神の計画 ヨセフ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

創世記37:13 イスラエルはヨセフに言った、「あなたの兄弟たちはシケムで羊を飼っているではないか。さあ、あなたを彼らの所へつかわそう」。ヨセフは父に言った、「はい、行きます」。

37:14 父は彼に言った、「どうか、行って、あなたの兄弟たちは無事であるか、また群れは無事であるか見てきて、わたしに知らせてください」。父が彼をヘブロンの谷からつかわしたので、彼はシケムに行った。

 

ここで、イスラエル=ヤコブは、ヨセフに、ヨセフの兄弟達の

様子を確かめに行ってという、任務を与えています。

逆だろう逆?ですよね。17歳くらいの弟の心配を兄達がするのが妥当であるのに、弟であるヨセフが彼らの様子を確かめるよう父イスラエルから頼まれたのです。

 

「無事であるか、又群れは無事であるか」とあります。

ここにある、事」という言葉は、ヘブライ語では「シャローム」です。シャロームは、「平和、平安」と訳されていますが、本来の意味は「欠けがない状態」ホールネスの事です。詰まり、人の状態が、神が創造された本来の姿で生きているのか?という事、欠けがないという意味は、その中には平安も入って、包括されているから「平安」と訳されていますが、シャロームは、「全部丸ごと欠けがない状態」という意味です。翻訳と、本来の意味にズレ、違い、誤差がある事に気がつくと思います。

 

そして、兄達の生き様が、シャロームな状態なのか?それだけではなくて、「羊の群れはシャロームか?」確かめなさいとヨセフは言われました。その意味は、「彼らの経済状態、仕事はどんな様子か?」という事まで、確認する、詰まり人の生きる全部を

網羅して、彼らがシャロームな状態なのか、確認してとヨセフは任じられているのです。

これ、長男がやるべき事なのに、イスラエルは、ヨセフに頼んでいるのです。そして、どうなりましたか?

シェケムではない、ドタンという場所に、兄弟たちは移動していました。

創世記37:21 ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から救い出そうとして言った、「われわれは彼の命を取ってはならない」。

37:22 ルベンはまた彼らに言った、「血を流してはいけない。

彼を荒野のこの穴に投げ入れよう。彼に手をくだしてはならない」。これはヨセフを彼らの手から救いだして父に返すためであった。

37:23 さて、ヨセフが兄弟たちのもとへ行くと、彼らはヨセフの着物、彼が着ていた長そでの着物をはぎとり、

37:24 彼を捕えて穴に投げ入れた。その穴はからで、その中に水はなかった。

 

大分色々飛ばして説明していますが、モーセの五書は、表現するならば、たい焼きの中身はあんこ、皮がなくて、全部があんこで詰まっています。

全部聖書は1つの木のように繋がって、永遠の神の教えを人に伝えているからです。だからどの箇所ももぎ取る、いや、最初の部分をもぎ取るならば、色々なこと、重大なことが見えないままになるのです。

 

ここに、創世記37:17で、シェケムにいるはずの兄弟たちがいないので、彼らがどこにいるのか、ヨセフが道すがらであった人に尋ねて、兄弟がドタンに行こうと言うのを聞いたと伝えます。

「ドタン」と言う地名が出てきますが、タナック=モーセの五書預言書、諸書では、ドタンについて書かれているのは、ここと、アラム王がエリシャを捕らえようとした第二列王記 6:13 の 2 回だけです。

このドタンと、シェケムと言う土地の名、「穴」というのは、全てイエシュアに繋がっているものです。

これは、後の箇所で説明します。

皆が知っているように、ヨセフは服を剥ぎ取られ、穴に放りなげられてしまいます。

イエシュアと同じく、裸同然服を剥ぎ取られました。

弟ヨセフを殺すのは、よくないとユダの提案で、穴に投げ込まれます。

 

通りがかりの商人が、ヨセフを穴から出して、銀貨20で、ヨセフを、ミデイアン人に売ったとあります。イシュマエル人とも

書いてあります。この二つの呼び名は、別々の人種ではなく、

同じ人種、イサクの兄、イシュマエルに繋がっている人のことです。

イエシュアをユダが売った。人物は違いますが、同じことが並行して書かれているのが分かります。銀貨20で、ヨセフは売られた。

イエシュアを裏切って祭司長にイエシュアを引き渡した、イスカリオテのユダも銀貨30で、イエシュアを売ったのです。

 

ヨセフは商人に連れられて、エジプトに売られます。

人身売買ですよね、文字通りの。

でも、不可解な事件、出来事、自分にとって起きてほしくない事、全てを通して、神が働かれている事が分かる出来事でもありますね。1つ1つが、繋がっている、1つ1つ神の主権で起きている。その1つだけの出来事を見たら、全然嬉しくない、悲しい出来事でさえも、神はその中に介入している事、忘れてはならない事を、思い起こさせてくれます。

はっきり言って、全部物事うまく行き、納得行く事を通る人生の人も稀にいるのかもしれませんが、ほぼ全て、大なり小なり、色々あるでしょう。

 

ルベンが穴を見ると、そこにはヨセフはいませんでした。

そして、兄弟たちは、雄山羊の血でヨセフの服を浸して、ヨセフが殺されたという事を、父親ヤコブに伝えます。

 

ヤコブはやっと生まれ故郷に家族全員で帰郷し、そして、これからという時に、ヤコブは再び違う悲しみにあい、失望の底に落とされてしまいます。子を失った親の気持ちを考えられますか?

どれほど、引き裂かれるような悲しみなのか。来る日も来る日も失った我が子の事が忘れられない。

そして、兄弟たちも、ヨセフを痛めつけようとしてやった事が、

自分たちがこの時から、深い苦悩を背負って生きることになって

しまうのです。

 

兄弟に妬まれ恨まれ、そして兄弟はヨセフに殺意を持っていた、

どんな気持ちだっただろう?と考えるのです。

それ以前に、ヨセフが兄弟達に妬まれて、うとましく思われていたこと、これは、同胞ユダヤ人のところにイエシュアが来られたのに、同胞、ユダヤ人は、イエシュアがメシアだと気が付かない多くの人達は、このイエシュアがタナックに記されたメシアであると認識せず、最後はイエシュアを憎んだのです。

ラビ達もイエシュアのトラーの解き明かし、解説が素晴らしく、

大衆を魅了して引き寄せていたことに、妬ましく、腹立たしく思い、最後は、殺意をもって殺そうとしていた人たちが大勢いた、

ヨセフの兄弟と同じことが、重なり並行して書かれています。

 

自分の兄弟に同じ目に遭わされて、拉致され外国に売られて連れて行かれたら、書物〜聖書には声も画像もないですから、その場面や、それぞれの人が通った事柄に思いを馳せて、読むことは必要ですね。

でも、そんな中でも、主がヨセフと常に共におられたとあります。そして、エジプト人の家でも、ヨセフには主がついていることを、彼らが分かったとあります。

 

創世記39:1 さてヨセフは連れられてエジプトに下ったが、

パロの役人で侍衛長であったエジプトびとポテパルは、彼をそこに連れ下ったイシマエルびとらの手から買い取った。
 
パロの役人で侍衛長の家に売られたヨセフ、これも偶然ではなく
このような人の家に、ヨセフが売られたことも、確実に神のプランでした。
39:2 主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり、その主人エジプトびとの家におった。
39:3 その主人は主が彼とともにおられることと、主が彼の手のすることをすべて栄えさせられるのを見た。
 
そして、ヨセフのおかげで、ポテパルの家は主の恵みを受けて、ポテパルは、ヨセフに対して、全幅の信頼を寄せたのです。
そうしたら、どうなりましたか?
 
 39:6 そこで彼は持ち物をみなヨセフの手にゆだねて、自分が食べる物のほかは、何をも顧みなかった。さてヨセフは姿がよく、顔が美しかった。
 
ヨセフは魅力的な人物でもあったのですね。そして危険な人物がその家にはいました。ポテパルの妻です。その妻に言い寄られて
ヨセフは完全に無視、彼女がいる場所に一緒にいなかったと
書かれています。
そして、ある時、用事で家に入ると、その時家には誰もおらず、この主人の妻が再び言い寄ってきました。
ヨセフは逃げましたが、ポテパルの妻はヨセフの服を剥ぎ取ってそして夫ポテパルに嘘の証言をし、ヨセフに襲われかけたと言ったのです。いや、これ狂言ですね。
酷い女ですね!でも、彼女だけは自分の嘘を知っていた。
自分の嘘に、その後苦しんだことだと思います。
その結果ヨセフは牢獄に入れられてしまいます。
 
でもここでも、主が共におられたんですね。これを読むたびに、
私達が誰かのせいで酷い目にあったとしても、主は共におられる
主はうっかりミスなどしない、うっかりぼ〜としてたから、このことが起きたのだ!ということもない。
主が守ってくれないから、そんなことが起きたのだ!などと
考えてはならないのです。私達の目には、納得いかないことだらけです。この世は壊れているからです。そして、悪を働く人がいるから、必ずどこに言ってもそういう人が周りにはいるでしょう。自分の周りに1人や二人は、そういう人がいるものです。
でも逆に、一生の友となる人や、助け励ましてくれる人もいるから、大丈夫。
 

創世記39:20 そしてヨセフの主人は彼を捕えて、王の囚人をつなぐ獄屋に投げ入れた。こうしてヨセフは獄屋の中におったが、

39:21 主はヨセフと共におられて彼にいつくしみを垂れ、獄屋番の恵みをうけさせられた。

39:22 獄屋番は獄屋におるすべての囚人をヨセフの手にゆだねたので、彼はそこでするすべての事をおこなった。

39:23 獄屋番は彼の手にゆだねた事はいっさい顧みなかった。

主がヨセフと共におられたからである。

主は彼のなす事を栄えさせられた。

 
ヨセフの話を読むと、本当涙、感動してしまいます。神が困窮している時に、必ず助けてくださるお方であることが、ひしひし
伝わってきます。アバ主が共におられる。私達の内側にいる、
そして私達も今神の中に存在している!私達は決して神の外側に出ることはない。何も必要に欠けることがない!とあります。
「いつくしみ」と書かれていますが、英語では、Loving kindnessなどと訳されています。
ヘブライ語では、חסד、ヘセッドです。その意味は、「神のすべての肯定的な特質、すなわち愛、契約の忠実さ、慈悲、恵み、親切忠誠心をその内に全て包むものであり、要するに義務の要求を超えた献身と慈愛の行為」のこと、翻訳では見えない深い意味があります。
ヘセッドと同じく、神の性質で、「憐れみ」という言葉がありますが、これはヘブライ語で「レヘン」、この言葉は、胎を表す言葉、すなわち「子宮」です。私達が神の中に守られている様子が
分かる言葉です。生ける水の中に胎児は存在し、生ける水から
栄養を吸収して、守られている。
周りから揺さぶられても、実は私達は神の中に守られている。
Picture languageと言いますが、絵画的言語で表現されているのです。目で見て、瞬時にその意味が理解できる表現をヘブライ語ではしているのです。
 
その後ヨセフは牢獄で過ごしますが、ある時、エジプト王の給仕役と料理役とがその主君エジプト王に罪を犯して、ヨセフと同じ牢獄に入れられます。そして、そこで給仕役と料理役が夢を見たことをヨセフに言うと、その夢の解き明かしは神がしてくださるからと、ヨセフは彼らに伝えます。給仕役の人が、最初に夢を伝えて、ヨセフがその夢を解き明かします。
 
そして、ヨセフはこのように、給仕役に願います。

 

続く