神が言われた通り 神の栄光が現れる条件 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプトした後、丁度7週間後、シナイ山で、イスラエルと、

そして共に、神の言葉をモーセを通して聞いて信じた少数の異邦人たちが神の民〜花嫁、世界の中から特別の取り出されて分たれた人たちが、神の家の家訓〜神との関係を証明する、土台とする婚姻契約書を受け取りました。その祭りが、シャヴオートの祭りであり、今年は

6月1日、日曜日の日没に始まります。

 

この祭りは、聖霊が初めて人の中に降って住まうことが始まった

記念日ではありません。神は歴史の中で、神ご自身が考える特別な

やり方でご自身を表すことをしていますが、それにより、神の性質

神の贖い、救いの業、神の教えが変化したと考えるのが、人間思想

ダービー教の教えであり、聖書とは関係のない肉の思想です。

神は自由自在に現れ出ます!誰の許可もいらない。

ロバの口、ロバの声を通しても、神は語られたではないですか。

なんでもあり!誰の許可も要らないのです。

神の考え通りをしているだけです。でも、神は神の言葉に反することは1つも言わない、やらないという聖書に記された神の性質の大原則を塗り替える教え=人間の教え=神が神の言葉を破棄したという大嘘の方を、全部捨てないと、神が語る言葉の真意は、その人間の教えの嘘を信じる人には永遠に見えなくなります。

 

シナイ山では、聖霊が降った〜神が直接降りてきた、天がそのまま

降りてきて、しかも山の山頂で、イエシュアと70人の長老は、契が結ばれた証拠、証明の祝いの祝宴〜飲んだり食べたりまでしているのです。使徒2章より、もっともっとすごい現象が起きたことが、分かりますか?

世界に代々的に、神が神の民と永遠の契約〜破られない婚姻契約を

結んだ歴史的に重大な出来事をして、証明しているのです。

シナイ山で、光、とどろき、神の声を直接皆が聞いた。

このシナイ山の麓にいたイスラエルと異邦人たちは見て、聞いて、

体験したと書いてあるのです。天が地上に降りてきた!!!

イエシュアがその中におられた!!!

だから、使徒2章で、弟子たちの上に舌のような火のようなものが

下ったことを、そこにいたユダヤ人ならば、あのシナイ山で起きた

出来事の再現であると、理解し繋げられたのです。

 

しかも、シナイ山では、イスラエルと少数の異邦人に婚姻契約が

与えられましたが、みことば=神のトラーはシオンから出て全世界の伝えられとある通り、ここからユダヤ人により、神のトラー=福音が伝えれた事実があるのです。

 

イザヤ2:3 多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。

トラーはシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。

 

トラー=神の教え=みことばはシオンから出て世界に伝えられる。

世界に伝えられるべきものは、神の教え=トラーであり、人間が

作った宗教の教え、教理、神学、神の言葉は廃れた!などという

神に真っ向から敵対する教えではないことを、聖書から正しく読み

取ってください。

 

福音と聞くと、神の教えではない、モーセの五書に記されていない、新しい別の教えだと考えていると思いますが、福音はエデンの最初からアダムとハヴァに伝えられ、残りの民を通して、預言者を通して

ずっと伝えられているのです。

ノアも神から直接トラーを教えられ、神が伝える神が創造された人の生き方、義の生き方を知っていたとあります。

ノアも、周りの人に神のトラーを伝えたのに、誰も聞かなかった、

耳を傾けなかったのです。一人もいない。だから、ノアの家族以外

全員、消されたでしょう。水の中に。

今も同じです。同じ神の教えを伝えても、それがそのまま通じない

届かないままになっているのです。

神の言葉、教えではなく、人間が作った宗教の教えを聞かされて

神の言葉が終了した、別の教えが出たと勘違いしているのです。

 

信仰義認は最初から、エデンの園から教えられています。

古代の人は、神の律法を生きて義とされ、イエシュア昇天以降は

罪を告白するだけで許されるなどという、教えは聖書とはズレた

解説をしているのです。どの人種も、どの時代も同じ神の教え!

同じ福音!同じ共済方法〜同じイエシュア=救いだからです。

 

詳しく解説がないだけで、アダムとハヴァが神の前に、罪を告白して、神ご自身が屠った子羊の毛皮を、アダムとハヴァに着せたのです。私達がしたことと、全く同じだと、理解してください。

神との出会い方はそれぞれ違いますが、実質は同じです。

神が永遠の中に用意し、提供した譲渡契約〜神が備えた子羊の血の

贖いを信仰により受け取るだけで、義とされたのです。

それ以外、救いを受ける方法はない。神の目が見た通りを、神は

アダムとハヴァに何があったのか聞いて、問い、彼らが何をしたのか〜神の言葉に背いて、神が言うことを曲げたことを考えさせ、

その罪を、やった通りに告白させたでしょう。

 

神により提供された代償、代価〜子羊の血の購いで私達に違反は

支払い済みであると書いてあります。

この世の礎が創造される以前から、永遠の中に屠られた子羊と

黙示録にも書いてあります。私達もこの世の礎が造られる以前、

永遠の中に選び出されていたとあります。摩訶不思議、理解不能。

時系列上に考えて、クレジットカードのようにこの日から有効で

この日までが有効期限があるなどという思想で考えるから見えないのです。受け取る人が、受け取ったその時から、それが有効になるだけであり、神の贖いの業は永遠の中に完了済み!

永遠から永遠に有効。神の家の中に入る扉は開かれているのです。

イエシュアが来られて、人が戸を開けると、入って来てくださる。

同じ1つの福音しかないからです。

エデンの園のアダムと同じ、そして、実際にエジプトに住んでいなくても、私達は、エジプト〜霊的エジプト、偽物の神々、偽物の教え

偽物の人生目標、そして、本当の創造主である神を知らないまま

むなしくこの世の目標〜レンガを積み上げて生きているのです。

奴隷とは、神の子らなのに、神の子らである本当のアイデンティティを知らないまま、偽の自己像で生きている、別物の教えに縛れて

生きている。別の神々、偽物の主人、偽物の教えに仕えて生きている。自分は価値がない、罪人ダメなやつと思わされて生きている。

 

自分の考えは、神の考えにマッチせず、狭い、苦しい、辛い、束縛

悲しみ=エジプトという言葉の意味に沿った生き方をしていた

奴隷だったのです。これは、エデンの園を飛び出した全ての人に

共通の因子なのです。

そこから、神に出会った人は引き出され、神の元に引き寄せられ

連れ戻され、神のものとなった。出エジプト6:6−7

同じ福音、修復、回復を、イエシュア〜子羊の贖いの血を自分の家の鴨居=自分自身の扉に塗った人は、神がその中に入ってきてくださったのです。そして、死が通り過ぎたのです。同じでしょう。

 

その人たちは、神が創造されたエデンの園、そしてエデンの園に住まうイエシュアの性質通りの人を、地上でそっくりそのまま生きることに、取り戻されました。神との関係に戻った、イコール、その後は

条件付きの契約があるのです。神の言われた通り、神の家の家訓を

1から知って、イエシュアの性質通りを生きてくだい!それが

本物のあなたであり、それ以外の生き方は、あなたを他者を破壊し

傷つけ、シャロームを乱す神の家に属する子らの生き方ではないと

教えているのですが、それを無視せよというのが、人間が作った

宗教の教えなのです。

第一の月、15日が過越した日です。過越は、イエシュアの業を

そのまま地上でイスラエルが体験したことを通して、全ての神の子らに同じ、共通、体験をしていることを教えているものです。

福音は、神の創造された記念日の中に、完璧に網羅されているものであり、それが実際に地上で起きた、これから起きる預言的祭り、

記念日〜モアデイムなのです。

シャブオートの祭りは、神から婚姻契約を頂いて、同時にこれは

小麦の収穫祭でもあるのです。神の祭りは全て、収穫祭でもあるのです。収穫で、神の子らの性質、成長を教え、そして神の国に入る人たちのことを教えているでしょう。小麦と聖書に何度も出てくる。

小麦、毒麦。この祭りでは、今は神殿がないから実際に捧げられませんが、小麦の初穂最上の小麦の中にパン種が入れられて、2つのパンが神の前に捧げられるのです。

 

過越では、種無しパン。過越の祭りでは、パン種は罪を表すものであり、罪が削ぎ落とされた人にされている〜復活の命をイエシュア、

子羊の血で洗われて、新しくされていることを教えているのです。

そしてシャヴオート、花嫁となった人たち、イスラエルと異邦人

2つの両者は、イエシュアの性質=パン種〜最上の小麦に入れられて

神の前に捧げられているのです。

 

聖書を読むと分かりますが、そこに記されているのは、神が創造された人、そして、神の言葉を無視して、神が言われたこととは違うことをして、エデンの園から飛び出してしまった人類の歴史が記されています。歴史の出来事は、全て霊的戦いの記録です。神に属する生き方をする人、神の教えに反する生き方をして人を破壊する人。

アヴラハムが呼び出される迄、イスラエルの先祖となる民はいませんでした。全民族は、皆1人の人〜アダムから出たのです。

そして、アヴラハムの前にいた異邦人であったノアも、同じように

神から神の教え〜トラーを口頭で聞いて知っていたのです。

 

これ不思議に思うのです。何も補足する詳しい解説がありませんが、

アダムも、ハヴァも、カインもアベルも皆神の教えを知っていたことが書かれているのです。

それは、どうして分かるのか。エデンの園、涼しい風が吹く中、

アダムは神と共に歩み、神が言われたことを、その通りに理解し

生きて、神の創造されたエデン=喜びの園をガードし、治めていた

からです。神は神ご自身の口から、そして神の言葉を託した預言者たちを通して、神の教えを、書き記し伝えて来ました。

そして、エデンの園を出た後も、神〜イエシュアは彼らと共にいたのです。

カインとアベルが、何の脈略、解説もないまま、神の前に捧げ物をしているでしょう。神が教えたからです。コルバンの意味を。

そして、アベルは神が伝えた通りの、全焼のコルバン〜神の祭壇に

日々捧げられる子羊を捧げたのです。

これは、イエシュアを教えているものです。コルバンにはいくつもの

種類があるのですが、その土台は、常に子羊の全焼のコルバン。

イエシュアが土台、そして、このコルバンは、焼き尽くされて、

きよめられ、芳しい香りとして天に煙が立ち上り、それは神の中に

受け入れられていることを教えているものでもあるのです。

 

聖書は最初から、神の教えは同じであること、変わらないこと、

贖い、救いの方法、神のどのように人は近づき関係を持つのか

全てを神の教え=トラーの中で教えているのです。

聖書には、イスラエルという民族が代表で、イスラエルの民に与えた契約〜トラーが記されています。

でも、読めば分かりますが、その中に必ず異邦人がいるのです。

残りの民の種類は2つ。イスラエルと異邦人、神の民である両者の

特徴は、神の契約〜トラーに根付いて生きる人たち。

それが、残りの民、聖別された民の特徴なのです。

メシアの特徴も同じ。言葉=トラーそっくりそのままを地上で生きて

人に教える、それがメシア。そのメシアに連なる人も、メシアがされた通り〜トラーを生きる!と教えているのに、宗教の教えは、

神の教えを真っ向から否定し、神の言葉を悪者の如く扱い

敵認定し、敵対意識を人に抱かせ、神の言葉に反する教えを

クリスチャンの口を通して、語らせているのです。

律法は廃れた〜恵を捨てる生き方に戻るのか!!!

これ、本当にパウロの手紙を誤解して、別物のストーリーを作り出しているのです。正しく聖書を教えられていない、イコール、聖書ではない、偽物の教え=人間の教え=神の言葉、教えを捨てよ!という

罪を人に刷り込む、蛇の作戦です。最初から同じ作戦!

神の言葉を潰す、曲げる、腐敗させる、神の言葉を人間に疑わせる、ずっとそれをやっているのに、どうして聖書を読んでも気がつけないのか?それは、神の言葉を自由自在に曲げ続ける教えが、横行しているからです。

 

ユダ族〜ダビデ王の家系には、異邦人ルツも、ユダの息子の嫁、義理の娘タマル=異邦人により生まれた子らは、メシアに血筋でしょう。

異邦人も加えられている事実が書かれているのです。

大丈は、アヴラハム、イサク、ヤコブ=イスラエルという長男、

その筆頭が、イエシュアなのです。

 

続く