何とかなるさ...の世界!?

何とかなるさ...の世界!?

いろいろごちゃ混ぜで書いてます。

 

チャーチアニティ(教会性)という言葉を知りませんでしたが、この言葉の意味は、イエス様についての神学や霊的な教えよりも、教会生活のキリスト教の習慣や教会の制度的伝統を実践することを重視し、イエス・キリストの教えについてではなく、教会生活に焦点を当てすぎる性質の事を言うのだそうです。

 

正に、今現在の多くの教会がチャーチアニティ化しているような気がしてなりません。

 

 

 

彼等は色々な事を沢山話し、そして招待状が届くと、まるで誰もが正気を失ってしまいそうになります。

 

誰かの所に歩いて行き、神は貴方を愛しており、そして貴方の人生に素晴らしい計画を持っていると言います。

 

それをアメリカ人に言うと想像します。

 

神は貴方を愛していて、貴方の人生に素晴らしい計画を持っています。

 

「何ですと?神が私を愛していると?それは素晴らしい!だって、私も自分を愛しているから!」

 

神は素晴らしい計画を持っています。

 

私も自分の人生の素晴らしい計画を持っています。

 

そして、私がもし私の人生の中に神を受け入れるなら、私は今、最高の人生を送れるでしょうか。

 

これは、全くもって素晴らしい事です。

 

それは、聖書的伝道ではありません。

 

その代わりのものをあげましょう。

 

神はモーセに来て、モーセはこう言います。

 

「主よ、主よ、神は情け深く恵み深く、怒るのに遅く、愛ある優しさと真実に満ち溢れ、不法、違反、罪を赦して下さる、何千人もの人々に愛ある優しさを持ち続けて下さる真理なお方です。」

 

とはいえ、罪を犯した者を罰せずにはおかないでしょう。

 

モーセの反応は、急いで地にひれ伏し、礼拝しました。

 

伝道は、神の性質から始まります。

 

神とは誰ですか。

 

人は自分の罪について何か認識できるでしょうか。

 

もし、彼が自分自身を比較する基準を持っていないとしたら?

 

もし、私達が何も言わなかったら?

 

しかし、肉欲をくずぐるような神に関するつまらない事で、その人が本物の悔い改めと信仰に導かれる事があるでしょうか。

 

私達は、神が貴方を愛しており、素晴らしい計画を持っているというところからは始めません。

 

私達はまず、神がどのようなお方であるのか、その全容を語ることから始めます。

 

そして、私達は最初から、それが彼の命を犠牲にするかもしれないと彼に言います。

 

その後、私達は探索的な質問をします。

 

「ねえ、貴方は罪人ですよね。」

 

数年前に母がガンで亡くなったようなものです。

 

医者がその日の内にやって来て、「やあ、バーブ、貴方はガンです。」と言うようなものです。

 

私達は、それを表面的に扱っています。

 

いや、待って、厳粛でも何でもない。

 

だから、貴方には恐ろしい病気があり、そして裁きが来ています。

 

というのも、もし貴方が男性に、「貴方は罪人です。行って悪魔に尋ねて下さい。もし、悪魔が罪人であると認めるなら、貴方は罪人です。」と言えば良いからです。

 

私は、「そうですね。」と言うでしょう。

 

見方によっては非常に良いもの、或いは、非常に悪いものになります。

 

しかし、そう、私は罪人なのです。

 

質問は、自分が罪人である事を知っているかどうかではなく、福音の宣教によって、聖霊が貴方の心に働きかけ、変化が起きたかどうかという事なのです。

 

かつて愛していた罪を今は憎み、かつて熱望して抱きしめていた罪を、まるでドラゴンから逃れるかのように、そこから逃げたいと思うのです。

 

それから質問です。

 

「貴方は、天国に行きたいですか。」

 

これが、私が子供達を98%の日曜学校や、休暇中の聖書学校、福音主義の教会に行かせたくない理由です。

 

というのも、イエス様の映画を上映した後、「イエス様って素晴らしいでしょう」と言って立ち上がるお人好しがいるからです。

 

あなた方の中で、イエス様を愛している小さな子供達は何人いますか。

 

誰がその小さな心にイエス様を受け入れたいと思うでしょうか。

 

そして、彼等は洗礼を受けるのです。

 

また、彼等はある種のキリスト教文化、つまり教会文化の中で育ったので、少々の歩みはするかもしれません。

 

そして、彼等が15、16歳になると、彼等の意思が強くなり、その束縛を断ち切り始めます。

 

邪悪な生き方を始めると、私達は「貴方はクリスチャンです。そのように生きてはいけません。後戻りしてはいけません。」と言いながら、彼等を追いかけます。

 

聖書的に彼等に言う代わりに、こう言うのです。

 

「貴方はキリストへの信仰告白をしました。洗礼の時もキリストを告白しましたが、今ではキリストから背を向けたようです。自分を吟味し、試しなさい。」

 

貴方が真に改心したという証拠は殆どありません。

 

そして、大学を卒業して24、25歳、おそらく30歳になると、彼等は自分の人生を再び教会に捧げ、アメリカの教会を包含する擬似キリスト教の道徳に直ぐに加わります。

 

そして終わりの時に彼等は、この言葉を耳にするのです。

 

「私はあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。私から離れて行け。」左矢印マタイ21章23節

 

貴方は、「ポール兄弟、貴方はとても怒っています。」と言うでしょう。

 

私には怒る権利がないのでしょうか。

 

誰かが怒るに違いありません。

 

リバイバルを叫んでも、私達にはその基盤が整っていません。

 

ああ、そのリバイバルが来て、私達の基盤を正すでしょう…。

 

目と耳を開いて聖書を目の前にしている時、私達はどうするでしょう。

 

正すべきではないでしょうか。

 

「天国に行きたいですか。」

 

親愛なる友よ、誰もが天国に行きたいと思っています。

 

彼等はただ、天国に着いた時に神がそこにいることを望んでいないのです。

 

質問は、「貴方は天国に行きたいですか。」ではありません。

 

質問は、「貴方は神を望みますか。貴方にとってキリストは貴重な存在となりましたか。貴方はキリストを望んでいますか。」です。

 

それが、(神の)政治理論の全てです。

 

親愛なる友よ、誰もが皆、天国に行きたいのです。

 

しかし、人間は神を憎んでいます。

 

つまり質問は、「もう傷つく事がなく、欲しい物が全て手に入る特別な場所に行きたいですか。」というのではありません。

 

質問は、「キリストを望みますか。貴方にとってキリストは貴重な存在となりましたか。」です。

 

多くの場合、人が祈った後、「天国に行きたいですか。」と言われます。

 

「はい、勿論。」

 

「では、心の中にイエス様が来て下さるよう祈ってみてはいかがでしょうか。」

 

その方法論を使って救われる人もいますが、その方法論によって救われる訳ではありません。

 

「貴方はキリストを望んでいますか。自分の罪が分かりますか。」

 

「ああ、はい、分かります。」

 

「ここで、悔い改めがどのようなものなのかを説明している幾つかの聖句を見てみましょう。聖霊が貴方の人生でこれが起こった事を証言していますか。砕かれているのが分かりますか。貴方が立ち向かって来た全てが崩壊し、今貴方の心は神についての新たな思いと新たな願望、新たな希望で満たされているのが分かりますか。」

 

「はい、分かります。」

 

それが今の悔い改めの最初の成果かもしれません。

 

キリストに身を委ねて下さい。

 

彼を信頼して下さい。

 

そして、私の話を聞いて下さい。

 

貴方には、人々に福音を伝える権威があります。

 

貴方には、どのように救われるか人々に教える権威があり、聖書の原則を教える権威もありますが、人々に彼等が救われていると伝える権威はありません

 

それは、神の聖霊の働きです。

 

しかし、その小さな事を彼等に説明する時、

 

「心の中にイエス様を迎えましたか。あなたは誠実だったと思いますか。」

 

「はい。」

 

「彼が貴方を救ってくれたと思いますか。」

 

「分かりません。」

 

「勿論、貴方が誠実だったので彼は貴方を救ったのです。そして、もし貴方が入って来るように頼めば、彼は入って来て、貴方が救われているのを確認すると約束されました。」

 

そして、5分間のカウンセリングの後、彼等は教会から出て行き、伝道者は食事をしにデニーズに行き、その人は(人生の)道に迷うのです。

 

その人は迷子です。

 

彼等が自分の救いを疑う事があるなら、それは非聖書的な招きです。

 

もう一度言いますが、もし彼等が自分達の救いに疑問を抱いているなら、ある時点に戻ってみることです。

 

「貴方の人生の中で、貴方は祈り、イエス様に来て下さいとお願いした事がありましたか。」

 

「はい。」

 

「貴方は誠実でしたか。」

 

「そう思います。」左矢印確信のない返事

 

「それは、貴方を悩ませている悪魔です。」

 

たとえ彼等が成長せずに生きていても、成長がなく肉欲が続く教会の状況下であっても、恐れがありません。

 

私達は、それを個人の弟子としての資質が欠けているせいだと考えています。

 

そして私達は、それを肉的なクリスチャンの教義として片付けます。

 

肉的なクリスチャンの教義は、より多くの命を破壊し、より多くの人々を地獄に送り込んで来ました。

 

クリスチャンは罪と闘っていますか。

 

はい。

 

クリスチャンは罪に陥る可能性がありますか。

 

全く持って。

 

クリスチャンは、実を結ばずに生涯ずっと肉欲の継続的な状態を生き続け、真にクリスチャンである事が出来るでしょうか。

 

全く持って出来ません。

 

それとも、契約における新約聖書に関する旧約聖書の約束は全て失敗し、へブル人への手紙で規約について神が述べた事は全て嘘なのでしょうか。

 

木はその実によって分かります。

 

私達が人々と回心運動に取り組んでいる時、神の事柄について多くの事を理解している説教者を見て来ましたが、模範的な福音の提示を行なった後でさえ、彼等は再びこの方法論に陥るのです。

 

ポール・ウォッシャー牧師説教より

 

 

 

NAR(新使徒改革)の指導者達は、世界がキリストが再臨する直前に終りの時代のリバイバルを見るだろう事を信じています。

 

NARの使徒や預言者、伝道者や牧師、そして教師達は、来るべきリバイバルの期待を高め、この予言的出来事の緊急性を強調します。

 

説教や講演では、聖徒の集合や終りの時代の収穫など、聞き手の注意をこの予言に集中させるために、様々なキーワードが使われています。

 

集会はリバイバルをテーマに宣伝され、本や文献は小さなリバイバルの一つが、予言されている世界的なリバイバルをもたらすかもしれないという考えを進展させています。

 

NAR以外の多くのクリスチャンにとって、終末のリバイバルという概念は非常に懐疑的なものなのです。

 

殆どのキリスト教徒は、そのような出来事を見ることを喜ぶでしょうが、そのようなリバイバルの可能性が非常に低い事を示唆する聖書の重要な箇所(第二テサロニケ2章1~3節)を再認識しています。

 

彼等はまた、終末リバイバルの概念を支持するために使用された一部の聖句は見当違いであり、代わりに聖書の歴史の中で起こった出来事に言及していると指摘しています。

 

NARの指導者達が、終末のリバイバルを送って下さる事を忘れて祈る時、彼等はしばしば、NARの使徒と預言者に権力が移行するまでの歴史の中で、現代の初期の原型の一つであったアズサ・ストリート・リバイバルを神に思い起こさせます。

 

NAR版アズサ・ストリート・リバイバルによると、このリバイバリスト達は、聖なる神聖な超自然的な出来事を体験し、無数の人々がリバイバルに参加し、即座にペンテコステ派の信仰に改宗したと言っています。

 

興味深い事に、現代のペンテコステ派のグループの中には、アズサ・ストリートのNARの使徒達の議題や終末のリバイバルがどのようなものであるかという概念と関係があるかもしれないというNARの考えを否定するものもあります。

 

彼等はNARの神権主義と支配主義の観念形態に反対しているだけでなく、アズサ・ストリートで起こった事の歴史にも精通しています。

 

アズサ・ストリート・リバイバルに関連するNAR版の歴史は、まるでおとぎ話のようです。

 

もし時間を巻き戻して、1906年のリバイバルを訪れる機会があったとしたら、現在のNARの中で参加した人は殆どいないでしょう。

 

 

 

NARの指導者達は、しばしば自分達をアズサ・ストリート・リバイバルの歴史家だと考えています。

 

リバイバルはしばしば、聖霊の注ぎが数ヶ月に渡って起こる、神の霊感による聖なる出来事と表現されます。

 

これらの歴史家と呼ばれる人達は、リバイバルに参加したペンテコステ派か、参加した人と親しい間柄にあったペンテコステ派の人達から聞いた話しに基づいて、この出来事について殆ど一方的な見解を示しています。

 

NARに関する主な魅力は、ペンテコステ派がリバイバルの間に信者に譲渡されると信じていた異言を話す賜物でした。

 

しかしながら、その話題は部分的には真実であり、新聞が奇妙な舌の泡と呼んだものは、多くの観衆を魅了しました。

 

改宗者といわゆる未信者が混ざって、この騒ぎを興味津々に見ていました。

 

(このアズサリバイバルは)NARが描いたイメージとは異なり、ペンテコステ信仰への新たな改宗は目的ではありませんでした。

 

出席した好奇心旺盛な人々は未信者として非難され、ウィリアム・シーモアは、リバイバル開始から2週間も経たないうちに、彼等の魂に非難の言葉を浴びせかけました。

 

1906年4月18日付の日刊ロサンゼルスタイムズ紙に記事が掲載された事で、世間は突如としてこの異常な光景に気付いたのです。

 

緊張は劇的に高まりました。

 

チャールズ・フォックス・パーハムの神学をシーモアが解釈した事に共鳴する人達だけの小さなリバイバル集会として始まったものが、たちまち、潜在的なパーハムが主役の宗教サーカスとなり、緊張は劇的に高まって行きました。

 

リバイバルの参加者の内、この宗教に改宗したのは十人に一人だけであると推定されており、後の残りは入場無料のスリルを味わうだけの参加者でした。

 

 

NARが主張するように、異言を語ることがリバイバルの主な魅力でしたが、後世の記述にあるような理由ではありません。

 

聖書からの説教は、いくつかの理由からごく僅かなものでした。

 

大騒動になる前に、シーモアは舌の教義に関するパーハムの理論を教えに来ていました。

 

ニュースが広まり、いわゆる未信者達がその過程を調べ始めた時、シーモアは宗教的熱狂のエピソードの合間に、僅か一語か二語の間隔で聖書を読んでいた事が分かりました。

 

また、読み書きの出来ない者達が、神から聖書を読む力を与えられたと主張したのですが、この新しい力を示す事は出来ませんでした。

 

大勢の観客を集めた珍しいアトラクションは、これだけではありませんでした。

 

NARの使徒達は用語上の別名、いわゆるホーリーキック(聖なる蹴り)について言及していません。

 

この省略は、ホーリーキッカーが危険な状態になった時、市職員が現場に呼び出されたという事実によるものと考えられます。

 

リバイバルが始まって僅か数週間で、リバイバリストたちは熱狂の渦に巻き込まれました。

 

何人かの参加者は犬のように吠え始め、他の参加者は床を踏み鳴らし、何人かの女性は床に横たわり、ヒールを空中に蹴り上げ(ホーリーキック?)、礼拝中に体の一部を露出させていました。左矢印制御不能の無法地帯状態?=無秩序

 

 

 

そのため、新聞はストリップクラブのような露出狂が許されている以上の露出をしていると指摘したほどでした。

 

何人かのキッカーは、外に飛び出し、男性の首に腕を回して男性同伴者を連れて戻って来ました。

 

目撃者の証言によれば、一人の男性が辛うじて狂気から逃れたと言います。

 

中には、より力を享受するために夫と子供を捨てたと公言する女性もいました。

 

男性も女性も、その時代のキリスト教徒らしからぬやり方で公然と抱擁を交わし、好奇心旺盛な数人の少女達がリバイバルに無防備に入り込む原因となったようです。

 

聖書から一つか二つの御言葉を読み上げ、蹴ったり踏みつけたり、意味不明な言葉を発したりする間に、預言者達は主からのものとされる言葉を預言として口にし始めました。

 

それら記録されている英語での外れた多くの予言は、一部の男性によって、その予言が既知のものでない言葉を発したため、グループにとって役に立たないと主張されました。

 

その他の予言には、鉄道は曲がって使えなくなるという予言や、鋼鉄製の桁が落下し、ロサンゼルスの大規模なビルが崩壊することも予言されていました。

 

ある予言では、自動車は動力がなくなると突然停止すると宣言したり、シカゴやロサンゼルス、そしてパサディナのような大都市の完全崩壊が予言されました。

 

警察がたびたびそのリバイバルに呼ばれましたが、それは単に、人々を妨害したためではありません。

 

新たに改宗した人の中には、心神喪失で逮捕される前に、猥褻な言葉を使った者もいました。

 

一人の男性がアズサ・ストリート・ミッションの外で所持していた宝石で刺されました。

 

その男性は、名誉の問題であり、教会の前で数人の男の内の一人に刺されたのだと言う事以外には、相手や宝石の入手理由についての詳細を語ろうとしませんでした。

 

ミッションに参加した女性達の何人かが、夫の下を去ったという事実を考慮すると、この宝石について重大な疑問が生じます。

 

警察の報告書から、キリストへの改宗は、アズサ・ストリート・リバイバルの議題に含まれていなかったことが明らかになっただけでなく、集会に参加していた未信者達は、リバイバルの指導者達から罵られていた事が判明しました。

 

しかし、62歳のE.P.ハレンのように、身体的暴行を受けた者もいました。

 

どうやら、リバイバルの終わり頃、アズサ・ストリート・リバイバルに参加していた牧師達は、罪人の参加は認めないと公言したようです。

 

ハレン・ローズが教えを請いながら罪を告白しようとすると、数人の信徒が彼を掴んで建物から追い出しました。

 

老人がひどい打撲を負い、病院に運ばれました。

 

アズサ・ストリート・リバイバルで行なわれた出来事のNAR版の多くは、終りの時代のリバイバルの議題を促進することだけを目的とした虚構です。

 

(アズサ)リバイバルの一面は、NARのリバイバルとよく似ています。

 

警察の報告書から、リバイバリスト達がチャネリング(媒介)した、いわゆる(明らかに聖霊でない)が、平和のためのものでない事は明らかでした。

 

四六時中騒ぐリバイバリストを制止するために警察が呼ばれても、彼等は殆ど応じず、平和を乱したとして逮捕されることもありました。

 

中には、刑務所で同じような騒ぎを起こしながら、永遠の炎が警察本部長を苦しめるよう神に祈る(呪う?)者さえありました。

 

警察の外科医が呼ばれ、逮捕された人々を診察したところ、少なくとも一人は感情的な精神異常を来しており、自分が罪を滅ぼしていると信じて、いつ暴力行為を犯してもおかしくないという恐怖にさいなまれている事が分かったのです。

 

 

 

 

 

 

新使徒運動の基盤となっている後の雨運動は、結局カルト的リバイバル運動なのだという事がよく理解できました。

 

 

 

 

(偽の)後の雨リバイバルの中心人物であったウィリアム・マリオン(実名マーヴィン)・ブラナムは、自分を神に祭り上げ、御言葉を宣べ伝えるよりも、癒しや奇跡を強調したミニストリーを繰り広げた人物です。

 

彼は、「使徒達の時代の御言葉は、今日の時代には通用しない」、また、「ペンテコステの日に降りた御言葉は、今日には機能しない」と語っています。

 

いわゆる、新旧の聖書全体の御言葉を否定し、使徒ペテロと使徒2章に記されている御言葉を否定し、「私(ブラナム)が貴方にとっての神の声です」と言っているのです。

 

因みに、彼も例に漏れず、カルトリーダーにはお馴染みの(堕)天使の訪れとその導きの言葉が与えられています。

 

 

 

 

窮めつけなのは、ブラナムは人民寺院の教祖であるジム・ジョーンズとも繋がりがありました。

 

 

 

 

以下のポール・ウォッシャー牧師の説教を訳してみました。

 

 

 

私は、イエス様を貴方の人生の主人(以下にして下さいと言っているのではありません。

 

その理由を教えてあげましょう。

 

イエス様は、貴方の人生の主なのです。

 

イエス様は、貴方の人生における本当の主なのです。

 

神がイエス様を貴方の人生の主とされたのです。

 

神は、イエス様をその右の座に高く上げ、この時代だけでなく、来るべき時代においても、イエス様の御名において、名指しされる全ての名の上に置かれ、そして、全ての膝がひざまずき、全ての舌が、イエス様が主である事を告白するのです。

 

つまり、イエス様は貴方の全人生と、また、永遠における主なのです。

 

私は貴方にイエス様を主にするように求めているのではなく、イエス様に服従することを認めて欲しいのです。

 

愚かな事を止め、イエス・キリストの主権に服従する事を…。

 

では、どうすれば良いのでしょうか。

 

まず第一に、イエス様が言っている事は、全ての人は罪を犯しており、神の栄光に及ばないという事です。

 

そして、アダムの堕落以来、自分の行いや善行によって神の御前に受け入れられる者は、たとえ貴方の最善の行いであっても、汚いぼろきれのような物なのです。

 

まず初めにする事、それは自分が何者であるのか、イエス様が自分について何を言っているのかを(御言葉を通して)認識する事です。

 

貴方の実情は絶望的です。

 

貴方は道に迷い、罪の中にいます。

 

そして、もし貴方が今死んだとしたら、全ての被造物は立ち上がって、神が貴方に正しい裁きを下したと断言します。

 

それから、全ての希望を失った絶望のどん底で、自分に出来る事、或いは自分がして来た事の中に、何か輝かしいものを見る事です。

 

貴方は神がイエス・キリストにおいて、貴方のためにして下さった事に目を向けます。

 

あの十字架上で、神の御子はローマ人の手によって死んだのではなく、貴方の汚れ、貴方の罪を背負って死んだのです。

 

そして、貴方に注がれるべき神罰は、全てイエス様に注がれました。

 

イエス様は、神の怒りの杯を飲みました。

 

貴方が永遠に飲み続けるべき神の報いの杯を、イエス様は自分の命を諦め、死ぬ直前に飲んだのです。

 

イエス様は、「完了した。」と言って、全てを支払われました(ヨハネ19章30節)

 

神の報いは、貴方が神に対して犯した罪の一つ一つを償う事を求めました。

 

そしてその償いとは、地獄における永遠でした。

 

なぜでしょうか。

 

なぜなら、貴方は無限の善なる神に対して罪を犯しており、また、その神に対して無限の罪があるからです。

 

しかし、あの十字架の上でイエス・キリストは、貴方の代わりにその罪(の杯)を飲んで下さったのです。

 

救われるためには何をしなければなりませんか。

 

イエス・キリストを主として信じなさい。

 

そうすれば救われます。

 

貴方がした行いによるのではなく、恵みによるのです。

 

それは、信仰によるものであり、受け取るべき無償の賜物です。

 

貴方は、「私がそれを受け取った事をどうやって知るのか」と言うでしょう。

 

まあ、私や他の人が単に「貴方は正しい言葉で祈ったから救われたのです」と言ったから、そうなる訳ではありません。

 

神が貴方の心の中で何かをして下さった事によって知るのです。

 

神は、ご自分が何かした事をその霊で証し、そして、貴方の人生が変わり始めるので、貴方もそれを知るでしょう。

 

一晩で変わるとは限りませんが、変わる可能性もあります。

 

しかし、それは変わり始めます。

 

貴方は、主を知りたいという新たな欲求を持ち、その思いは成長するでしょう。

 

その思い(聖霊)は、貴方を追いかける誰かのようになります。

 

貴方に罪を告げ、貴方の歩むべき道と歩んではならない道を示します。

 

貴方は、残りの人生を通して続く変化を経験するでしょう。

 

主イエス・キリストを信じれば、救われます。

 

信じる事を拒む者は、既に罪に定められています。

 

 

 

 

私たちは救われた。過去

We have been saved. Past

 

エペソ2章/Ephesians 2 (ESV)

8)あなたがたは、恵みの故に、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 

For by grace you been saved throgh faith, and this is not your own doing; it is the gift of God,

 

9)行ないによるのではありません。誰も誇ることのないためです。

 

Not a result of works, so that no one may boast.

 

私たちは救われている。現在

We are being saved. Present

 

第一コリント1章18節/1 Corinthians 1:18

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

 

For the word of cross is folly to those who are perishing, but to us who are being saved it is the power of God.

 

私たちは救われる。未来

We will be saved. Future

 

へブル1章14節/Hebrews 1:14

御使いはみな、仕える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために遣わされたのではありませんか。

 

Are they not all ministering spirits sent out to serve for the sake of those who are to inherit salvation?

 

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申命記8章3節/Deu 8:3 (HNV)

それで主は、貴方を苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖も知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべてのもので生きる(マタイ4:4、ルカ4:4、アモス8:11)、ということを、あなたにわからせるためであった。

 

He humbled you, and allowed you to hunger, and fed you with manna, which you don't know, neither did your fathers know; that he might make you know that man does not live by bread only, but by everything that proseed out of the LORD does man live (Mat 4:4, Luke 4:4, Amos 8:11).

 

私達は、霊的食物のマナである神の御言葉と聖霊の導きによって、霊的に成長して行かなければ、救いの相続者になる事は出来ないのです。

 

We cannot become heirs of salvation unless we grow spiritually through the Word of God, which is the manna of spiritual food, and the guidance of the Holy Spirit.

 

神の御言葉の何たるかを知らずに救いを受け取った初期の段階のまま、何の変化もなく、霊的マナである御言葉を自分自身で読んで学ばず、聖霊によって導かれもしない、何の成長も見られないクリスチャンであってはいけないのです。

 

We must not remain in the initial stage of receiving salvation without knowing what the Word of God is, without any change, without reading and studying the Word, the spiritual manna, for ourselves, without being led by the Holy Spirit, and without seeing any growth as Christians.

 

私達は霊的戦いにおいて、主なる神キリストの御言葉によって、何が正しく、また正しくないのか、真実か偽りなのかを見分けていかなければならなりません。

 

We must discern what is right and what is wrong, true or false, by the Word of Christ the Lord God in spiritual warfare.

 

ですから、キリストに従う者は、悪に立ち向かう際に、御言葉に疎い者であってはいけないという事です。

 

Therefore, followers of Christ must not be ignorant of the Word when confronting evil.

 

第一ヨハネ1章9節/1 John 1:9 (ESV)

もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 

If we confess our sins, he is faithful and just to forgive us our sins and to cleanse us from all unrighteousness.

 

 

世の中、色々なカルト宗教がありますが、こちらに挙げるものは、日本政府においては異端ではなく、正式なキリスト教の一派に数え挙げられているというのが不思議でなりません。

 

一般のキリスト教界隈では、異端視されているというのに…。

 

更に、日本のキリスト教の登録者数がおよそ190万人で、その内、この宗教の会員数が約60万人ということは、日本のキリスト教人口の約3割をこの宗教が占めているという事になる訳です。

 

これって、結構やばくないですか?

 

以下のビデオの最初の10分くらいまで訳してみました。

 

 

 

 

文師は、幼少期に透視能力があり、未来が見えると語っています。

 

彼が15歳の時、イースターの日曜日の朝、祈るために山に登り、雲の中にイエスを見(イエス様に扮した堕天使を見た時点でもうアウトでしょう。ドクロまた、イエスが未完成のミッション左右矢印ヨハネ17章:イエス様のミッションは完成されています。)を彼が引き継ぐように言われたと主張しています。

 

文師は、自分は救世主であり、イエスが果たせなかったこと、すなわち世界に平和をもたらし、世界一つの信念体系の下に統一することを果たす事を主張しており、それが、統※教会(今は統※家庭連合)と呼ばれる理由でもあります。

 

文師はその後、仏陀やモハメッド、孔子、その他の宗教的預言者たちの霊的な出会いがあった(完全にアウトでしょう。ドクロと主張しています。

 

彼は、北朝鮮の収容所で得た洗脳技術を、後に統※教会の強化方針に組み込みました。

 

彼の神学は、キリスト教、儒教、シャーマニズム、反共産主義が入り混じったものです。

 

文師は既婚者ですが、若い女性信者と寝て浄化する(何じゃ、そりゃ…びっくりと言われています。

 

1957年に発行された原理講論は、教会の案内テキストとなりました。

 

彼の著書は基本的に、いかに自分が真の父であり、真の親であり、世界を救う救世主であるか(文師が神格化されています。えーについて書かれています。

 

文師は、人間の堕落はエデンの園でイブが禁断の果実を口にした時に始まったと述べています。

 

全ての恋愛関係は不完全なもので、アダムとイブは、結婚を祝福するのを待たず、イブは、成人する前にルシファーと、そしてアダムと結ばれたのです(そんな内容、聖書のどこにも記されていません目

 

統※教会で祝福を受けることで、この原罪がもたらした弊害を取り除く事が出来るのです(出来ないでしょう真顔

 

文師と鶴子夫人は新しい親であり、真の子供達を産み、地上に天の御国をもたらすのだから、文師によって祝福されたカップルが結婚し、祝福された時、その子供達は祝福された子供達となり、原罪を持たずに生まれて来るのです(もう完全に異端でしょう叫び

 

文夫妻の七男が興したサンク※*アリ教会も銃をシンボルとしたアラカルト…。爆弾

 

 

 

 

このようなカルト宗教に未だに騙されている人、目を覚まして下さい!