何とかなるさ...の世界!? -14ページ目

何とかなるさ...の世界!?

いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

 

 

歌うと、神の臨在から直接遠ざかってしまうような、ある種の歌がある事をご存知でしょうか。

 

世俗的な音楽の事を言っているのではありません。

 

多くのクリスチャンが教会でも歌っている曲の事です。

 

実際、多くのクリスチャンは音楽が霊的なものだと気付いていません。

 

また、教会で歌っている曲の中には、知らず知らずの内に神の臨在から遠ざかっているものもあるのです。

 

アモス書5章23節では、「あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない」、と言っています。

 

全能の神は、イスラエルの賛美歌の幾つかを騒音だと言って拒否されました。

 

これは孤立した出来事ではなく、今日でも私達の教会で起こっている事なのです。

 

このビデオでは、教会で歌うべきではない六つのタイプの歌を明らかにして行きます。

 

1)聖霊の霊感を受けていない曲

 

多くの信者は、歌詞にイエスが登場したり、聖書のフレーズが一つか二つ含まれていれば、その曲は神の霊感に違いないと思い込んでいます。

 

この危険な思い込みが、神の油注ぎを伴わない音楽を無数のクリスチャンが歌う事に繋がっています。

 

エペソ人への手紙5章18、19節で、パウロは信者達に霊に満たされ、詩や賛美や霊の歌とをもって互いに語り、主に向かって心から歌い、旋律を奏でるようにと教えています。

 

霊的な歌を歌う前に、霊に満たされている事が前提条件である事に注目して下さい。

 

ここで霊的という意味で使われているギリシャ語の語源はpneumatikosで、特に「聖霊に属するもの、聖霊によって決定されるもの」を意味します。

 

それは単に一般的な意味での宗教的、神聖という意味ではなく、具体的には「神の霊から直接流れ出るもの」という意味です。

 

クリスチャンが書いた全ての曲が、必ずしも聖霊の霊感を受けているとは限りません。

 

実際、今日人気のあるワーシップソングの多くは、この世的な響きを持っています。

 

本当の霊的遭遇を促すのではなく、感情的な反応を呼び起こすように設定された、世俗的な音楽制作で使われるのと同様の公式や技術を使って作られているのです。

 

これらの歌は気分を良くさせるかもしれませんが、霊的な力や油注ぎはありません。

 

それ故、多くのクリスチャンは、自分が経験した霊的遭遇よりも、歌によってどう感じたかを語るのです。

 

御言葉を通して、神の霊感を受けた音楽は常に深い霊的効果をもたらして来ました。

 

第一サムエル記16章28節にあるように、ダビデがハープを奏でると、悪霊はサウルから逃げ去りました。

 

パウロとシラスが獄中で賛美を歌った時、土台が揺れ、鎖が解かれました。

 

使徒16章25、26節にあるように、真の霊感を受けた礼拝は、明らかな霊的権威へと導きます。

 

しかし、その曲が本当に聖霊によって霊感を受けたものかどうか、どうやって見分ける事が出来るのでしょうか。

 

まず、その実を調べるのです。

 

その歌は単に感情をかき立てるだけなのか、それとも神の臨在を伴う霊的訪れを促すものでしょうか。

 

それは、単独の表現だけでなく、そのメッセージと神学全体において、御言葉と完全に一致しているでしょうか。

 

純粋な祈りと神との交わりから生まれたものなのか、それとも商業的な成功を収めるために作られたものでしょうか。

 

今日、教会で使用されている曲の多くは、スタジオで世俗的なヒット曲と同じ技術や方式を使って作られたもので、霊的な効力よりも、むしろ覚え易く感情をかき立てる事を主眼に置いています。

 

ワーシップアーティストの中には、祈りや神への追求を通して生まれた曲よりも、ウケそうな曲に基づいて曲を書いている事を認めている者さえいます。

 

真の礼拝とは、霊的な降伏の行為であり、娯楽ではありません。

 

聖霊の霊感を受けていない歌は、私達を楽しませ、霊的な感情を抱かせる事はあっても、神が受け入れる本物の礼拝を促す事は出来ないのです。

 

ヨハネによる福音書4章24節でイエス様が教えられた事を思い出して下さい。

 

神は霊であり、神を礼拝する者は霊と真をもって礼拝しなければならないという事を...。

 

2)御言葉に基づかない歌

 

危険な教会音楽の二番目は、霊的でありながら確固たる御言葉の土台を持たない歌です。

 

これらの曲には、漠然とした霊的な言葉や、一般的なクリスチャンのキャッチフレーズ、或いは御言葉に基づかない感情的な宣言が含まれている事が多いのです。

 

コロサイ人への手紙3章16節で、パウロは信者達に、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい」と教えています。

 

パウロが適切な礼拝を、キリストの御言葉が私達の内に豊に宿っている事と直接結び付けている事に注目して下さい。

 

聖書的礼拝は、聖書的真理の延長であり、また表現なのです。

 

詩篇は、敬虔に承認された礼拝の最も明確な模範を示しており、注意深く読むなら、それらは神の本質を扱った御言葉である事に気付きます。

 

今日、人気のある教会の歌の多くは、聖書の真理から神への理解を微妙にずらすような、問題のある神学が含まれています。

 

神の愛を強調する一方で、神の神聖さ、正義、主を畏れる事を完全に無視している曲もあります。

 

また、イエス様が強調された弟子としての犠牲や代償をないがしろにし、個人的な祝福のみに焦点を当てているものもあります。

 

実際、ワーシップソングの中には、神秘的なチャントや、未知の異言のフレーズが解釈なしに含まれているものもあります。

 

つまり、意味不明な言葉を唱えたり、繰り返したりしているのです。

 

意味が分からないものを歌うのはとても危険です。

 

ワーシップリーダーが他の言語や異言で歌をリードしたいのであれば、その歌の意味を解釈したり、説明したりしなければなりません。

 

特にチャンティングのようなものは、何か別の事を歌っているのかもしれないので、意味を知らずにただ言葉を繰り返すべきではありません。

 

それ故、歌う前に歌詞の意味を知る事が肝心です。

 

ある宗教では、チャンティングは別の領域(霊界)に入るための方法なのです。

 

そして、クリスチャン達は、その意味を知らない曲を紹介し始めますが、その意味を知る事は重要です。

 

ただコピーするだけでなく、どういう意味なのかを尋ね、異言であれば解釈を求め、分からない事を簡単に歌わない事です。

 

第一コリント14章15節でパウロは、「ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう」、と書いています。

 

異言は聖書的なものですが、パウロは礼拝で宣言する内容を理解する事の重要性を強調しています。

 

実際、彼は第一コリント14章9節で、「それと同じように、あなたがたも、舌で明瞭なことばを語るのでなければ、言っている事をどうして知ってもらえるでしょう。それは空気に向かって話しているようなものです、と言っています。

 

11節で彼は、「もし私がその言葉の意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です」と言っています。

 

古代ヘブライ人は、神の前で何かを宣言する事は霊的な重みがあると理解していたので、礼拝で歌う内容には非常に慎重でした。

 

ヘブライ語のzamaは、しばしば「歌う、賛美する」と訳されますが、文字通り、「弦に触れる事、声を伴う音楽を奏でる事」を意味し、特に神の御性質と御業に関する真理を賛美し、宣言する歌詞を伴います。

 

現代の礼拝の中には、マントラ(真言)を繰り返し唱えるものがありますが、これは聖書的な礼拝というよりも、むしろ東洋の瞑想法に近いといえます。

 

3)世俗的なメロディーとビートを持つ曲

 

三番目は、聖書の歌詞を持ちながら、世俗的に霊的影響を持つ音楽に乗せて歌われる曲です。

 

霊的な領域では、音は歌詞を越えた力を持っています.

 

だからこそ神は、神殿礼拝でどの楽器や音楽形式が受け入れられるかについて、非常に具体的に示されたのです。

 

アモス書5章23節で、神はイスラエルに「あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない」、と言っています。

 

神が彼らの礼拝を拒んだのは、歌詞が間違っていたからではなく、音楽の背後にある霊的な状態や、音楽形式そのものが腐敗していたからなのです。

 

ここで騒音を意味するヘブライ語はhammonで、「騒々しい音」「混乱した音」を指します。

 

神聖な特徴を失ってしまった音楽...。

 

今日の多くの教会の歌は、単に世俗的な音楽スタイルにキリスト教的な歌詞の洗礼を受けているだけで、それが音楽の霊的本質を変容させると素朴に思い込んでいるのです。

 

しかし、ある種のリズム、コード進行、ヴォーカル的な背景で特別に開発されたものなのです。

 

古代ヘブライ人は、ある種の音楽とパターンが礼拝にふさわしく、そうでないものはふさわしくないと理解していました。

 

イスラエルで礼拝を確立したダビデは、単に演奏が巧みであるだけでなく、預言者的な感性を備えた演奏者を任命しました。

 

第一歴代誌25章1~3節には、ダビデが竪琴と十弦の琴とシンバルを用いて預言する者達を任命したと書かれています。

 

特定のビートパターンやリズムは、官能的な感情を刺激するために特別に開発されました。

 

これらの音楽携帯にイエスをテーマにした歌詞を加えるだけでは、その霊を聖める効果はありません。

 

神がイスラエルに対して、食事から衣服、礼拝の習慣に至るまで、あらゆる面で周囲の国々と一線を画するよう指示した事を考えてみて下さい。

 

この分離の原則は恣意的なものではなく、完全性と汚染に関する霊的な現実を反映したものでした。

 

第二コリント人への手紙6章17節で、パウロはこの神の原則に共鳴しています。

 

「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れる。」

 

教会音楽が歌詞を除けば、この世の音楽と区別がつかなくなった時、その音楽は定められたものを失っているのです。

 

ヘブライ語のkadosh或いは「聖性」という概念は、文字通り「離れている」「区別されている」、そして「異なっている」という意味です。

 

4)真実よりも人間の感情を優先させる曲

 

危険な音楽の四番目は、神の真理よりも感情的な体験を優先する曲です。

 

これらの曲は、神との真の霊的対話を促すためというよりは、むしろ力強い感情を生み出すために作られています。

 

ヨハネの福音書4章24節でイエス様は、真の礼拝者は霊と真をもって礼拝するのであり、御父はそのような礼拝者を求めておられるのだと教えておられます。

 

イエス様は霊と真理の両方に等しく重きを置いている事に注目して下さい。

 

現代のワーシップソングの多くは、感情を揺さぶる事と勘違いされますが、神学的真理には著しく欠けています。

 

ここで危険なのは、聖霊の関与の有無に関わらず、音楽的技術や照明、群集心理によって感動的な体験が創作されてしまう事です。

 

サタンはこの事を理解しており、教会に対してそれを悪用し、霊的なものを感じさせながらも、神の実体を欠く礼拝体験を作り出しています。

 

真の礼拝は、私達が感情的にそうあって欲しいと願うようにではなく、神が実際に存在するように神と関わらなければなりません。

 

単に私達を良い気分にさせる歌、挑戦する事なく絶えず肯定する歌、服従する事なく祝福を約束する歌、これらは、真理を伝える事無く感情を操作するものです。

 

今日、多くの礼拝者は礼拝が神を正確に表し、神との真の交わりを促すかどうかよりも、礼拝が自分達にどのような印象を与えたかによって、礼拝の質を判断しています。

 

これは霊的に危険な領域であり、感情は私達の存在の中で最も操られ易い側面だからです。

 

聖書の礼拝の原型であるダビデ王は、人間のあらゆる経験と感情を扱う詩篇を作りましたが、その感情は常に神の真理に支えられていました。

 

深い嘆きや疑問を口にする時でさえ、彼は常に神の性質、契約、命令という堅固な土台に立ち返りました。

 

現代のワーシップソングの多くは、神がどのようなお方であるかという事よりも、神が私達のためにして下さる事だけに殆んど焦点を当てています。

 

この微妙な変化が、信者が霊的に何を受け取ったかで礼拝を評価する、自己中心的な礼拝文化を生み出しています。

 

5)神よりも演奏者を賞賛する歌

 

危険な教会音楽の五番目は、神に注目するのではなく、演奏者の才能を誇示するために作られた曲が含まれます。

 

これらの曲には正しい神学と適切な音楽スタイルが含まれているかもしれませんが、そのアレンジ、複雑さや表現は、神の栄光よりも人間の能力を強調するものです。

 

ヨハネによる福音書3章30節でバプテスマのヨハネは、霊的ミニストリーに携わる者の正しい姿勢を明示しています。

 

「あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。」

 

この原則は、賛美の指導にも強力に適用されます。

 

神に心を向けるのではなく、演奏者に注意を向けるような音楽的要素は、この根本的な霊的原則に違反しています。

 

礼拝が神から人間の演奏者に栄光を移すと、それは霊的に軽いものとなり、純粋な礼拝を特徴づける実質と力を失う事になります。

 

今日の多くの教会では、礼拝は演奏様式へと進化しており、信徒はワーシップソングを単にリーダーが歌うから好きなのであって、その歌の意味から好きになるのではありません。

 

イザヤ書42章8節には、神の宣言が記されています。

 

「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄光を刻んだ像どもに与えはしない。」

 

神は礼拝におけるご自身の栄光のために嫉妬されます。

 

演奏者達が礼拝を自己宣伝の場として使ったり、自分の音楽キャリアを向上させるために足を踏み入れる事になるのです。

 

聖書に記されている古代の神殿礼拝には、彼等の技術は、個人の才能を発揮するためではなく、集団礼拝を促進するために特別に捧げられていました。

 

第一歴代誌15章22節には、レビ人の音楽指導者ケナスヤが巧みであったために、歌について指導した事が書かれています。※なぜか新改訳聖書では荷物係と記されています。

 

彼の腕前は、自分への注目を集めるためではなく、他の者達がより良く礼拝できるようにするために用いられたのです。

 

今日のワーシップ業界は、ワーシップリーダーを中心とした人物崇拝を助長する事が多いのです。

 

人気のあるワーシップアーティストが特徴的なヴォーカルスタイルを開発し、信奉者達は神との本当の交わりを発展させるのではなく、そのスタイルを模倣しようとします。

 

これは、信者が自分自身で神の御前に入るよう導くのではなく、特定の感情的体験を特定の人間のパフォーマーと関連付けるという、危険な霊的依存を生み出します。

 

6)原曲が世俗的な歌

 

危険な教会音楽の六番目は、もともと世俗的な目的で作られた歌を教会の歌に転用したものです。

 

もともと恋愛相手へのラブソングとして、或いは世間への娯楽として作られた曲には、その霊的DNAが音楽構造に刻み込まれています。

 

歌詞を変えただけでは、その創作に込められた霊的要素は変わりません。

 

第二コリント人への手紙6章14節にかけて、パウロはこう問いかけています。

 

「正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。キリストとベリアル(邪悪な者)とに、何の調和があるでしょう。」

 

これらの原則は、もともとこの世的な目的のために作られた音楽にもそのまま適用されます。

 

ヘブライ語の献身の概念であるkadesh(神聖さ)は、神の用途のためだけに何かを区別することを意味します。

 

神殿礼拝では、神に捧げられた物は、それまで一般的な用途に使われる事はありませんでした。

 

それ以前の使用は、単なる意図では簡単に破られない霊的な繋がりを生み出します。

 

エペソ人への手紙5章19節で、パウロは信者達に、主に向かって心の中でメロディーを奏でなさいと教えています。

 

ここで旋律を奏でるという意味で使われているギリシャ語はpsalloで、文字通り「弦を弾く、叩く」という意味があります。

 

これは外面的な音楽だけでなく、音の背後にある内面的な霊的起源や意図を指しています。

 

礼拝音楽の出所と起源は、霊的な領域において非常に重要です。

 

多くのワーシップリーダーは、人気のある世俗的なメロディーや曲の構成を、キリスト教的な歌詞にただ重ねるだけで、それが正当な賛美に変わると思い込んでいます。

 

しかし、霊的な領域では、基になるものが重要なのです。

 

もともと他人に対するロマンチックな感情や官能的な感情を呼び起こすために書かれた曲は、新しい歌詞が付けられようと、その音楽的DNAそのものにその意図が宿っています。

 

第一サムエル記16章14~23節には、ダビデがサウルのために琴を弾くと、悪霊が去った事が記されています。

 

ダビデが、エホバについての新しい歌詞を付けたペリシテ人の人気曲を採用しなかった事に注目して下さい。

 

彼はもともと礼拝のために作られた音楽を演奏しました。

 

その力は、奏楽者の油注ぎと音楽本来の霊的目的の両方にあったのです。

 

古代イスラエル人は、異教徒の礼拝習慣がヤハウェに向けたものだったとしても、それを取り入れることを厳しく禁じられていました。

 

出エジプト記32章で、イスラエルの民が金の子牛を造った時、彼等は主のために祝宴を開いていると主張しました。

 

しかし、5節で彼等はそのためにエジプトの霊感を受けた礼拝方法を用いていたのです。

 

神はこの融合主義的なアプローチを真向から否定されました。

 

出エジプト記32章では、イスラエルの民が神が定められたものではなく、自分達の感覚に基づく礼拝を作り上げた時、いかに素早く偶像礼拝に陥ったかが分かります。

 

彼らの金の子牛崇拝には、音楽と踊りが含まれており、彼等は心から神に敬意を表していると信じていました。

 

しかし、モーセはそれをすぐに堕落したものだと見抜いたのです。

 

18節でモーセは言います。

 

「それは勝利を叫ぶ声ではなく、敗北を嘆く声でもない。私の聞くのは、歌を歌う声である。」

 

モーセはそれを礼拝とも賛美とも言っていません。

 

彼はそれを騒音と呼びました。

 

これは、アモス書5章23節で神が妥協した礼拝の騒音と語っているのと完全に一致しています。

 

これは、霊的に堕落した礼拝は例え誠意であったとしても、神への甘い香りのする供え物ではなく、霊的な領域では単なる騒音になってしまうという事です。

 

イエス様はマタイの福音書9章17節でこう教えられました。

 

「また、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、皮袋は裂けて、ぶどう酒が流れてしまい、皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒を新しい皮袋に入れれば、両方とも保ちます。」

 

この原則は礼拝にも当てはまります。

 

聖霊のために創られたオリジナルの音楽による新しいぶどう酒の皮が必要なのであって、この世のために設計されたオリジナルの器を使い回しする必要はありません。

 

礼拝歌を調べる時は、その起源を調べて下さい。

 

このメロディーは、もともとラブソングとして作られたものなのか、パーティー賛歌なのか、それともポップスのヒット曲にキリスト教の歌詞を付けたものなのか...と。

 

もしそうなら、霊的な見識は、世俗的なものから持ち込まれた礼拝ではなく、祈りと神との交わりから生まれた礼拝を見つけるように示唆しています。

 

歌にイエスが登場したり、聖書の言葉が使われているからといって、その歌の出所が自動的に神聖化される訳ではない事を覚えておいて下さい。

 

音楽の霊的DNAは、歌詞の内容を超越し、その本来の目的と創造の痕跡を伝えます。

 

純粋な礼拝を求める信者として、私達はそのメッセージと媒体について警戒しなければなりません。

 

 

 

 

 

 

人が思い描く完全と神様が私達に求めている完全とには違いがあるという事が、聖書から読み取れます。

 

What we can read from the Bible is that there is a difference between the perfection that men envision and the perfecion that God demands of us.

 

第二歴代誌15章17節/2Chronicles 15:17 (HNV)

高き所はイスラエルから取り除かれなかったが、アサの心は一生涯、完全であった(主と全く一つになっていた)

 

But the high places were not taken away out of Yisrae'l: nevertheless the heart of Asa was perfect (utterly one with the Lord) all his days.

 

マタイ5章48節/Matthew 5:48

だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全(主と全く一つ)でありなさい。

 

Therefore you shall be perfect (utterly one with the Lord), just as your Father in heaven is perfect.

 

へブル13章/Hebrews 13

20)永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神が、

 

Now may the God of shalom, who brought again from the dead the great shepherd of the sheep with the blood of an eternal covenant, our Lord Yeshua,

 

21)イエス・キリストにより、御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行ない、あなたがたがみこころを行なうことができるために、すべての良いことについて、あなたがたを完全な者(主と完全に一体となった者)としてくださいますように。どうか、キリストに栄光が限りなくありますように。アーメン。

 

Make you complete (utterly one with the Lord) in every good work to do his will, working in you that which is well pleasing in his sight, through Yeshua the Messiah, to whom be the glory forever and ever. Amein.

 

第一ペテロ5章10節/1Peter 5:10

あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全(主と全く一つ)にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

 

But may the God of all grace, who called you to his eternal glory by Messiah Yeshua, after you have suffered a little while, perfect (utterly one with the Lord), establish, strengthen, and settle you.

 

神にあって人が完全であるという意味は、その人の心が完全に主と一体である事を示しています。

 

The meaning of a person's perfection in God indicates that the person's heart is completely one with the Lord.

 

ローマ13章/Romans 13

11)あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。

 

Do this, knowing the time, that it is already time for you to awaken out of sleep, for salvation is now nearer to us than when we first believed.

 

12)夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、(キリスト)の武具を着けようではありませんか。

 

The night is far gone, and the day is near. Let's therefore throw off the works of darkness, and let's put on the armor of light (Christ).

 

13)遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。

 

Let us walk properly, as in the day, not in reveling and drunkness, not in sexual promiscuity and lustful acts, and not in strife and jealousy.

 

14)(光の)主イエス・キリストを着(て一つになり)なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

 

But put on (and become one with) the LORD Yeshua the Messiah (of light), and no provision for the flesh, for its lusts.

 

ピリピ1章6節/Philippins 1:6

あなたがたのうちに良い働きを始められた方(聖霊)キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。

 

Being confident of this very thing, that he who began a good work in you will complete it (Holy Spirit) until the day of Yeshua the Messiah.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第二歴代誌16章/2Chronicles 16 (HNV)

9)主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。あなたは、このことについて愚かなことをしました。今から、あなたは数々の戦いに巻き込まれます。

 

For the eyes of the LORD run back and forth throughout the whole eretz, to show himself strong in the behalf of them whose heart is perfect toward him. Herein you have done foolishly; for from henceforth you shall have wars.

 

12)それから、アサはその治世の第三十九年に、両足とも病気にかかった。彼の病は重かった。ところが、その病の中でさえ、彼は主を求めることをしないで、逆に医者を求めた

 

In the thirty-ninth year of his reign Asa was diseased in his feet; his desease was exceeding great: yet in his desease he didn't seek the LORD, but to the physicians.

 

ヨブ記34章21節/Job 34:21

神の御目が人の道の上にあり、その歩みをすべて見ているからだ。

 

For his eyes are on the ways of a man, He sees all his goings.

 

詩篇33篇/Psalm 33

13)主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる

 

The LORD looks from heavens. He sees all the sons of men.

 

14)御住まいの所から地に住むすべての者に目を注がれる

 

From the place of his habitaion he looks out on all the inhabitants of the eretz.

 

15)主は、彼らの心をそれぞれみな造り、彼らのわざのすべてを読み取る方。

 

He who fashions all of their hearts; And he considers all of their works.

 

18)見よ。主の目主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

 

Behold, the LORD's eye is on those who fear him, On those who hope in his lovingkindness.

 

19)彼らのたましいを死から救い出し、ききんのときにも彼らを生きながらえさせるために。

 

To deliver their soul from death, To keep them alive in famine.

 

箴言5章/Proverbs 5

21)人の道は主の目の前にあり、主はその道筋のすべてに心を配っておられる。

 

For the ways of man are before the eyes of LORD. He examines all his paths.

 

22)悪者は自分の咎に捕えられ、自分の罪のわなにつながれる。

 

The evil deeds of the wicked ensnare him. The cords of his sin hold him firmly.

 

23)彼は懲らしめがないために死に、その愚かさが大きいためにあやまちを犯す。

 

He will die for lack of instruction. In the greatness of his folly, he will go astray.

 

箴言15章3節/proverbs 15:3

主の御目はどこにでもあり、悪人善人とを見張っている

 

The LORD's eyes are everywhere, keeping watch on the evil and the good.

 

ゼカリヤ書4章10節/Zechariah 4:10

だれが、その日を小さな事としてさげすんだのか。これらは、ゼルバベルの手にある下げ振りを見て喜ぼう。これらの七つは、全地を行き巡る主の目(七つの御霊)である。

 

Indeed, who despise the day of small things? For these seven shall rejoice, and shall see the plumb line in the hand of Zerubbavel. These are the eys of the LORD (seven spirits of God), which run back and forth through the whole eretz.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結構多くの見分けチャンネルがゴシップチャンネルと間違えられているようです。

 

ゴシップとは、通常、真実かどうか確認されていない曖昧な詳細を含む他人についての気軽な会話や噂などを意味します。

 

しかし、殆んどの見分けチャンネルは、偽教師に惑わされている人々を助けるために、彼等(偽教師達)が実際に行っている事、或いは偽って教えている事のクリップを見せながら、聖書の記述と照らし合わせています。

 

それは、ゴシップではなく懸念です。

 

 

 

第一ヨハネ4章1節/1John 4:1(HNV)

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。

 

Beloved, don't believe every spirit, but test the spirits, whether they are of God, because many false prophets have gone out into the world.

 

第一コリント12章10節にあるように、霊を見分ける力も御霊の賜物の一つです。

 

The discerning of spirits is also one of the gifts of the Spirit, as 1 Corinthians 12:10 says.

 

第一テサロニケ5章/1Thessalonians 5

21)すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

 

Test all things, and hold firmly that which is good.

 

22)悪はどんな悪でも避けなさい。

 

Abstain from every from of evil.

 

第二ペテロ2章/2Peter 2

1)しかし、イスラエルの中には、にせ預言者もでました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています

 

But there also false prophets among the people, as among you also there will be false teachers, who will secretly bring in destructive heresies, denying even the Master who bought them, bringing on themselves swift destruction.

 

2)そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。

 

Many will follow their immoral ways, and as a result, the way of the truth will be maligned.

 

箴言13章20節/Proverbs 13:20

知恵のある者とともに歩む者は知恵を得る。愚かな者の友となる者は害を受ける。

 

One who walks with wise men grows, But a companion of fools suffers harm.

 

第一コリント15章/1Corinthians 15

33)思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。

 

Don't be deceived! "Evil companionships corrupt good morals."

 

34)目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。

 

Wake up righteously, and don't sin, for some have no knowledge of God. I say this to your shame.

 

箴言27章17節/Proverbs 27:17

鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。

 

Iron shapens iron; So a man shapens his friend's countenance.

 

 



 

 

 

優しさが弱さになる時

byポール・ウォッシャー牧師

 

兄弟姉妹の皆さん、私達は優しさが捻じ曲げられ、得体の知れないものになってしまった時代に生きています。

 

世の中は、優しさを単なる礼儀正しさ、寛容さ、誰も怒らせない事と再定義しています。

 

しかし、神が私達に求める優しさとは、勇気のない弱さでも真実を恐れる事でもありません。

 

それは、ただ快適さを保つために人々を罪の中に置き去りにする優しさではなく、また神を恐れる以上に拒絶を恐れる優しさでもないのです。

 

あなた方の多くは、クリスチャンであるという事は、決して悪に立ち向かわず、不快感を与えず、悪の前に毅然と立ち向かわないという事だと欺かれて来ました。

 

しかし、キリストを見て下さい。

 

彼は世の規準ではいつも良い人だったのでしょうか。

 

パリサイ派の人々の機嫌を損ねないようにしていましたか。

 

いえ、彼は彼等の偽善を暴き、盲目の案内人、白く塗られた墓、地獄の息子達と呼んだのです。マタイ23:27-33節

 

彼は神殿の腐敗のためにテーブルをひっくり返しました。ヨハネ2章15節

 

イエス様は人を喜ばせようとはしなかったとあり、父の意思を実行しようとしました。

 

優しさは、聖書とこの世の両方が強調する美徳でもあります。

 

しかし、それぞれの文脈における優しさの定義は大きく異なります。

 

聖書における優しさとは、真理と愛と義への願いに根ざしているのです。

 

この世的な優しさは、寛容さや争いの回避、人間的な承認によってもたらされる事が多いのです。

 

この違いを理解する事が重要です。

 

なぜなら、多くの信者が欺かれ、偽りの優しさを受け入れており、それは結局、信仰を危うくし、人々を神の方へではなく、神から遠ざけている事になるからです。

 

この世的な優しさとは、人を良い気分にさせる事に主眼を置いています。

 

それは、説明責任のない受容矯正のない慰安真実のない愛を促進するものです。

 

その最も愛に満ちた行動とは、神の意思に沿うものであるかどうかに関係なく、人々がどのような選択をしても、それを肯定する事であるという信念に基づいています。

 

この種の優しさは、罪や悔い改めについての難しい会話を避けます。

 

そのような議論が人々を不快にさせたり、遠ざけたりする事を恐れているのです。

 

しかしながら、箴言4章12節は警告しています。

 

一見正しいように見える道ですが、結局は死につながる道となるのです。

 

罪と向き合おうとしない優しさは、優しさとは言えません。

 

それはごまかしです。

 

一方、聖書的な優しさは遥かに深く、意味のあるものです。

 

それは単に人々を良い気分にさせることではなく、真に良いお方である神ご自身へと導く事なのです。

 

エペソ4章16節には、愛を持って真実を語るよう私達に呼びかけています。

 

つまり、優しさとは、罪を前にして沈黙する事ではなく、大胆に、でも愛情を持って人々に義を指し示す事なのです。

 

イエス様はそのミニストリーを通して、このような優しさを示され、罪人を憐れみました。

 

しかし、決して彼等の罪を容認した訳ではありませんでした。

 

姦淫で捕らえられた女に出会った時、彼女を赦しましたが、同時に、「行って、もう罪を犯してはならない」とも命じました。ヨハネ8章11節

 

彼の優しさは受動的な承認ではなく、能動的な救済でした。

 

この世的な優しさは、人間に対する恐れによって突き動かされています。

 

聖書的な優しさは、神を畏れる心によってもたらされます。

 

もし私達が、人々の永遠の魂よりも一時的な感情を気にかけるなら、それは真の優しさを実践していない事になるのです。

 

ガラテヤ1章10節は、私達に気付かせてくれます。

 

もし私がまだ人々を喜ばせようとしているなら、私はキリストに仕える者ではありません。

 

真の優しさは真理を損ないません。

 

神が悪と呼ぶものを容認しません。

 

それは、罪人に悔い改めを求めるのに十分大胆であり、反対を押し切って立ち上がるのに十分強いものなのです。

 

この世の価値観と一致しながらも、神のことばと矛盾する優しさは、優しさでは全くありません。

 

それは危険な嘘です。

 

真理に妥協する事は、今日のクリスチャンが直面する最大の危険の一つです。

 

真理よりも寛容、信念よりも慰めを重んじる世界では、多くの信者が対立や批判、拒絶を避けるために聖書の原則に対する姿勢を軟化させています。

 

しかしながら、真理が損なわれると、教会はその力を失います。

 

信者はその基盤を失い、世界は救い主の御子という唯一の希望を失います。

 

真実は主観的なものではありません。

 

それは絶対的なものなのです。

 

ヨハネ17章17節には、「真理によって彼らを聖めてください。あなたの御言葉は真実です」とあります。

 

神の御言葉の真理を薄めて社会に受け入れやすくする時、私達は愛を示しているのではなく、霊的反逆を犯しているのです。

 

神の規準を人間の承認と交換した瞬間、私達はキリストの忠実な証人ではなくなります。

 

イエス様ご自身もマルコ8章38節で警告しています。

 

このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。

 

真実が危うくなる危険性は、歴史を通しても明らかです。

 

旧約聖書のイスラエルは、神の命令から何度も背を向け、周囲の国々の道に従いました。

 

彼等は異国の神々を取り入れ、この世の慣わしに従った結果、神の裁きに直面しました。

 

同じ危険が今日も存在しています。

 

教会が罪や悔い改めや聖さについて説教するのを止め、この世の傾向にあわせるようになると、人々を神に近づけるどころか、神から遠ざけてしまう事となるのです。

 

妥協された真実の最も欺瞞的な面の一つは、聖書の真実が殆んど分からなくなるまで、小さな譲歩や軟化した態度から始まる事です。

 

今日、多くの教会が性的不道徳、キリストの排他性、地獄の現実など、論争の的になる問題について語る事を避けています。

 

しかし、福音そのものは、それを拒否する人々にとっては不快なものなのです。

 

第一コリント1章18節

十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

 

真実は決して大衆受けするためのものではなく、人々を自由にするためのものでした。ヨハネ8章32節

 

もし私達が真理に妥協するなら、キリストを裏切る事になります。

 

もし私達が神を畏れるよりも人間を恐れるなら、私達は既に道を失っています。

 

ガラテヤ1章10節はこう問いかけます。

 

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや、神にでしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうとしているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

 

「イエス様に従いなさい」という呼びかけは、たとえそれが困難であっても、「しっかりと立ちなさい」という呼びかけなのです。

 

神の永遠の真理を、人間の自由な承認と引き換えにしてはいけません。

 

現代人の多くは、イエス様について、いつも穏やかで愛想が良く、世の中が定義するような親切な人という誤ったイメージを持っています。

 

彼等は、イエス様は争いを避け、決して辛辣な言葉を口にせず、人々と接する時にはいつも穏やかだったと信じています。

 

しかし、実際のところ、イエス様は人間的な規準からすれば、いつも良い人だった訳ではありません。

 

彼は正義感が強く、大胆で、罪に立ち向かう事を恐れませんでした。

 

イエス様の愛は、全ての人の選択を受動的に受け入れるものではなく、人々に悔い改め真理を呼びかける聖なる愛でした。

 

イエス様は、叱責を必要とする者を叱責する事を恐れませんでした。

 

マタイ23章では、パリサイ派の人々の宗教的誇りと欺瞞のゆえに、彼等を白く塗られた墓偽善者だと呼んでいます。

 

彼は彼等の偽りの正義を公に暴き、神の裁きが来る事を警告しました。

 

これは残酷な行為ではなく、愛によるものでした。

 

なぜなら、偽教師は人々を破滅に導くからです。

 

そしてイエス様は、その優しさの中で警告し救おうとされ、正しい怒りを示されました。

 

ヨハネ2章15ー16節で、彼は神殿に入り、人々がそこを市場にして使っているのを見つけました。

 

これに対して、彼は鞭で彼等を追い払い、テーブルをひっくり返して「父の家を市場にするな」と宣言しました。

 

これは怒りを押さえ切れなかったのではなく、神の権威を示した瞬間でした。

 

イエス様は神の神聖さについて情熱的でした。

 

そして、礼拝のための場所の腐敗を許しませんでした。

 

イエス様が人々を怒らせるような厳しい真理を語られたのも、この時期でした。

 

ヨハネ6章で、彼は命のパンであり、彼によってのみ人々は永遠の命を得る事が出来ると教えられました。

 

信奉者の多くは、「これは難しい教えだ。誰が受け入れられるだろうか」と言って背を向けました。

 

それでも、イエス様はより受け入れ易くするために説教を変える事はしませんでした。

 

彼は群衆を喜ばせるために言葉を和らげたりはしませんでした。

 

その代わり、彼等を帰らせました。

 

彼は人気ではなく、真実の立場に立っていたからです。

 

イエス様は憐れみ深く、愛に満ちておられました。

 

しかし、その愛は弱くも妥協的でもなかったのです。

 

彼は罪人に悔い改めを求め、偽善を叱責し、たとえそれが不人気であったとしても、神の真理を堅く守りました。

 

キリストに従う者として、私達はキリストの人格を反映するよう求められているのです

 

つまり、私達は愛と忍耐を持たなければならないのと、また、真理のために果敢に立ち向かわなければならないのです。

 

キリストのようであるという事は、この世の規準による良い人であるという意味ではありません。

 

それは、たとえ全てを犠牲にしても神に忠実である事を意味します。

 

真の愛とは、単なる承認受動的な肯定ではありません。

 

その中には矯正、指導、そして必要な場合には叱責も含まれるのです。

 

この世の愛とは、人の選択を疑うことなくありのままを受け入れる事だと教えています。

 

しかしながら、聖書的な愛は遥かに深く、変革をもたらすものです。

 

人々を罪の中に置き去りにせず、悔い改めと義を呼びかけます

 

誰かを愛するとは、その人の永遠の運命を思いやる事なのです

 

神の民に対する愛には、常に矯正が含まれています

 

へブル12章6節には、「主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである」とあります。

 

調度、愛情深い親が子供のために矯正するように、神は自分の子供達を破滅から守るために矯正します。

 

もし神が罪を無視し、人々が結果なしに反抗を続けるのを許すとしたら、それは愛ではありません。

 

それは放棄です。

 

真の愛は、たとえ矯正が困難で痛みを伴うものであっても介入します。

 

イエス様はミニストリーを通して、この原則を示されました。

 

彼は罪人に対して深い憐れみを示す一方で、彼等の罪を決して免除しませんでした。

 

姦通で捕らえられた女を赦された時、単に「行って、好きなように生きなさい」とは言われず、かえって、「今すぐ行って、罪の生活から離れなさい」と命じました。ヨハネ8章11節

 

誰かを罪の中に放置する事は、一つの罪であり、愛でもなく、それは怠慢です。

 

使徒パウロもまた、矯正と愛の重要性を強調しています。

 

第二テモテ4章2節では、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい」と教えています。

 

愛とは、難しい会話を避ける事ではありません。

 

私達に出来る最も愛情深い事は、誰かにその行動の結果について警告する事だったりします。

 

そして、彼等を神の御言葉の真理に立ち返らせるのです。

 

対照的に、この世的な愛は拒絶されることを恐れて矯正を避けます。

 

神の真理よりも、人間の承認を優先するのです。

 

しかし、箴言27章6節は私達に気付かせてくれます。

 

憎む者が口づけしてもてなすよりは、愛するものが傷つけるほうが真実である。

 

真の友人、真の信仰者、真の牧者は、たとえそれが困難であっても真実を語ります。

 

矯正を含む愛は、神の心を反映する愛です。

 

非難はしませんが、罪を悟らせます

 

拒絶はしませんが、精錬します

 

本当に人を愛するなら、その罪を無視する事はありません。

 

私達は、彼等をそこから解放して下さる救い主の下へと導くのです。

 

人間に対する恐れと神に対する恐れは、私たちの生き方、価値観、そして誰を喜ばせようとするかを形作る、二つの相対する力です。

 

人間の恐れは、承認欲求と拒絶や迫害の回避に根ざしています。

 

その結果、人々は真実を語るべき時に妥協し、沈黙を守る事になるのです。

 

そして、神への服従よりも慰めを求めるのです。

 

対照的に、神を恐れるとは、神の神聖さ、力そして権威に対する深い畏敬の念です。

 

それは従順と勇気、そして何よりも主を敬う生き方につながります。

 

箴言29章25節は私達に警告します。

 

人を恐れるとわなにかかる。しかし主に信頼する者は守られる。

 

人間を恐れると、彼等の意見の奴隷になってしまいます。

多くの人は正義のために立ち上がる事をためらいます。

 

批判されたり、拒絶されたり、不寛容のレッテルを貼られたりする事を恐れているからです。

 

この恐れは、しばしば妥協につながります。

 

真実よりも沈黙を、従順よりも承認を、忠実さよりも人気を選びます。

 

しかし、イエス様はマタイ10章28節でそれを明言しています。

 

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはいけません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 

しかし、神を畏れる事は、知恵と力と自由をもたらします。

 

箴言9章10節は、「主を畏れる事は知恵の初めである」と始まっています。

 

神を畏れるとは、神の至高の権威を認める事であり、いつか裁きにおいて神の前に立つ事を深く自覚して生きる事なのです。

 

神を畏れる者は、人の意見に簡単に左右される事はありません。

 

なぜなら、人間の承認は一時的なものですが、神の裁きは永遠である事を知っているからです。

 

イエス様ご自身、人を恐れるのではなく、神を畏れる事を示されました。

 

彼は群衆や宗教指導者達、或いは弟子達の期待に合わせて説教を変える事はありませんでした。

 

拒絶され、迫害を受け、最終的には十字架につけられたとしても、彼は大胆に真理を語りました。

 

同様に、聖霊を受けた使徒達は、強大な権力者からの脅しにも関わらず、恐れる事なく福音を宣べ伝えました。

 

ペテロとヨハネがイエス様について宣教するのを止めるよう命じられた時、彼等は大胆にもこう宣言しました。

 

使徒5章29節

人に従うより、神に従うべきです。

 

人間への恐れに支配された人生は妥協につながりますが、神への畏れに根ざした人生は、忠実さ、大胆さ、そして永遠の報いをもたらします。

 

真の自由は人を喜ばせる事にあるのではなく、しかし、永遠をその手中に握っておられる方を讃えるために生きるのです。

 

真の優しさとは、単なる礼儀やお世辞、争いの回避ではありません。

 

それは真に大胆であり、義に揺るぎなく、神と他者への深い愛に根ざしています。

 

今日の世界では、優しさはしばしば、あらゆる行動、生活様式を疑うことなく受け入れる寛容さと再定義されます。

 

しかし、聖書的な優しさは、罪を無視したり、欺瞞に直面して沈黙したりするものではありません。

 

たとえそれが不快であったとしても、真実を語ります。

 

なぜなら、真実の優しさは、現世だけでなく、永遠に渡って他者にとって何が最善かを追求するからです。

 

エペソ4章15節は、真理と愛を語るよう指示しています。

 

つまり、これは真理と愛は相反するものではないという事を意味します。

 

それらは、一緒でなければなりません。

 

真実のない愛は、空しい感情です。

 

また、愛なき真実は、辛辣で無慈悲なものになりかねません。

 

しかしながら、私達が真に人を大切にする時、たとえそれが彼等を挑発し、有罪にするものであっても、私達は彼等に真実を伝えます。

 

もし、医者が患者の感情を傷つけたくないという理由で、死に至る病気である事を告げなかったとしたら、それは優しさではなく残酷さです。

 

同様に、罪とその結果について人々に警告する事を拒絶する事は、優しさではありません。

 

イエス様ご自身、真に大胆な優しさの完璧な模範でした。

 

彼は罪人に憐れみを示しましたが、姦淫で捕らえられた女に語りかける時、決して罪を容赦しませんでした。

 

彼は彼女を非難しませんでしたが、彼女の行動を肯定もしませんでした。

 

その代わりに、「今すぐ行って、罪の生活から離れなさい」と言われました。

 

イエス様の優しさが彼女を悔い改めへと導いたのであって、反抗し続けたわけではありません。

 

同じように、イエス様がパリサイ派の人々に立ち向かった時、彼等の賛同を得るために言葉を和らげるような事はありませんでした。

 

彼は大胆にも、彼等を盲目の案内人、白く塗られた墓と呼んだのです。マタイ23章27-28節

 

なぜなら、イエス様は偽りの宗教が人々を破滅に導く事を知っていたからです。

 

彼の優しさは、人々を一時的に良い気分にさせる事ではなく、救いに導く事でした。