聖書に書いてある真実だけを伝えないとならない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエスさまの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

私達、イエシュアを信じる人達がしなくてはならないことは、

聖書に書かれているメシア、神の言葉を、聖書に書いてある通りに、正しく世界に伝えて生きること、聖書に書かれてもいない

別物の空想のローマ化されたイエシュア像を、決して他者へ伝えてはならないこと!

それらは、神の性質や、神の言葉が歴史の途中で変化したという、異邦人の思想で語るイエシュア=イスラエルの神像や言葉

神の言葉は聖書とは丸で異なる異物の、人間の教えとの混ぜ物のまがい物の教えは伝えてはならないと、神から警告されているからです!クリスチャンが異端に気をつけようと言うなら、

「聖書とは違う教え」を人に伝え続けていることに、まず気が付かないとならないのです。

異端とは、聖書に記された事実から逸脱している教えのことです。

聖書に書かれたイエシュアは、ローマ化けしたイエシュアではないのです。異邦人の空想、想像、自分がこうであってほしい

イエシュアの空想像ではないからです。

聖書に書かれているのは、ユダヤのイエシュアであり、ローマのジーザスではない。そのイエシュアは、神の言葉=トラー=モーセの五書に記された教えを、天直送の解説をしてモーセの五書に書かれた父の教えを人に教え、実際に生きてお手本を見せた。

だからクリスチャンも、WWJDと言うのでしょう?

 

イエシュアは、シャバット、新月、祭りを祝った!過越の祭りの最後の晩餐で、毎年過越を祝って、その度にイエシュアがされたことを思い出して!と言われた。イエシュア直直の遺言です。

 

イエシュアがされた本物の神の祭り、記念日、イエシュアがされた贖いの業を表す祭り「過越の祭り」を祝い、罪が削ぎ落とされた事実を教える種無しパンを7日食べ、初穂=復活、シャヴオート=神の子らとされた人に与えられた婚姻契約を受け取った事実を祝う祭り。

秋には、未来のイェシュアの再臨を表す祭り、ヨムテルア=角笛を鳴らす、神の声が鳴り響く、目覚ましコールの日。そして、

大贖罪日、そして仮庵の7日間、子羊の婚姻の祝宴、そして永遠にイエシュアが統治し、イエシュアと共に住まうことを表す

第8目の祝い日!

これらが、本物のイスラエルの神が神の子らを呼び出して祝うようにされた記念日、祭り、神が神の子らを呼び出している

神が創造された、永遠に祝われる「わたしの記念日」と神の子ら全てに紹介している記念日です。

 

本物、聖書から遠く遠く離れて、神の教えと、記念日を異邦人は捨て去るように教えられ、そのように今迄生きてきたのです。

神が、異邦人とユダヤ人とは、別の教えや、別の記念日を生きると教えたのではない!その誤解をまず解いてください。

 

神の記念日の中心、神は第七日目にシャバットを祝い、イエシュアがされが業を思い出し、シャバットは、神との関係に入れられた「印」として与えられた神と神の子らで永遠に祝う日!と神が伝えられた事実を、聖書から最初に理解すれば良いのです。

 

異邦人の世界の周辺で教えられる教えは、その中には聖書の事実の解説もありますが、西洋人が作った教え=変えられてしまった教え、それは、神の言葉を人間の判断で削除、付け足し自由と

教える、聖書とは異なる教えを教えられてしまっているのです。

どの解説を聞いても、必ず途中で神の言葉を曲げる変化球を出して解説しています。

以前の教え=律法と、新訳時代、聖霊時代の教えとは別と解説しているでしょう?神の教えに変化があると教えている、それは

聖書とは全く関係ない、異邦人の思想だと気がつかないまま、

西洋人が考えた教えで、神の言葉の方を否定し、曲げて解説しているのです。

聖書の真実に気が付く人には分かるけれど、気がつけない理由は、偽の教え=進化論や偽科学と同じく、長い間自分の思考を

占拠してきた教えから抜けるのは、異端の教えの洗脳から抜けるのと同じことだからです。外から見ればおかしい、ズレてると

見えるのに、偽の教えを信じる場合には、見えなくなり盲目状態になるからです。

だから、異邦人の世界では、イエシュアの教えや、イエシュアが

祝った、ユダヤ人たちが祝っている、神の永遠の教えや記念日

が今まで、全く忘れ去られてしまって来たのです。

聖書の記述の事実から、実際そうだと気がつきませんか?

どうして、イエシュアや1世紀聖書に記されている人々が生きて知っていた教えや、記念日が今は異邦人の世界では捨てられている、祝われなくなったのでしょうか?

最新式の教え、キリスト教=キリストを教える教えが2000年前に初めて登場したからと、教えられているからでしょう?

事実は、西洋教父たちにより、ヘブライ的要素がある一切を捨てよ!と、異邦人は教えられたからなのです。教師、リーダーに

言われれば一般信徒何も知らない人はそのようにするからです。

 

神が神の言葉を終了したからではなく、神の教えと、神が永遠にガードして祝うように教えているシャバット、記念日、祭りを

異邦人が捨てたから、神の教えが分からなくなった。

聖書を分断する思想を植え付けられているから、聖書が1つであると気がつけない。プラス、聖書の最初の部分をヘブライ語で書かれた意味を、正しく紐解き解説され教えられることがないから分からないだけなのです。

 

そして西洋人が作った教えや記念日を祝うことに、2世紀以降、異邦人は別の教えに乗り換えた、それが本当の理由です。神は人が作った記念日を祝うように、1度も命じてなどいないのです。

誕生日や結婚記念日や国の記念日を祝うのは、それは人の記念日なので、自由です。神が創造された記念日は神が呼び出している日であり、神の子らは、神の記念日を皆で祝うことで、世界に

イエシュアを伝える役割をあたれられているのです。

神の記念日は全て、イエシュアの業を網羅しているからです。

 

私は、西洋宗教の教えを信じて聞いてた時には、この事実にまるで気がつくことなどできませんでした。それが本当であり、それが昇天以降の最新式の教えだと、聖書には実際に1つも書いてないことを信じていた。いや聖書の最初に何が本当に書いてあるのか、まるで知らなかったからです。

でも新月が到来し、再び明るくなる、神の言葉をはっきり知る、気が付く時が訪れているのです。

シャバットは神が創造された日、7日間唯一聖別された日は、

第七日目であり、第一日目=日曜日ではありません!

自分がどう思うとか、人がどう言うからではなくて、「聖書に本当は何と書いてあるか」自分で確かめれば、そこに永遠の真実が

記されています!もし、神が神のシャバットを、昇天以降第七日目から、1日目=日曜に変更したと書いてあると主張するなばら、その証拠を、ぜひ聖書の記述から教えてください!

そんなん記述は無い、あるわけないですが。聖書には書いて無い事を、書いてあるが如くに信じる=空気椅子に座る、空想を信じる事と同じなのです。聖書に根拠がない人の教えに過ぎない。

神が聖別された日と、人が聖別された日は違う性質です。

神が聖別された日は、神が人を呼び出している日で、人が聖別した日曜日は人が人を呼び出している日であり、神が人を呼び出している日ではありません。もし神が聖書に、神の記念日の暦のにっていを間違えて書いてるなら、人は正しく神の呼び出し日を

知ることはできないのです。

こんなシンプルな事実を、昇天以降は、メシアの復活を記念して安息日は日曜日である!と異邦人が変えてしまいました。

イスラエルの神=イエシュアはシャバットを日曜日に変更などと

変えていないことを、聖書から知ってください。人間が勝手に

どの日でも聖別された日であると決めて良いなどと、神は言う

わけありませんし、事実言ってなどいません。

聖別とは、神の目的通りに分たれたという意味、聖別が消えたら、境界線がなくなり、普通と聖別の区別がなくなります。

そんな奇妙な教えを、聖書と信じて教え、実行しているのです。

 

主日、安息日と西洋教父たちが、2世紀以降ローマ帝国の太陽神信仰の日、ローマ皇帝を拝む日=日曜日=太陽の日に変更したという事実を知らないとなりません。事実、聖書には日曜日が安息日に変更など、又人の意見で、どの日も安息日と、一体聖書のどこに書いてありますか?これを永遠に証明できないのは、神が

安息日を日曜日に変更したなどと、1度も言わない、書かれていないからです。

聖書に書いていないことを信じて、聖書に書かれていない神の教えではない、人の教えに乗り換えて2000年近く実践されているだけでなのです。自分で、真実だけを繋げて、よく考えたら見えてきます。

何曜日に集まるのは自由であり、交わりは大事です。お互いを

励まし、直接会って触れ合う時間は有意義で楽しいです。

でも第七日目のシャバット=聖日以外は、神が全員を呼び出しているアポントメントの日ではない!という、正しい認識をしてください。そして、神が聖別した日ではない日を、勝手に主日、

聖日と人間が偽証することを、神が禁じられていることを、

聖書から知っていますか?シャバットを破ることは、命に値するほど重たいと神は、シャバットの重要性を教えています。人間が理解してないだけで。

ヤラべアムの罪とずっと書かれているのは、ヤラべアムが高き所を作り、人間の教えと神の教えを混ぜ、神の記念日=仮庵の祭りを別の日に、勝手に変えて祝ったこと、エルサレム以外の場所に祭壇を作って、レビ族ではない祭司を任命したこと。2世紀以降、異邦人は神の記念日を、人間が勝手に変えて、ヤラベアムと同じことをするように教えられ、それをずっとやっているのです。1列王記12:26-33

神は、神が提示した、教えたことを生きて、神が創造された神が祝いなさいという記念日を神の子ら全員が祝うことに招いているのです。分裂した家族は、分裂の記念日を祝う、でもイエシュアが再び地上に戻られたら、異邦人もイスラエルも全員シャバット=第七日目と神の記念日を祝うと預言されていることを知っていますか?

 

今は地上でのリハーサルの時、修復され1つ体として、イスラエルの同じ神の婚姻契約=教えを生きることに招かれていると

書いてあるのです。どこがズレているか、見えますか?

 

人の決めた日にそれぞれの目的で集うだけで、それは神の聖日、主日、神が呼び出している日では永遠になりません。至極シンプルな事実なのです。誰でも理解しようとすれば、はっきりと理解できることなのです。

なんでも良い、いつでも良い、聖日シャバットはいつでも良い、神はそんないい加減なことを人には言いませんし、それでは神が嘘つきになります。

偽ることができないと言われた神、神が「永遠に代々祝われる

わたしの記念日」と人に紹介した記念日の暦は永遠の証拠として、レビ記23章にその完全版が記されています。

神の記念日の中心はシャバットです。

 

異邦人は十戒=10の言葉の、第4番目を変更しました。

これは、カトリック〜西洋教父達が1世紀後半以降に、「我々異邦人は、復活の日 日曜日」を安息日とすると人間が宣言しただけです。ローマ帝国の神は、太陽神です。太陽神の大元はエジプトのラーです。だから、全部太陽神のシンボルの輪っかや光の光線が頭の上に乗っているでしょう。異教神のシンボル!それを

取り入れているのです。

そして、カトリックは、偶像を数多く作り設置しています。人間を神と同等に崇めている。尊敬を払うのと、崇拝するのとは、意味が違うのです。

人の特徴は、偶像=神が造ったものからしか、それを作り出せないことです。だから人や動物の形、偶像なのです。

そして、自分が考える「神像」を作り出すのです。

自分が考える神像=神が神の言葉を終了したというのも、偶像の神です!

 

神の言葉を人間が否定する罪は死に値する罪と気がつかないのは、神の言葉が終了という人間の教えを信じているから、何が罪なのか、罪の定義が書かれているモーセの五書にある、神の教えを捨てる人には、神が人に伝える罪が何かが、その詳細、全貌に本当には気がつけないのです。

 

そんな冒涜的な教えを、イエシュアを信じる異邦人の口から

サタンが語らせているのです。その裏にいる、神の言葉を否定し、なし崩しにし、神ご自身である言葉を人が勝手に仕分けて終了して良いと教える本物のスポークスマンは、イスラエルの神ではなく、サタン=神に敵対するものです。エデンの園から同じ作戦。イエシュアは、肉体を取ってこられた、生けるトラーと聖書に書いてあるでしょう?

そして、神の言葉=律法は十字架につけられたから終了!と言う

それこそが異端の教えです。そんなこと、聖書のどこに書いてありますか?書いてあるわけないです。神=言葉=イエシュア=聖霊と書いてあるからです。永遠に変わらない!と書いてあるからです。聖霊により書かれた言葉を、聖霊が否定し終了する?

神は神ご自身=言葉を否定できません!神は偽れないと人に教えているから。

イエシュアは十字架につかれて復活しました。イエシュア=言葉は永遠であり、サタンも人間も神の言葉を消そうとしても消せないということに気がついていないのです。

 

私達の戦いは、私達に挑戦してくるサタン、神の言葉を無効にし、なし崩しにし、蔑ろにし、重要ではないという意識を植え付ける教えであり、人間ではありません。人間を通して、サタンは働きますから、その悪に気をつけないとならないのです。

 

神の言葉、神の記念日は、神が伝える通りに知る人には、それらが永遠であると言う事実が理解できます。

異邦人の世界では、神の言葉を捨てるように教えられてきました。神の言葉が終了したという教え。奇妙な教えです。聖書を

正しく知らない異邦人の教師達、プロではない素人、2世紀以降そのようなヘブライ聖書の知識がない、パウロ達のように正しく聖書を学ぶ背景がない人々により、翻訳聖書から人の思想で勝手に聖書とは違う解説が作られてきました。

 

日本の歌舞伎を、何も知らない歌舞伎の素人のハワイアンフラダンサーに習うのと同じことをされてきたのです。

ヘブライのイエシュアが、西洋のジーザスに変化してしまったのです。でも、神は変わっていません!永遠の証拠として、ヘブライ聖書に、イエシュア=イスラエルの神の実態が書かれているからです。

 

続く