イエシュアの修復の業 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書以降に記されている神の教え=言葉が、モーセの五書の

教えとは違うという思想が、クリスチャンの世界に浸透して、

約2000年近くになりますが、それらの人造思想は、聖書ではありません。神の言葉の進化論です。

イエシュアが語られた言葉、教えは、100%モーセの五書=

父の教えだけ!と、イエシュアご自身も語っている通りです。

 

もし、1世紀当時のイスラエル、ユダヤ人の間で、モーセの五書を否定する教えを語るならば、それらの教えはもれなく100%

偽教師の教えとみなされてしまったのです。聖書にもそう書いてあるでしょう。トラー=神の言葉、教えを否定した教えを空想する人、考えつく人、神に対してそのような敵対する行為を行う人は、ユダヤ人の中にはいませんでした。

それらは、死に匹敵する罪、神に対する冒涜だと、トラーには

記されているからです。

神の教え、トラーの真髄をズレた解釈をした、「先祖の伝統の教え」や、「律法の掟」人が解説した口頭トラーなるものは、ユダヤ人の中にありましたが、クリスチャンの世界で語られるような、神の言葉が廃れた、終了、変更、変化した、別の契約がある、又は異邦人には関係のない教えなどという思想はなかったものです。

ヨハネ5:46にあるように、イエシュアの言葉=父の教え、

それらは100%全てモーセの五書に書かれた事のみです。

そして、イエシュアが話しているのは、人間的なモーセの五書の解釈ではなく、神の意図通りの天的解釈をイエシュアが語って

いるのが、福音書に記された様々なことです。

 

だから、姦淫するとは、実際に行動に移してしていなくても、

頭の中で思い描く、考え続けただけでも、既に姦淫しているのと同じ罪を犯しているのだ!と、イエシュアが教えたでしょう。

それが、イエシュアのトラーに書かれている事実の、天直送の

解説なのです。

実際にしなければ、それで良いのではなくて、その姦淫の罪の根種、元、原因は、既に人の思考の中にある!罪の種が潜んでいれば、それは実際に罪を犯した事と同じ。その種がある限り、罪はいつでも形として現れ出る、発芽可能だからです。

そして、もし今モーセの五書に記された父の教えを信じないなら今どんなに、何言って、説明しても、その人には通じないと

言うことが起きたのです。その警告が黙示録2:4です。

 

黙示録2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。
あなたは初めの愛から離れてしまった。
 
はじめの愛とは、イエシュアが言ったモーセの五書に記された
神の教え=婚姻契約を生きる上での人の生き方の詳細のことなのです。最初の初々しいふわふわ感情、フィーリング、熱心さ、
そんなことを、「はじめの愛」という意味で話しているのでは、ないのです。愛の定義の全て、全貌、詳細は、モーセの五書の中に記されているのです。
「はじめの愛=シナイ山で与えられた神からの永遠の婚姻契約」を忘れた=捨てた!実際1世紀後半以降にそういうことが、異邦人の中で起きてしまったのです。
黙示録が書かれたのは、おそらく神殿崩壊前後の時期ですから、
ローマ帝国から、モーセの五書を生きることを禁じられ、異邦人たちの中に、モーセの五書を否定する動きは、既にあったという
背景が、あったからなのです。
事実、その時から、今日に至るまで、どうして、1世紀のイエシュア信者たちが生きた、イエシュアが教えた、使徒達も教えて
生きた、トラー=モーセの五書と、そして、神の創造された記念日が祝われなくなったのか、その本当の理由が、歴史の事実で
はっきり証明され、語っているのです。
異邦人は、はじめの愛=モーセの五書に記された婚姻契約を生きることを、実際に捨てたのです。
神の創造された記念日は、イエシュアそのものを伝えるもので

あり、私達が生まれつきの遺伝的ユダヤ人、アヴラハムの子孫で

あろうが、なかろうが、遺伝学的にはアヴラハムの血を引いていなくても、全て、イエシュアにより、イスラエルの神のもの、

元に引き寄せられた人は、もれなく、イスラエルであると、ずっと最初から神がそう全ての人に伝えている事実があることを、読み逃して理解していないのことによる、誤解なのです。

 

申命記16:11 こうしてあなたはむすこ、娘、しもべ、はしため

および町の内におるレビびと、ならびにあなたがたのうちにおる寄留の他国人と孤児と寡婦と共に、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所で、あなたの神、主の前に喜び楽しまなければならない。

 

出エジプト31:15 六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で、主のために聖である。すべて安息日に仕事をする者は必ず殺されるであろう。

<殺される〜怒りの神?実際シャバットを破ろうが、何しようが

何も起きませんよね。でも、神がこんな事、冗談や嘘で言うわけ

などないのです。シャバット、神の記念日は、神にとり、人にとり、それはそれは重大であり、死、命に匹敵する重さ、重要さがある!!!とはっきり、神の口から教えているのです。

しかも、イスラエルでさえ、1000年近く、神のシャバットを汚し、けがれて動物を食し、高きところ=異教の神々の神殿、

礼拝場所で、イスラエルの神を、混ぜ物の要素を取り入れて礼拝していても、何も起きませんでした。でもその後、捕囚に取られられ追放されたのです。神は長い間、忍耐される神です。

そして、決して、混ぜ物をそのまま放置し、容認し続けることは

ありません!必ず終わり!と言う時が、用意されているのです。

私達、神に造られた人間が、よく理解できなくても、神は永遠の真実、真理を人に伝えているのです。それが何?エデンの園の

知識の木から食べるくらい、そんなちっぽけなことの何が問題なのさ?と思ったのでしょう?

そういうアダムとハヴァの態度行動が、何に導きましたか?

死です。神と切り離され、自分が誰か分からなくなり、本来の

性質を生きれなくなる、別の目が開かれて、神が見る通りに

見れ無くなってしまったことが起きたのです。

それと、全く同じ!神は、真実を人に伝えていると言うことが、

理解できないから、神の言葉の方を拒否する?いや意味が分からなくても、神が言ったことは1000%正しいこと!と受け取らない人には、神が伝えている真実など、届く余地もない、神の

意図する意味を、理解する扉も開かれないままになるのです。

神の言うことを、人が無視するか、しないか、それはいつの時代もいつの時も、その個人個人の選択なのです。神が言われる事は永遠の真実です。人間が理解できなくても、神は真実を人にまず教えているのです。そして、神の伝えた真実は、歴史の途中で変化などしません!あなたが進化変化していないのと同じく、神の言葉も進化変化しません。人が、分からない、イコール受け取らないと言う態度をやめないとならないのです。アダムとハヴァも同じでしょう?なんでそんな知識の木があるの?理解できない。神がなんでそんなものそこに置いたのか分からない。

分からなくても神が言われた通りにすれば良いのです。人が神の言葉を聞き、分からなくても、神が言われるならそうする!と言う態度に常に徹して生きていくうちに、神が伝えた事の重要さが、神の言葉を実際に実践、生きることを通して、初めて理解できてくるものなのです。

神の言葉は、人を守る保護ガードです。神が創造された世界を

この世の旅路を安全に生きるための、鎧兜なのです。

それを捨てよ!と教えたのは、エデンの園の蛇です。

自分に理解できない神の言葉、イコール、神が間違ったこと、

過激なこと、酷いこと、人を縛り苦しめるための教えを人に教えているのではない!と言う理解がない場合には、神が伝える永遠の真実は、その人には、全く何も通じないままになるだけなのです。

だからイエシュアが、モーセに書かれた神の教えを、受け取らない、拒否する、理解しようともしない人に、神=イエシュアが

その人に直接説得しても、無駄、無理!と言われた意味を考えれば良いのです。神=聖霊=イエシュア=言葉です!モーセの五書に記された神の言葉、イコール神ご自身であり、聖霊であり、永遠の真実なのです。

出エジプト31:16 ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、

永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。

<代々とは、どの世代もずっと祝いという意味です。>

31:17 これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。

 

ここで、イスラエル、イコール異邦人は関係ないと解説する、

クリスチャンたちは、聖書を正しく理解して読んでいないから

イスラエルというイスラエルの神の大家族の代表の名=苗字で書かれていることが分かっていないのです。聖書を理解する大前提である、基本中の基本の理解が欠けているのです。。

イスラエル〜関係ない、それならば、イスラエルの神=イエシュア=ユダ族のメシアも、異邦人には、全くかんけいな〜い!と

言うことになることが、分かりますか?

しかも、神との関係にある根拠は、このモーセの五書=婚姻契約が全ての土台、証拠なのです。これなしに、神との関係にあると言う根拠がない!ということを理解していないのです。

神のシャバット=記念日=レビ記23章の特別な神の呼び出し日は、全て、神の花嫁=神のものとなった人に与えられ、神との

関係にある婚姻指輪、印!と神が教えているでしょう。だから、異教徒はシャバットや神の創造された記念日など祝いません。

 

ヨハネ10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。

デイスペンセーション神学が語る、分断思想、神の言葉を分断、イスラエルと異邦人を分断、それが人の思想であることが、

イエシュア=神の言葉から分かるのです。

神の壮大な修復の計画は、エデンに戻る!1つに戻る!

それをイエシュアも話しているでしょう。羊と羊飼いの例えで。

イエシュアの声とは、モーセの五書=トラーに記された神の教えのこと!なのです。それを聞く!神に聞くとは、神の言葉=聖霊です。モーセの五書の中に、神の教えの完全版の全てが記され、それが婚姻契約であり、神の花嫁となった人が生きる全て!と

神が教えているのです。婚姻契約を破る〜罪を犯すこと、姦淫の

罪=別の教えに逸れる路線でもあることを、ずっと教えています。

ローマ11:16 もし、麦粉の初穂がきよければ、そのかたまりも

きよい。もし根がきよければ、その枝もきよい。

11:17 しかし、もしある枝が切り去られて、野生のオリブであるあなたがそれにつがれ、オリブの根の豊かな養分にあずかっているとすれば、

11:18 あなたはその枝に対して誇ってはならない。たとえ誇るとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたを

ささえているのである。

11:19 すると、あなたは、「枝が切り去られたのは、わたしがつがれるためであった」と言うであろう。

11:20 まさに、そのとおりである。彼らは不信仰のゆえに切り

去られ、あなたは信仰のゆえに立っているのである。高ぶった

思いをいだかないで、むしろ恐れなさい。

11:24 なぜなら、もしあなたが自然のままの野生のオリブから切り取られ、自然の性質に反して良いオリブにつがれたとすれば、まして、これら自然のままの良い枝は、もっとたやすく、元のオリブにつがれないであろうか。

 

エペソ 2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。

<異邦人は、イスラエルの国籍もなく、神の婚姻契約、トラーを全く知らない人だった。>

2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

<近いものとは、神の中に引き寄せられたという意味です。>

2:14 キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、

2:15 数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、

<ここにあるのは、戒めの律法〜当時ユダヤ人の間にあった、

ユダヤ人は異邦人とは無縁、無関係、関係を一切持ってはならない、交わってはならないと言う、人の作った戒律です。それを「戒めの律法」「隔ての壁」とパウロが書いているのです。神の教え=言葉=モーセの五書が破棄されたなどと、クリスチャンはこの言葉の意味を完全に読み違えているでしょう。>

2:16 十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。

<ちゃんとパウロが説明しています。分裂した異邦人とイスラエルではなく、イエシュアの贖いの血の業で、異邦人もイスラエルも1つ体として元の性質通りに、和解させたとはっきり書いてあります。デイスペンセーション神学は、聖書に照らし合わせると

別の宗教の思想=異教徒が語るような思想を唱えていることは

明らかです。イスラエルの神の性質は、エハッド=一体=1つ以上で完全に1つだからです。神に創造された人も、神の性質通り、一体、エハッドが神のデザインだからです。分裂は、イコール、悲しみ、痛み、悲惨、そのように、人の本来の性質とは違うものをもたらすことでも、それが人の本当の性質、生き方、状態ではないと、理解できるのです。>

2:17 それから彼は、こられた上で、遠く離れているあなたがたに平和を宣べ伝え、また近くにいる者たちにも平和を宣べ伝えられたのである。

2:18 というのは、彼によって、わたしたち両方の者=ユダヤ人と異邦人が一つの御霊の中にあって、父のみもとに近づくことができるからである。

2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

2:20 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。

2:21 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、

2:22 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

<明らかにパウロが、解説している内容があるのに、どうして

分裂思想が、浸透しているのでしょうか?>

 

ガラテヤ3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたは
アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

これほど、はっきり至るところに、異邦人とイスラエルは1つと神が教えているのに、どうして分裂させようという思想が、浸透しているのでしょう。全部、妨害、騙しです。