう。人間であるのにメシアである!と、公の場で、しかもメシアを迎えるリハーサルでもある、秋の預言的祭りの最後の日にこの宣言を、メシアご自身がしている。この方が約束のメシアだ!と気がついた人と、そうではない人に分かれたのです。

聖書に、「聖書には」と書かれていれば、それは、100%

モーセの五書、その解説の預言書、諸書のみを指して意味しているのです。異邦人が旧約聖書とタイトル付けて呼んでいますが、

タナック以外に、聖書の中で、聖書を指して呼ばれる書は存在していません。

福音書〜黙示録は、1世紀後半、2世紀にかけて書かれていて、

普通の人は知らないものです。パウロの書簡は、書簡を当てた

そのグループだけが読んだ手紙なのです。

イエシュアも当然、タナックからのみ、神の教えを語っている事を、念頭から絶対にずらさないで考え続けて下さい。

イザヤ55:1

さあ、かわいている者はみな水にきたれ。金のない者もきたれ。来て買い求めて食べよ。あなたがたは来て、金を出さずに、ただでぶどう酒と乳とを買い求めよ。

 

イエシュアの言葉を聞いたユダヤ人なら、このイザヤ55:1を繋げる事ができたのです。この宣言が言えるのは、メシアだけです。そしてこれは、メシアの未来預言です。

イエシュアがご自身のことを、シャバットのユダヤ人の会堂で、約束のメシアに付いて書かれた箇所を朗読して、今日これが成就したと語られたことも同じです。

ずっとずっとユダヤ人たちが継承して来た神の教え〜トラー。

そして、神の聖会、シャバット、祭り。シャバットでは、世界中同じ箇所が朗読されます。モーセの五書、それに付随する預言書、諸書ですが、このルカ4:16−21は偶然、イエシュアがその箇所を読み上げたのでも、偶然読み上げる当番になったのではないことは、ユダヤ人のシャバットのシナゴグを知る人なら分かることです。

朗読箇所は決まっているからです。そして読み上げる担当もあらかじめ、決まっているのです。偶然イエシュアが勝手に前に出て預言書=イザヤ、トラーの箇所と付随する箇所を読んだのではないのです。

だから、神のプランとは、時に叶ってピッタリであることが

このような記述からも、背景を知ると見えてくるものがあるのです。異邦人には分からない世界があるからです。

偶然に、ある箇所を適当に読んでいるのではない、担当として、その日に決められているトラー、預言書の箇所を読んでいるという、下知識を持って読めば、見えて来ます。

 

ルカ4:15 イエスは諸会堂で教え、みんなの者から尊敬をお受けになった。

4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日=週の第7日目にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。

4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、

4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、

4:19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

4:20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。

4:21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。 

イエシュアが読まれたのは、イザヤ61:1−3

 

イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、

わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、

61:2 主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、

また、すべての悲しむ者を慰め、

61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために植えられた者ととなえられる。

 

そして、イザヤ55章の生ける水の預言も、ゼカリヤ14:7−8に書かれています。未来のエルサレムです。

 

ゼカリヤ14:7 そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮になっても、光があるからである。

14:8 その日には、生ける水がエルサレムから流れ出て、その半ばは東の海に、その半ばは西の海に流れ、夏も冬もやむことがない。

そして、それは、黙示録にも繋がっています。新しいエルサレム

第8日目とは、1〜7の時代が終わり、イエシュアが統治する事を表しているもの、その時代に入る事が書かれています。

 

黙示録22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、

22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。

22:3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、

22:4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。

22:5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

 

2コリント5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。

 

1コリント15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

 

この初穂とは、過越の祭り=種無しパンの真ん中に来る、

初穂=大麦の初穂を捧げる日、エデンの園で呪われた、その大地から刈り取られて天に昇った復活の命、死者の中から蘇ったと

あります。過越の祭りの一連の意味、実態体験を知らないで、

これを理解するのは字面だけ理解する事になってしまいます。

 

今日は仮庵の7日間の祝いの中で迎える、週の第7日目のシャバット=これが聖書で伝える安息日なのです。永遠に変わらない。

第7日目以外のシャバットは、聖書にはない。人の作った安息日は、神の創造されたものではないのです。永遠に。

神が、神が伝えた事を退けて、人の手で編み出したものを拒絶するのか、どれほど忌み嫌うのか、聖書を読めば分かります。

当然だと思います。人の創作した作品に手をつける、そんな事

人間の世界でもやらないでしょう。誰かの作品、書物、曲、芸術、絵画に別の人が手を加える違反などしませんよね?

それと同じ事を、人間が神に対してしている事に、気が付かないとなりません。

ミシュカン〜移動式神殿が捧げられ稼働する時に、神は人の手で

起こした「異火」を、神殿の祭壇の上のコルバンに使用してはならないこと、天から神が下した火のみ!神が言われた通りにすべて神殿の中で執り行う事をレビ族の大祭司の家系であるアロンとアロンの息子達、そしてレビ族の祭司達に教えたのに、アロンの息子達は、最初の最初から、神の言葉に違反して、亡くなってしまいました。そのような警告は、永遠の警告であり、神が伝える事と異なる事をする意味が何かを、人に教えているものでもあるのです。

神が言われた通り、それが神の栄光がそっくりそのまま地に現れ出る唯一の方法だからです。設計図通りに作らなければ、別物の形になるでしょう?それと同じです。人は神の言う言葉、教えをエデンの園から、無視し過ぎて今に至るのです。そのズレた行為思考回路、行動、神の前に罪である違反をし続ける事を、シャバット〜やめる、止まる。

神は人の手で編み出したものなど、ありがたくも思っていないし、1つも受け取らないし、喜びもしないからです。

神は、神が伝えた通りに忠実に生きる時、人を報いて祝福して

下さる事が、聖書にはずっと最初から最後まで記されています。

人が編み出した異火を、神が受け取るなら、皆が、神の教えに対して違反し始めてしまうからです。

 

 

Shabbat Shalom and Chag Sukkout Sameach!