神のなさることは全て時に叶って美しい | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創世記40:14 それで、あなたがしあわせになられたら、わたしを覚えていて、どうかわたしに恵みを施し、わたしの事をパロに話して、この家からわたしを出してください。

40:15 わたしは、実はヘブルびとの地からさらわれてきた者です。またここでもわたしは地下の獄屋に入れられるような事はしなかったのです」。

 

パロの役人で侍衛長の妻にはめれて、ヨセフは、濡れ衣着せられ

投獄されていた、そのヨセフと同じところに、パロに仕える料理の給仕役と料理役が投獄されてきた、絶好のチャンスですよね。

偶然は一つもなく、私達の人生で起きる出来事は、神が1つ1つ名前をつけていて、意味あることとして、敢えて置かれていることを、認めていくべきだと分かる出来事です。

 

そして、神は、この料理人たちを通して、今ヨセフを牢獄から

すぐに救い出す方法を、選らんだのではないのです。

だから、自分の考える方法で、助けが来なかったとしても、

がっかり気落ちしなくて良いのです。必ず、神は神が備えた時に神の方法で、素晴らしくはっきり分かる方法で、必ず助け出すからです。主の計画が固く立つ!とあるからです。

 

そして、その時には気がつかなくても、振り返ると人生の歩みの中の全て1つ1つに、アバ主が働いて下さったことを、認めることになるのです。だから、がっかりしない。今自分には、全部が見えないだけです。でも神は全てを見渡して全部を知っている。

 

その時に起きる、嫌な出来事だけ見ると、全然意味不明で、私達完全に、打ちのめされて、失望してしまうでしょう。本当に。

全てを働かせて「益」とされるとは、神の計画通りを成し遂げてくださると言う意味で、私達が考える自分の利益になるのではないからです。あれを得た、これを得たということもあるけれど、一番は、苦しみの中で主の実態に触れ、主に出会い、主に直接助けられ、人生のレッスンから貴重なことを学ぶ!ということだからです。

なぜなら、全部私達物理的なことは、置き去りにする時が来る。

一時的所有に過ぎない。ヘブライ語では、私は持っているという

所有の表現ではなく、「私に、私へ」という表現なのです。

英語で言う、to meがピッタリです。こんな感じ。付箋=ポストイットというのが、ありますよね。

くっ付いてる。それだけ。それを任されているだけです。

 

でも神との関係の深さ、親密さ、愛は決して廃らないとは、それです。それは誰も奪えない。それが一番の宝であり、天の財宝です。私達は、創造主から、最高の宝、聖なる民とされている、

命をかけて愛されている、それ以上にすごい、特別なことがあるのでしょうか?

さて、料理役の夢の解き明かしは恐ろしい内容でした。彼の死を予告した内容だからです。そして、給仕役はヨセフが解き明かした夢の通り、元の職に復帰しました。

ここで、給仕役は、ヨセフのことを思い出さず、パロに伝えなかったのは、うっかり忘れたのではないのです。考えたら分かるでしょう。牢獄にいたヘブライ人ヨセフと同じ牢獄に入れられ、

ヨセフが、彼らが見た劇的な夢の解き明かしをして、実際にそれが、その通りに実現してしまった!

こんなすごい出来事、体験を、簡単に忘れるわけないでしょう!

色々理由はあったでしょうけれど、ヨセフが夢を解き明かした事を、パロに言うのを、意図的にやめたのでしょう。

ヘブライ語の「覚えて」と、ヨセフが言った言葉は、ザハルという言葉は、意図的に思い出す行為、自分にリマインド思い起こさせることをするということをする事だからです。だから、この出来事、忘れようにも忘れられないこと、意図的におもいおこさなくても、給仕役の記憶の中には、常にあったはずだからです。

 

パロに真実を伝えることで、又厄介なことになるかもと、恐れたかもしれない、しかもパロの直接の下臣の妻に問題を起こした嫌疑で、牢屋に入れられているヨセフです。

ヨセフに頼まれたことを、言うべきか、言わないべきか、考え

あぐねて時間が経ったのでしょう。なぜなら、牢獄にいる囚人を、牢獄から出してなどと、どうしてパロに言えますか?

勇気がいりますよね。

パロにそんなことを話した場合、自分の身に再び、又何が起きるのか分からない、しかも料理役がパロに殺されるという夢の解き明かしまで、その場で聞いてしまっているのですから、色々考えるところがあったはずです。

 

料理給仕役の人たちの夢の解き明かしから、2年も経過していました。今度は、パロが夢を見て心がざわついて、その夢が何か

解き明かせる人はいないかと言います。この出来事も、神からのものです。その時やっと、給仕役が口を開いて、パロに告げる時を迎えます。

 

創世記 41:9 そのとき給仕役の長はパロに告げて言った、「わたしはきょう、自分のあやまちを思い出しました。

 

ヨセフが解き明かした給仕役の夢と、料理役の夢がぴったりと

現実になったことを、パロに話し、パロはそこで、初めてヨセフを呼び、パロが見た夢を解き明かすことをヨセフがすることになるのです。

7年の豊作と、7年の飢饉がエジプトに訪れること、そして、

収穫の五分の1を取り、毎年豊作の間食料を蓄えて、飢饉に備えることを、パロに告げました。その結果ヨセフはエジプト全土を管理する役職を与えられ、妻も与えられることになるのです。

ここに書かれている数字、7年と言う数字は、偶然の数字ではなく、神の計画でもあります。7年ごとのシュミタ年、修復、回復、完了を表している数字です。修復を表すものは、シャバットや神の祭りは、全部7がテーマでしょう。

 

創世記41:38 そこでパロは家来たちに言った、「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」。

41:39 またパロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。

41:40 あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。

41:41 パロは更にヨセフに言った、「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」

 

パロはヨセフに、王の次の位、総理大臣のような役職を与えたのです。

これで、エジプトに訪れる飢饉、そのお隣のイスラエルから、

ヨセフの兄弟達が、エジプトに降って食料を買い付けに来る準備が整ったのです。

42章には、ヨセフの兄弟10人が食料を買いに降ってきたことが書かれています。

弟のベニヤミンはヤコブが一緒に行かせませんでした。

ヨセフは、兄弟達のことを知っていましたが、兄弟はヨセフに

気がつきません。これ、ユダヤ人が、最初のイスラエルへの来臨の時にメシアに気が付かないことを、示唆しているものなのです。兄弟を殺そうという殺意、敵意を持ち、そして、結局知らない間に、弟は消えてしまった。

そして、ヨセフは、彼らに色々と質問し、そして、エジプトの国を伺う回し者だと言います。

そして、彼らを3日間、監禁所に入れますが、1人だけを残して、後の9人は食物を持って、カナンにいる家族の飢えを助けるために帰りなさいと言います。

ここで、兄弟達はあの日のことを、一緒に後悔するのです。

 

創世記42:21 彼らは互に言った、「確かにわれわれは弟の事でがある。彼がしきりに願った時、その心の苦しみを見ながら、

われわれは聞き入れなかった。それでこの苦しみに会うのだ」。

 

兄弟達は罪悪感を感じて、このように言います。ここに書いて

ある「罪」とは、ヘブライ語で、「アシェム」これは、イエシュアが「私達の罪のなだめもの」となったという言葉と同じ言葉です。

אֲשֵׁמִ֣ים この箇所には「我々の罪」と、書いてあります。

兄弟は非常に痛み、罪悪感を感じます。

レビ記に記された、コルバンにはいくつもの種類があり、その一つが「アシャム」のコルバンなのです。

私達の罪、犯した罪、有罪を、イエシュアが背負ったとある、

それです。

イザヤ53章には、イエシュアのことが書かれています。

21節で、兄弟達が、「苦しみ」と言っていますが、これは、

イエシュアが負った苦しみのことでもあるのです。

 

とがの供え物=アシャムのコルバンのことです。

イザヤ53:10しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を

悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。

 

さて、兄弟たちが移動して羊を飼っていた場所「ドタン」なぜ

その都市の名前を、言及する必要があるのでしょうか。

「ドタン」という名前には、どんな意味があるのでしょうか。

 

まず、「穴」とは、二つの言葉があります。
ボル (穴) とドゥート (貯水槽、井戸) という言葉が似た意味を

持つことから、「ドタン」という名前は、ヨセフが穴に投げ込まれる場所であることを予兆しているという考えに至ったと指摘されています。
ボルとドゥートはどちらも地中にありますが、ボルは掘削だけで形成される、つまり、ただの土を堀った穴です。ドゥートは石造りの構造物で補強されたものです。
言い換えれば、ボルは地面に掘られた単なる穴ですが、ドゥートは水が漏れないようにレンガで覆われた穴であり、井戸です。

 

これが何?と思うのですが、これは、ドタンとシェケムとに繋がり、イエシュアに繋がるものです。

ドタンで、服を剥ぎ取られて、兄弟たちにヨセフが乾いた穴に

入れられました。イエシュアも、同胞ユダヤ人に妬まれて、弟子ユダにまで裏切られ、銀30シェケルで売られてしまいました。

そして、乾いた水の湧かない井戸に放り込まれて、その穴から

ヨセフは出ました。そして、ヨセフは異邦人の世界へも、救済の役割をする人として連れて行かれました。イエシュアも、復活し

異邦人の世界へも、イエシュアのことが伝えられて行きました。

ヨセフの出来事を通して、同じ性質、事実並行して重なり、伝えているのです。

 

そして、ここで今一度、再検討するのです。福音、イエシュアの贖いの業=子羊はこの世の礎が造られる前に既に屠られて、完了している!という永遠の事実からだけ、考えてください。

エデンの園の最初から同じイエシュアの贖いが、アダムとハヴァに伝えられているからです。同じ!

2000年前に実際にイエシュアが地上に来られて、過越の祭りで、木にかけられて、種無しパンの7日の真ん中の、「初穂の記念日」で復活しました。復活の命を、人が受けることが初めて

できるようになったと考えているでしょう?それは聖書に書かれた事実とは、完全に異なります。

それは歴史線上に物事を見ているから、聖書に書かれた永遠から同じ、福音、救い、贖い、赦し、修復の業=全部どの時代も同じということが、見えてこないのです。イエシュアは一人しかいないからです。

最初から同じ!イエシュア以外、誰も人を贖い出し、救い出し、

父の元に連れ戻す方法はないと書かれているでしょう?

2000年前まで、人類を放置して、イエシュアが来られる以前の人は、特別な人以外、神は救わない、地獄に落ちたと言う人までいますが、イスラエルの神とは、異邦人の脳内イスラエルの神像であり、聖書に書かれたイスラエルの神とは、全く異なる神像を語り続けているのです。

神はご自分の造られた、時空を簡単に超えている存在であることを忘れてはならないのです。神が神が創造されて選び出された人たちをもれなく、救い出すからです。どの時代も。

永遠から考える!同じ、1つの神、1つの贖い、救い、1つ同じ福音、永遠から永遠に同じ!

 

どの時代も、見ても見なくても、信仰により、神の伝える事実を受け取り生きるだけです。アヴラハムも、イエシュア=子羊の血の贖いを信仰により受け取り義とされ、アヴラハムはイエシュアに救われたことを知って、未来にイエシュアが地上に到来する日を見て喜んだ!とイエシュアが説明しているでしょう。

真実の点と点を繋げていけば、事実が見えてきます。

 

続く