神の壮大な救済プラン | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

兄弟たちが居た場所は、「シェケム」という名の場所です。

シェケムとは、「肩、重荷を負う」という意味です。

イエシュアが、私達の代わりに罪を負うとは、文字通り「イエシュアの肩に罪を負わせる」ことなのです。

私達の代わりに罪を負ったとあるのがそれです。

この「シェケム」と言う言葉で表現しています。

イエシュアが木を肩に担がされて、ゴルゴダの丘に向かったのと重なるでしょう。

十字架と言いますが、当時のエルサレムでは、そこら辺の木に

囚人がかけられて処刑されたのです。おぞましい世界ですよね。

ローマ帝国の最高刑は、木にかける処刑です。

イスラエル=モーセの五書の最高刑は、石打ちの刑です。

だから、聖書には、ローマの処刑、木にかけられるものは、

呪われると書かれています。

土に穴を掘り、そこに木を立てて、処刑したりするのです。

「あなたの重荷、思い煩いを主に委ねよ」委ねよとは、全部投げる、cast upon His shoulder、「主の肩」に全部、全てを投げて背負わせるという意味なのです。

 

ここで、この穴、「ドタン」の穴ですが、このドタンの穴は、

イザヤ12章と繋がるのです。

この箇所、日本でもよく知られる、「マイムマイム」の歌、その歌詞は、イザヤ12:3なのです。

 

イザヤ12:3 あなたがたは喜びをもって、救=イエシュアの井戸から水をくむ。
ウシャヴァテン マイム ヴェサソン ミマイネ ハイエシュア=救い。
マイム=水です。ヴェサソン=喜びと共に。
フォークソングの途中で「マイム マイム マイム マイム マイム ヴェサソン」と歌って手拍子するでしょう。
それがこの聖句のヘブライ語なのです。
日本の学校で、マイムマイムを、踊った経験があると思います。
あれは、仮庵の祭りを喜び歌っている踊りであり、イエシュアが「生ける水」宣言をしたのは、仮庵の祭りの最後、喜びマックスの最大の日のことなのです。
日本人は、誰も知らないで、イザヤ12:3のイエシュアを歌って、仮庵の祭りの歌を歌って、フォークダンスをしているのです。
私も全く知りませんでした。仮庵の祭りが何なのか、神殿があった当時、仮庵で行われた、水を汲む儀式がイエシュアを意味していたとは。
イエシュアが特別な業や、宣言をしているのは、必ず、神の祭り
過越や、仮庵の時でした。そして、未来も、神の特別の祭りの日仮庵の時期に再臨されるのです。それは、いつの年かは、人には
知らされていませんが。多分、イエシュアの誕生は、過越、
春の祭りの時であっただろうと考えられています。
なぜなら、過越の祭りで、生贄の子羊が、ベツレヘムから連れてこられて、神殿に入り、子羊が屠られる、イエシュアは、多分、過越で生まれて、そして、過越で生贄の子羊として屠られたからです。全てイエシュアの業は、神の祭りを巡り地上で起きていることに注目したら、見えます。
 
モーセの五書に記されている、イエシュアが教えられた教えや、当時の人々が皆当然に理解して、神の教えや記念日を祝っていた、そのような体験は、異邦人の中にはない、知識としてもない、祭りを祝う体験自体が1度もないから、そして、聖書をさらに翻訳を読んでいて、何の祭りで、何の場面で、これが何の意味があり、イエシュアが何を言っているのか、全体が見えないことが起きるのです。
私には、全然分かりませんでした。当然のことながら。
 

ヨハネ7:37 祭の終りの大事な日(仮庵の祭りの最後)に、

イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。

7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

イエシュアは他の場所でも、同じ意味のことを話しています。

これは今書きませんが、ヨハネの4章で、井戸=生ける水=救い主のことを、サマリヤの女性に話していることがそれです。

全て聖書の最初の最初から、意味が繋がって、同じイエシュア=救いを話しているのです。

 

これを初めて異邦人が読んで、即座に、これは仮庵の祭りの7日の最後の日のことであり、イエシュアが神である宣言をしたと繋げて考えられる異邦人はいないと思います。

モーセの五書を知る、ユダヤ人ならはっきり何が書かれているのか分かるのです。

そして、これがイザヤ12章に繋がり、この井戸は空の井戸ではなく、水が湧き出る井戸である、生ける水、イエシュア=救いの井戸、世界の四隅へエデンから流れ出す、エゼキエル47で、

未来預言を見せられた、未来神殿から流れ出す水=イエシュアであるなどと繋げて考えられないです。

 

私もこの箇所を読んで、イエシュアが生ける水という意味は見えても、創造の最初に遡り、水という聖書に書かれた概念を知らない時には、見える深さ、度合いがまるで違いました。聖書は同じ基本となる

聖書に記された概念があるのです。それをヘブライ語が語る意味から知って行くと、翻訳を読んでいても、元の言葉と、何の概念で話しているのか繋げられるようになるのです。

 

イスラエルで育ち、西洋宗教の教えを一度も聞いたこともなく、

ヘブライ聖書からのみ聖書を読んで、イエシュアたちのような生活をして、シャバットや祭りを祝って成長した人。

シャバットや過越、仮庵の祭りを家族や友人たちと祝う、喜び楽しみを通して、どんなに神が良いお方か、そして自然とイエシュアに出会ったと言っていました。

ヘブライ語聖書のみだけを読み、イエシュアに出会って成長した人の話を聞くと、聖書は1つとして繋がり、ヘブライ語で読み、考えると、創世記から黙示録まで、同じことが書かれていること、同じことが書かれている箇所が、エコーのように響き合うと言ってた表現が、今は分かります。

そう言うことを言ってんだ.....と。

人の思想=分断思想=聖書とは違う教えを通して、考えてしまうと、イスラエルの神が伝える永遠の真実、神の永遠普遍性が見えなくなって行くのです。

 

この歌は、「仮庵の祭り」の時に、シロアムの池から水を汲み、皆が喜び踊りながら、神殿にその水を運び、神殿でそれを注ぐ

儀式が祭りの間行われるのです。

イエシュアが、過越の祭りの最大の日に、ご自分が救い主と

宣言されたこと、この日の出来事は、仮庵の祭りの最大の祝い日であり、イエシュアご自身のことを書いている箇所です。

 

イザヤ12:3 あなたがたは喜びをもって、救の井戸から水をくむ。

「救いの井戸」とは、ヘブライ語で「ミマイネ ハ イエシュア」と書いてあるのです。

 

乾いた井戸=穴に投げ込まれた、でもイエシュアは生ける水を

乾いた井戸から湧き上がらせることができるのです。

そして、人はイエシュアの井戸から、水を汲むとあるのです。

 

ヨセフの兄弟達は長い年月、弟ヨセフとは会いませんでした。

イエシュアは、同胞ユダヤ人のところに遣わされたのに、多くの

ユダヤ人はイエシュアを救い主として、長い年月気が付けなかった事実に繋がります。

そして、補足ですが、異邦人も、黙示録2:4にある、初めの愛=婚姻契約=トラー=モーセの五書にある神の教えが永遠であり廃らないという事実を忘れて生きてきた、同じことなのです。

一方あるユダヤ人は、イエシュアが、タナックに記されている

メシアであると見えない、異邦人は、トラー=婚姻契約=言葉=モーセの五書=イエシュアであると見えていない。

 

これは、ヨセフの兄弟達を通して、なぞられていることです。

そして、ヨセフはエジプトへ下り、異邦人の救済役を担ったのです。イエシュアが異邦人へも伝えられたことと、同じです。

 

ヨセフの兄弟達は、シメオンを人質に取られて、食料を渡されて

カナンの地に一旦帰ります。そうすると、食料の中に、銀の包みが入れられていて、そして、父ヤコブの分まで入っていました。

そして、今度行く時は、弟のベニヤミンを連れて来なさいと命令されていたのですが、ヤコブはヨセフを失い、シメオンまで取られて、これ以上不幸があってはならないと、何がなんでも、

ベニヤミンを一緒には行かせたくないと思っていました。

でも、このようにヨセフに言われていました。

 

43:5 しかし、もし彼をやられないなら、われわれは下って行きません。あの人がわれわれに、弟が一緒でなければわたしの顔を見てはならないと言ったのですから」。
43:6 イスラエルは言った、「なぜ、もうひとりの弟があるとあの人に言って、わたしを苦しめるのか」。
43:7 彼らは言った、「あの人がわれわれと一族とのことを問いただして、父はまだ生きているか、もうひとりの弟があるかと言ったので、問われるままに答えましたが、その人が、弟を連れてこいと言おうとは、どうして知ることができたでしょう」。
 
命がけで食料を買いに行かないとならなくなってしまったのです。イスラエルが窮地に追い込まれて後、イエシュアを発見する
事につながっています。
ヤコブは、カナンの地からの色々な贈り物と、そして、銀をそのまま返すように兄弟達に伝えます。「決死のエジプト食料調達の
旅」になってしまうのです。ヤコブの心の中はどうだったのだろう。かわいそうでなりません。
 
結局、ユダの申し出で、弟ベニヤミンを連れて行きます。
ここで、色々なことが、見えてきます。先ず、ヨセフの兄弟たちが、弟を殺そうとしていた、そのような状態ではないことを、確かめ続けられていることに、兄弟は気がついていません。
そして、どうして、ユダにベニヤミンを託したのか?ユダは、
二人の子供を失った経験をしています。だから、子を失うということを、ユダは理解していたことを、ヤコブは分かるから、
ユダの申し出を、承諾したのです。全て命懸けです。
 
絶対に弟ベニヤミンを連れ帰るからと、ユダは、父ヤコブを説得します。
ヤコブは、ベニヤミンを連れて行くことを恐れて、ギリギリまで
食料をエジプトへ買い付けに行くことを、とどまっていたのですが、食料が尽きてしまったので、選択の余地がありません。
そして、イスラエルの様々な物産品の贈り物と、頂いた銀を
全部返すように伝えて、彼ら兄弟をベニヤミンと共にエジプトへ
送りました。
 
創世記 43:16 ヨセフはベニヤミンが彼らと共にいるのを見て、家づかさに言った、「この人々を家に連れて行き、獣をほふってしたくするように。この人々は昼、わたしと一緒に食事をします」。

43:17 その人はヨセフの言ったようにして、この人々をヨセフの家へ連れて行った。

 

これ、放蕩息子が戻って来た時に、お父さんが肥えた動物を屠って宴会をしたというと同じです。家族が戻って来た。

これで、ベニヤミン、シメオンも揃って全員兄弟が揃います。

 

続く